東西の本願寺に挟まれた植柳(しょくりゅう)という地域がある。少し西寄りに古びた小学校がある。交通指導の老人に尋ねると、植柳という地名そのものが、小学校から生じたものらしい。明治以来この地に立ち続けるという由緒あるこの植柳小学校も、在校生が80名足らずとなり、来年か再来年には廃校となる予定だ。
「有名な人もぎょうさん出ております」と誇らしげな表情を作った老人の口から漸く出てきた数人の著名人に聞き覚えはなかった。
信号が変わるまでのつもりが、暫く立話になった。と言おうか、老人がなかなか放してはくれなかったのだ。小学校とともに消え去る運命にある自らの記憶を蘇生させたい。老人は通りすがりのストレンジャーの目をきっと見つめて話し続けた。
2009-12-04
師走
12月1日。師走に入った。初日から高速列車で西へ移動した。
ぬけるような青空を眺めながら初期のビートルズを聴いた。バタバタと泥臭い所謂ロックンロールのカバー曲が多いことにあらためて驚いた。もう随分長いこと、きちんとアルバムを通して聴いてなどいなかった。二百数十曲のなかから好き勝手にプレイリストなどを作成し、上澄みだけを摘んで食べていただけだった。道理で上手く歌えるはずなどなかった。
昨日は何の気無しに飛び込んだ本屋で珍しく芥川などを手に取った。いや、正直に言えば学生時代にほんの一二冊を図書館で捲って以来初めてだ。書店で彼の作品を購入したことなどなかった。恥じるわけではないし正直に読みたいと思ったこともなかった。ところが昨日はどうだ。扉を潜るなり、視線が真っ直ぐに彼のコーナーへ向けられると一瞬も動くことはなく、まさに吸い寄せられるように足が向かい、たった二冊残った文庫本を鷲掴んでいた。長い旅路の暇を弄ばぬためだったはずが、事もあろうに芥川だ。
いま車中で、it's only loveなど耳にしながらページを捲っている。蜘蛛の糸をはじめ短編が収録されている。「蜜柑」では思わず目頭を熱くした。「トロッコ」では、遠い記憶が蘇り故郷をに想いを馳せた。「杜子春」はいま正にこの時代であり、「仙人」は再び己を見つめてみたりした。文章とは実に不思議なものだ。文章とは実に力強いものだ。生きる在りようが滲み出るからだ。道理で未だ感動を与えるに至らないはずだ。
御堂筋の銀杏が美しかった。心斎橋筋では人の距離が心地よかった。空は一日中晴れていた。
通勤時間帯より少し早めの電車で京都へ向かった。運良く座れた。窓側に美人が座った。向かいの女性もそれなりに容姿が整っている。芥川でもあるまいとiPhoneを弄んでいると、二人ともほぼ同時に寝入ってしまった。美しさは一種の緊張感を持つ。与える側の緊張感と受け取る側の緊張感の塩梅がぴったり一致した時に、胸の鼓動の高鳴りや頬の火照りを覚えるのだ。しかし目の前の二人の美しさは彼女たち自らが解き放った緊張感と共に消え去った。窓側の女性は口を半開きにし寝息を立てている。もはや唯の肉の塊だ。淫靡ですらある。それはそれでよいのだけれど、何故に日本人には公然といういう概念を拭い去ることがこれほどまでに容易なのか。半月程前に仕事をともにした欧米人達も驚いていた。
ネットで見つけた和風の旅館を予約してあった。開店一年に満たないそうだ。以前は何かのお店だったものを改築したのだと、従業員が話していた。表の佇まいは実に古風ではあるが、四十年も遡れば母の実家もこのような建屋の商家だった。寄る年波には勝てず改築した。今ではそこいら中に転がるただの家だ。京都にはこうした建物が、少なくなったとはいえ現存している。しかも、それをあえて旅館に仕立て直してしまう。京都だから、といえばそれまでだが、悪くはないと思った。
京都で困るのは食事だ。散々迷った挙げ句、駅前へ戻り百貨店の「レストラン街」で洋食屋へ入った。「おタバコは・・・」と問いが終わる前に頷くと、仕切りの向こう側へ通された。二人掛けの小さなテーブルに着いた。お肉とエビフライをセットにして赤ワインを注文した。
通路を挟んだ四人掛けのテーブルに中年女性のグループが着いた。その隣のテーブルにはカップル。仕切りの向こう側の禁煙スペースには、ご老人と呼んで差し支えのない年代の女性が二人、その向こうには若い女性のグループ、さらにその先には彼女たちの母親と呼べる世代のグループ。みな楽しそうに話し、食べるためにも同様に口を動かしている。ひたすら動かし続けている。私は唯々そのエネルギーに圧倒され、薄くスライスされたフィレステーキが冷めぬうちにと口を動かしている。勿論寡黙にである。
たった一杯のワインの酔いが、そろそろ今日も店終いであることを告げてきた。思えば師走である。今年も随分と遠くまで歩いてきたものだ。
ぬけるような青空を眺めながら初期のビートルズを聴いた。バタバタと泥臭い所謂ロックンロールのカバー曲が多いことにあらためて驚いた。もう随分長いこと、きちんとアルバムを通して聴いてなどいなかった。二百数十曲のなかから好き勝手にプレイリストなどを作成し、上澄みだけを摘んで食べていただけだった。道理で上手く歌えるはずなどなかった。
昨日は何の気無しに飛び込んだ本屋で珍しく芥川などを手に取った。いや、正直に言えば学生時代にほんの一二冊を図書館で捲って以来初めてだ。書店で彼の作品を購入したことなどなかった。恥じるわけではないし正直に読みたいと思ったこともなかった。ところが昨日はどうだ。扉を潜るなり、視線が真っ直ぐに彼のコーナーへ向けられると一瞬も動くことはなく、まさに吸い寄せられるように足が向かい、たった二冊残った文庫本を鷲掴んでいた。長い旅路の暇を弄ばぬためだったはずが、事もあろうに芥川だ。
いま車中で、it's only loveなど耳にしながらページを捲っている。蜘蛛の糸をはじめ短編が収録されている。「蜜柑」では思わず目頭を熱くした。「トロッコ」では、遠い記憶が蘇り故郷をに想いを馳せた。「杜子春」はいま正にこの時代であり、「仙人」は再び己を見つめてみたりした。文章とは実に不思議なものだ。文章とは実に力強いものだ。生きる在りようが滲み出るからだ。道理で未だ感動を与えるに至らないはずだ。
御堂筋の銀杏が美しかった。心斎橋筋では人の距離が心地よかった。空は一日中晴れていた。
通勤時間帯より少し早めの電車で京都へ向かった。運良く座れた。窓側に美人が座った。向かいの女性もそれなりに容姿が整っている。芥川でもあるまいとiPhoneを弄んでいると、二人ともほぼ同時に寝入ってしまった。美しさは一種の緊張感を持つ。与える側の緊張感と受け取る側の緊張感の塩梅がぴったり一致した時に、胸の鼓動の高鳴りや頬の火照りを覚えるのだ。しかし目の前の二人の美しさは彼女たち自らが解き放った緊張感と共に消え去った。窓側の女性は口を半開きにし寝息を立てている。もはや唯の肉の塊だ。淫靡ですらある。それはそれでよいのだけれど、何故に日本人には公然といういう概念を拭い去ることがこれほどまでに容易なのか。半月程前に仕事をともにした欧米人達も驚いていた。
ネットで見つけた和風の旅館を予約してあった。開店一年に満たないそうだ。以前は何かのお店だったものを改築したのだと、従業員が話していた。表の佇まいは実に古風ではあるが、四十年も遡れば母の実家もこのような建屋の商家だった。寄る年波には勝てず改築した。今ではそこいら中に転がるただの家だ。京都にはこうした建物が、少なくなったとはいえ現存している。しかも、それをあえて旅館に仕立て直してしまう。京都だから、といえばそれまでだが、悪くはないと思った。
京都で困るのは食事だ。散々迷った挙げ句、駅前へ戻り百貨店の「レストラン街」で洋食屋へ入った。「おタバコは・・・」と問いが終わる前に頷くと、仕切りの向こう側へ通された。二人掛けの小さなテーブルに着いた。お肉とエビフライをセットにして赤ワインを注文した。
通路を挟んだ四人掛けのテーブルに中年女性のグループが着いた。その隣のテーブルにはカップル。仕切りの向こう側の禁煙スペースには、ご老人と呼んで差し支えのない年代の女性が二人、その向こうには若い女性のグループ、さらにその先には彼女たちの母親と呼べる世代のグループ。みな楽しそうに話し、食べるためにも同様に口を動かしている。ひたすら動かし続けている。私は唯々そのエネルギーに圧倒され、薄くスライスされたフィレステーキが冷めぬうちにと口を動かしている。勿論寡黙にである。
たった一杯のワインの酔いが、そろそろ今日も店終いであることを告げてきた。思えば師走である。今年も随分と遠くまで歩いてきたものだ。
2009-11-18
だいちょう V
目が覚めても床から出たくなかった。空腹も感じなかった。多少の緊張があったのかもしれない。
指示通り下着の予備を鞄に詰め家を出た。外は雨だ。手を延ばしたがいつもの場所に傘はなかった。きっと先週のドタバタの中で紛失してしまったに違いない。今のいままで気がつきもしなかった。色の異なるエネルギーが弾丸のように目の前を飛び交うなかで、あっという間に過ぎ去った一週間だった。あがってしまった雨さえ気づかなかったのだろう。遠い昔のことのようだ。
折りたたみ傘を引っ張り出し、自動開閉ボタンを押したが、以前のようにパンとは開かない。布地の張りが失われたのか、骨組みが弛んでしまったのか。おそらくその両方だろう。
普段乗り慣れない通勤時間帯の地下鉄に詰め込まれた。何故だか周りはオジサンとオバサンばかり。痴漢の疑いを負うこともないだろうからむしろ気が楽だ、と考えるのはこちらも年老いたせいだろうか。そういえば、さきほどからツンと鼻をつく匂いが漂う。自分の匂いではないぞと真っ先に考える。しかし、その自信もない。もしもこの匂いが自分の発するものだと考えると、膝から力が抜けていく。
ジジババから顔を背けると目の前には青い長髪がいた。ほとんど直毛に近い髪の毛が先の方に向かって青くグラデーションに染め上げられている。両耳に嵌められたイアフォンからはメタルだかパンクだかそんな類の曲が溢れてきている。妙な感じを覚えた。見た目は確かに突っ張った若者だ。着古した革のジャンパーも決まっている。しかし、そんな彼が周囲に放つオーラは、どこか温もり感じさせる土の匂いに近い。寒風の中に一人立ちつくし遠い空の果てを見つめるような。こちらに背を向けた彼の顔は伺えない。おそらく彼も、こんなことを感じてしまった私と目を合わせたくはないだろう。
ゲロのようだと改めて思った。新宿のような大きな駅では勿論、四ッ谷は三路線が乗り入れているせいだろうか、予想以上に乗降客が多い。停車直後に一旦静まりをみせる乗客は、ドアが開かれると同時、一機に車外に吐き出される。いや、自ら飛び出していく。「俺はゲロなんかじゃないぞ」と自らの意志で勢いよく飛び出していく。しかし、そうすればするほどゲロの一滴にしか感じることができない。皮肉なものだ。ホームには、めかし込んだゲロ予備軍が列をなして待機しているのだ。
「○○さぁ~ん」
看護婦さんが元気なのは、元気な人だけを採用せよという決まりがあるためなのか、それとも看護婦さんという職業が彼女たちを元気者に変えていくからなのだろうか。
ホッペをパンパンにしたナースの一人が忙しなく本日の段取りを説明している。時々、「ああ、そうか」などと何事かを思い出しながら、一日がかりになるであろう大腸カメラによる内視鏡検診の手順を説明する。説明書の裏表を一通り終えると、ナースは徐に医療用の薄いゴム手袋をはめてこう言った。
「では、座薬を入れます」
「エッ!? 自分で入れちゃダメなんですか?」
「そういうわけにはいかないんですよ」
頬をパンパンに膨らませたナースは、うっすら笑みを浮かべている。左手にはワセリン、右手に座薬をつまみ、準備は整っていますというように頷いた。
覚悟を決めてベルトを外し、ジーンズを下ろす。フウとひとつ息を吐いて、下着を下ろす。膝の辺りで、「その辺でいいいです」とナースが制する。上体を倒しベッドに両手で支える。背後にナースの視線を感じる。ナースの手が、正確に言えば彼女がはめたゴム手袋の感触が、私を後ろから静かに開いていく。ワセリンの冷たさを僅かに感じたかと思うと、小さいながら硬質な塊がズンと突き進んできた。声にならない呻きを一つ飲み込んで、大丈夫ですかというナースの問いに小さく「ハイ」と返した。
※以降は鎮静剤のため夕方まで意識がもうろうとしていたので、ここでおわり。
指示通り下着の予備を鞄に詰め家を出た。外は雨だ。手を延ばしたがいつもの場所に傘はなかった。きっと先週のドタバタの中で紛失してしまったに違いない。今のいままで気がつきもしなかった。色の異なるエネルギーが弾丸のように目の前を飛び交うなかで、あっという間に過ぎ去った一週間だった。あがってしまった雨さえ気づかなかったのだろう。遠い昔のことのようだ。
折りたたみ傘を引っ張り出し、自動開閉ボタンを押したが、以前のようにパンとは開かない。布地の張りが失われたのか、骨組みが弛んでしまったのか。おそらくその両方だろう。
普段乗り慣れない通勤時間帯の地下鉄に詰め込まれた。何故だか周りはオジサンとオバサンばかり。痴漢の疑いを負うこともないだろうからむしろ気が楽だ、と考えるのはこちらも年老いたせいだろうか。そういえば、さきほどからツンと鼻をつく匂いが漂う。自分の匂いではないぞと真っ先に考える。しかし、その自信もない。もしもこの匂いが自分の発するものだと考えると、膝から力が抜けていく。
ジジババから顔を背けると目の前には青い長髪がいた。ほとんど直毛に近い髪の毛が先の方に向かって青くグラデーションに染め上げられている。両耳に嵌められたイアフォンからはメタルだかパンクだかそんな類の曲が溢れてきている。妙な感じを覚えた。見た目は確かに突っ張った若者だ。着古した革のジャンパーも決まっている。しかし、そんな彼が周囲に放つオーラは、どこか温もり感じさせる土の匂いに近い。寒風の中に一人立ちつくし遠い空の果てを見つめるような。こちらに背を向けた彼の顔は伺えない。おそらく彼も、こんなことを感じてしまった私と目を合わせたくはないだろう。
ゲロのようだと改めて思った。新宿のような大きな駅では勿論、四ッ谷は三路線が乗り入れているせいだろうか、予想以上に乗降客が多い。停車直後に一旦静まりをみせる乗客は、ドアが開かれると同時、一機に車外に吐き出される。いや、自ら飛び出していく。「俺はゲロなんかじゃないぞ」と自らの意志で勢いよく飛び出していく。しかし、そうすればするほどゲロの一滴にしか感じることができない。皮肉なものだ。ホームには、めかし込んだゲロ予備軍が列をなして待機しているのだ。
「○○さぁ~ん」
看護婦さんが元気なのは、元気な人だけを採用せよという決まりがあるためなのか、それとも看護婦さんという職業が彼女たちを元気者に変えていくからなのだろうか。
ホッペをパンパンにしたナースの一人が忙しなく本日の段取りを説明している。時々、「ああ、そうか」などと何事かを思い出しながら、一日がかりになるであろう大腸カメラによる内視鏡検診の手順を説明する。説明書の裏表を一通り終えると、ナースは徐に医療用の薄いゴム手袋をはめてこう言った。
「では、座薬を入れます」
「エッ!? 自分で入れちゃダメなんですか?」
「そういうわけにはいかないんですよ」
頬をパンパンに膨らませたナースは、うっすら笑みを浮かべている。左手にはワセリン、右手に座薬をつまみ、準備は整っていますというように頷いた。
覚悟を決めてベルトを外し、ジーンズを下ろす。フウとひとつ息を吐いて、下着を下ろす。膝の辺りで、「その辺でいいいです」とナースが制する。上体を倒しベッドに両手で支える。背後にナースの視線を感じる。ナースの手が、正確に言えば彼女がはめたゴム手袋の感触が、私を後ろから静かに開いていく。ワセリンの冷たさを僅かに感じたかと思うと、小さいながら硬質な塊がズンと突き進んできた。声にならない呻きを一つ飲み込んで、大丈夫ですかというナースの問いに小さく「ハイ」と返した。
※以降は鎮静剤のため夕方まで意識がもうろうとしていたので、ここでおわり。
2009-10-29
長い長い、カツ丼の話し
たいした距離でもないのに序ででもなければ立ち寄らない場所というのはあるものだ。そのひとつが日本橋人形町界隈。十五年ほど前までは数年間毎日通った場所でもある。今日はその序でがあった。今は消滅してしまった小さな事務所に毎日朝から晩まで居ったのだから、当然昼飯はその界隈で済ませた。人形町には名だたる食い物屋が軒を並べているんだ。
交差点の主ともいえる洋食のキラク、ビーフステーキ2700円は立派なお値段。見かけはほんの数坪の、通り過ぎそうなお店だが歴史は古いんだ。一時は行列が途切れることのなかった親子丼の玉姫。俺は正直、一度も喰ったことがないのだけれどね。すき焼きの今半だって筋ひとつ入った場所に構えている。ランチのお値段は、ほんの少しだがキラクよりお安いんだ。キラクより気楽よ、なんて。しかし、夜は恐ろしい値段に化けるのさ。甘酒横町まで足を延ばせば、よく行ったもんだよ、やきとり久助。見渡せば、どうやらその頃より気の利いたラーメン屋が増えたし、たこ焼きやなんかも進出している。とにかく、食べ物の豊富さでは負けていないんだ、この界隈。
しかし、今日のお目当てはそんな有名でもメジャーでも今風でも何でもない、ただの中華屋。その名も、玉龍亭。名前だけはご立派だが、掘留公園で遊ぶ園児達の声にかき消されてしまうほどの、小さな、それこそ何処にでもある中華屋さんだ。昼時にはダッサイネクタイしめたサラリーマンが雪崩れ込み、半チャーハンとラーメンなんかをかき込むような、そんな昼飯屋だ。黄色の庇に赤い明朝体で「玉龍亭」。どうしても、そこへ行きたくなった。
なにせ十五年も前、当時既に充分にお年を召された父ちゃん母ちゃんがやっていた店。ひょっとしたら、危なっかしい連中に追い立てられて店をたたんでしまっただろうか。それとも、お父ちゃんのほうは逝っちまったんじゃないだろうかと、胸をドキドキさせながら辿り着いた。辿り着いたら、昔のまんまにそこにあった。昔の通りダッサイネクタイが暖簾をくぐり抜けていく。ちょっとしたタイムスリップだ。こっちも今よりずっと若くてダッサイネクタイを気取って締めていたりしたっけ。
前置きが長くなったが、何を隠そうこの玉龍はカツ丼の名店なんだ。って、俺が勝手に決めつけているだけなんだけど。いや、当時同じ事務所に通ったヤツも未だに「玉龍のカツ丼が無性に食いたくなる」と言っていたことがあるから、まんざらでもないんだ、玉龍のカツ丼。トンと置かれた丼の中で、少し残った半熟がプルるんと揺れるあの感じ、たった今揚げたての湯気を立ててるカツそのものだって、端っこにカリッとした衣の歯ごたえが残る職人技で、たいした肉でもないのに若さが求める「肉」の食感をきちんと満たしてくれる歯ごたえもほどよかった。隠れファンは確かに存在するんだ。今日は、その「無性に」が俺に訪れたわけだ。いやいや嘘はいけませんぜ、旦那さん。実は何日も前から楽しみにしていたくせに。そ、そうなんだ。iPhoneのスケジューラーに、わざわざ「カツ丼」なんて入力までして、打合せの相手に昼を誘われた時の用心に、「いや、今日は予定が立て込んでましてね」なんて白々しい台詞まで用意して、おまけに練習までして、向かったわけなのさ。
「へい、いらっしゃい」
昔のまんまだ。六人掛けが一つと、四人がけテーブルが二つ。時間が早いからテーブルは全部空いているのに、カウンターは満席。何故だかみんなカウンターから着くのがこの店の特徴だ。奧の14インチテレビでは、野茂のメジャーでの活躍もセナの事故死も知ったけ。年老いたはずの父ちゃん母ちゃんは、あれから一日も月日が過ぎていないかのように同じ姿形と元気でいっぱいだ。父ちゃんは、注文を復唱する時も挨拶をする時も、背中を丸めた格好で始終身体を揺らしながら中華鍋を振っていた。まるでカンフーサッカーのやけに頭突きの凄いオッさんみたいな風貌だ。額から汗が噴き出ている。カウンターの席に着くと、その元気と一緒に昼飯が腹を満たしてくれたんだ。
俺は正直十五年ぶりの、今となっては一見さんだから、大人しくテーブルに着いたよ。一人ぽつんとね。それで、これも昔と変わらぬプラスチックのメニュー立てを摘み上げた。やけに、スカスカなんだ、そのメニュー。老眼の次は、かすみ目か? いや、当時は裏も表も、麺類から飯類から、もやし炒めだ、ニラレバだ、酢豚だってあるんだぜと、ビッシリと両面を埋めていたメニューは、今や本当にスカスカなんだ。これでもかって程のボリュームが堪らなかったカツカレーも見あたらない。そんな物はどうだっていいんだ、今日はカツ丼よ。って、そのカツ丼の「カ」の字が見つからない。
そんなはずは無いんだよ。玉龍はカツ丼なんだ。カツ丼のない玉龍なんか、荒野のないアメリカ大陸みたいなもんだ。
「あのぉ、カツ丼は?」
「何年も前に止めちゃったのよ」と、元気いっぱいの母ちゃんは、そう言いながら何だか嬉しそうにしている。そんな顔で見つめないでおくれよ。俺はその時、一昼夜かけたグレイハウンドのバス旅の果てにフラれた少年のような情けない表情で母ちゃんを見返していた(に違いない)。
十五年の歳月を経て漸く辿り着いた日本橋堀留町の隠れカツ丼名店玉龍亭で、俺はカツ丼にフラれた。「こんなに長いこと放ったらかしで、どうしてもっと早く迎えに来てくれなかったのよ」という声が何処かでこだまする。どうすればよかったって言うんだ!
カウンターに並んだ背中は、忙しなく右手を動かしエクスタシーに身悶えしながらワンタン麺やら湯麺やらチャーハンをかき込んでいる。そうだよ。フラれた時だって空は青かったさ。その空に向かって「あばよ」と言って、俺はまた旅を続けたんだ。
「広東麺ください」
「はーい、広東麺。広東麺入ったよ」と父ちゃんは悪びれもせず母ちゃんに注文を伝えている。父ちゃんは自分で請けていながら、必ずそうやって母ちゃんに伝える。何年も何年も、仲良くやり続けている。二人でこの小さな店を元気いっぱい生きている。母ちゃん似の、容姿より心よってタイプの娘さんも、今では立派なお母さんになっているに違いない。俺だって立派かどうかは別にして親にもなった。思えば、随分と月日は経ったのだ。
バブルが弾けてもなお、横文字のタイトルや人より少しだけ高額なギャラに踊らされてチャラチャラ途を驀進していた俺たちに関係なく、ずっとずっとこうして地道にこの店を続けてきた父ちゃんと母ちゃんは、今でもこうして二人仲良くダッサイネクタイ達に熱々の昼飯と元気を分け与えている。俺も広東麺で汗だくになった。次の目的地へのエネルギー補給が完了した。
勘定に立つと母ちゃんは、「カツ丼ごめんね。昔のお客さんだね」とニコニコの目つきで言ってきた。「十五年ぶりです」
「あら、このお客さん、十五年ぶりだって。ちょっと、ねえ」と小さな店いっぱいに響き渡る元気な声で父ちゃんに叫んだ。店の客が何事だとばかりに振り返る。俺は恥ずかしくなって、小さな声で「元気でね」と言って背中を向けた。あやうく声が詰まりそうだったよ。
交差点の主ともいえる洋食のキラク、ビーフステーキ2700円は立派なお値段。見かけはほんの数坪の、通り過ぎそうなお店だが歴史は古いんだ。一時は行列が途切れることのなかった親子丼の玉姫。俺は正直、一度も喰ったことがないのだけれどね。すき焼きの今半だって筋ひとつ入った場所に構えている。ランチのお値段は、ほんの少しだがキラクよりお安いんだ。キラクより気楽よ、なんて。しかし、夜は恐ろしい値段に化けるのさ。甘酒横町まで足を延ばせば、よく行ったもんだよ、やきとり久助。見渡せば、どうやらその頃より気の利いたラーメン屋が増えたし、たこ焼きやなんかも進出している。とにかく、食べ物の豊富さでは負けていないんだ、この界隈。
しかし、今日のお目当てはそんな有名でもメジャーでも今風でも何でもない、ただの中華屋。その名も、玉龍亭。名前だけはご立派だが、掘留公園で遊ぶ園児達の声にかき消されてしまうほどの、小さな、それこそ何処にでもある中華屋さんだ。昼時にはダッサイネクタイしめたサラリーマンが雪崩れ込み、半チャーハンとラーメンなんかをかき込むような、そんな昼飯屋だ。黄色の庇に赤い明朝体で「玉龍亭」。どうしても、そこへ行きたくなった。
なにせ十五年も前、当時既に充分にお年を召された父ちゃん母ちゃんがやっていた店。ひょっとしたら、危なっかしい連中に追い立てられて店をたたんでしまっただろうか。それとも、お父ちゃんのほうは逝っちまったんじゃないだろうかと、胸をドキドキさせながら辿り着いた。辿り着いたら、昔のまんまにそこにあった。昔の通りダッサイネクタイが暖簾をくぐり抜けていく。ちょっとしたタイムスリップだ。こっちも今よりずっと若くてダッサイネクタイを気取って締めていたりしたっけ。
前置きが長くなったが、何を隠そうこの玉龍はカツ丼の名店なんだ。って、俺が勝手に決めつけているだけなんだけど。いや、当時同じ事務所に通ったヤツも未だに「玉龍のカツ丼が無性に食いたくなる」と言っていたことがあるから、まんざらでもないんだ、玉龍のカツ丼。トンと置かれた丼の中で、少し残った半熟がプルるんと揺れるあの感じ、たった今揚げたての湯気を立ててるカツそのものだって、端っこにカリッとした衣の歯ごたえが残る職人技で、たいした肉でもないのに若さが求める「肉」の食感をきちんと満たしてくれる歯ごたえもほどよかった。隠れファンは確かに存在するんだ。今日は、その「無性に」が俺に訪れたわけだ。いやいや嘘はいけませんぜ、旦那さん。実は何日も前から楽しみにしていたくせに。そ、そうなんだ。iPhoneのスケジューラーに、わざわざ「カツ丼」なんて入力までして、打合せの相手に昼を誘われた時の用心に、「いや、今日は予定が立て込んでましてね」なんて白々しい台詞まで用意して、おまけに練習までして、向かったわけなのさ。
「へい、いらっしゃい」
昔のまんまだ。六人掛けが一つと、四人がけテーブルが二つ。時間が早いからテーブルは全部空いているのに、カウンターは満席。何故だかみんなカウンターから着くのがこの店の特徴だ。奧の14インチテレビでは、野茂のメジャーでの活躍もセナの事故死も知ったけ。年老いたはずの父ちゃん母ちゃんは、あれから一日も月日が過ぎていないかのように同じ姿形と元気でいっぱいだ。父ちゃんは、注文を復唱する時も挨拶をする時も、背中を丸めた格好で始終身体を揺らしながら中華鍋を振っていた。まるでカンフーサッカーのやけに頭突きの凄いオッさんみたいな風貌だ。額から汗が噴き出ている。カウンターの席に着くと、その元気と一緒に昼飯が腹を満たしてくれたんだ。
俺は正直十五年ぶりの、今となっては一見さんだから、大人しくテーブルに着いたよ。一人ぽつんとね。それで、これも昔と変わらぬプラスチックのメニュー立てを摘み上げた。やけに、スカスカなんだ、そのメニュー。老眼の次は、かすみ目か? いや、当時は裏も表も、麺類から飯類から、もやし炒めだ、ニラレバだ、酢豚だってあるんだぜと、ビッシリと両面を埋めていたメニューは、今や本当にスカスカなんだ。これでもかって程のボリュームが堪らなかったカツカレーも見あたらない。そんな物はどうだっていいんだ、今日はカツ丼よ。って、そのカツ丼の「カ」の字が見つからない。
そんなはずは無いんだよ。玉龍はカツ丼なんだ。カツ丼のない玉龍なんか、荒野のないアメリカ大陸みたいなもんだ。
「あのぉ、カツ丼は?」
「何年も前に止めちゃったのよ」と、元気いっぱいの母ちゃんは、そう言いながら何だか嬉しそうにしている。そんな顔で見つめないでおくれよ。俺はその時、一昼夜かけたグレイハウンドのバス旅の果てにフラれた少年のような情けない表情で母ちゃんを見返していた(に違いない)。
十五年の歳月を経て漸く辿り着いた日本橋堀留町の隠れカツ丼名店玉龍亭で、俺はカツ丼にフラれた。「こんなに長いこと放ったらかしで、どうしてもっと早く迎えに来てくれなかったのよ」という声が何処かでこだまする。どうすればよかったって言うんだ!
カウンターに並んだ背中は、忙しなく右手を動かしエクスタシーに身悶えしながらワンタン麺やら湯麺やらチャーハンをかき込んでいる。そうだよ。フラれた時だって空は青かったさ。その空に向かって「あばよ」と言って、俺はまた旅を続けたんだ。
「広東麺ください」
「はーい、広東麺。広東麺入ったよ」と父ちゃんは悪びれもせず母ちゃんに注文を伝えている。父ちゃんは自分で請けていながら、必ずそうやって母ちゃんに伝える。何年も何年も、仲良くやり続けている。二人でこの小さな店を元気いっぱい生きている。母ちゃん似の、容姿より心よってタイプの娘さんも、今では立派なお母さんになっているに違いない。俺だって立派かどうかは別にして親にもなった。思えば、随分と月日は経ったのだ。
バブルが弾けてもなお、横文字のタイトルや人より少しだけ高額なギャラに踊らされてチャラチャラ途を驀進していた俺たちに関係なく、ずっとずっとこうして地道にこの店を続けてきた父ちゃんと母ちゃんは、今でもこうして二人仲良くダッサイネクタイ達に熱々の昼飯と元気を分け与えている。俺も広東麺で汗だくになった。次の目的地へのエネルギー補給が完了した。
勘定に立つと母ちゃんは、「カツ丼ごめんね。昔のお客さんだね」とニコニコの目つきで言ってきた。「十五年ぶりです」
「あら、このお客さん、十五年ぶりだって。ちょっと、ねえ」と小さな店いっぱいに響き渡る元気な声で父ちゃんに叫んだ。店の客が何事だとばかりに振り返る。俺は恥ずかしくなって、小さな声で「元気でね」と言って背中を向けた。あやうく声が詰まりそうだったよ。
2009-10-20
神戸 夕闇に
19日夕暮れどき。仕事を片付け三ノ宮へ戻ると、明石焼のたちばなへ向かった。これも恒例となった。これまでは、賑やかな街並みとどこか余裕のある人々に触れたくて、散歩がてら元町の店まで足を伸ばしていた。疲れが癒される。今日は五時間に及ぶ移動のため、流石にその気力さえ失せてしまった。駅の目の前、阪神ビルの地下一階にある支店にやってきた。
神戸在住の知人に教えてもらってからだから、はや五年になる。年に一度か二度の客でしかないのだが、こちらはすっかり常連の気でいる。焼きのオバチャンから掛かる「一枚ですか?」の声に、ひょいと人差し指をたてただけで返したりする。その気になっている。
この店を紹介してくれた知人がいうには、「明石焼はオヤツ。ご飯はまたべつです」 大振りのフワフワの明石焼きが10個。しかも、この時刻(五時過ぎ)のものとしては、少々多すぎはしはいか。隣のテーブルに着いた女性二人はペチャクチャと四方山話に花を咲かせながら、ひとつまたひとつと口に放り込んでいる。所謂別腹なのだ。
ところで中年オヤジがこんな場所に一人というのも、と思う間もなくもう一人更なるオヤジが目の前のテーブルについた。ガタイもよろしく、私などよりよほどこの場に似つかわしくない。焼きのオバチャンの声に、やはり頷くだけで答えた。彼も常連なのだ。
オヤジ二人のテーブルを挟むように先ほどの女性達と奥のカップルの話が盛り上がり、負けじと焼きのオバチャンは板さん風の男性相手に携帯電話の話が止まらない。
「184(いやよ)て、頭に付ければ相手に番号はみえへんから」
「いやよってか」
「そう、いやよ」
「なんか、怖いわ」
オヤジ二人は黙黙と明石焼を口にはこぶ。ハフハフしながら、黙って食べる。我々べつに怖い人ではないのだけれど、何故か眉間に皺を寄せ、伏せ目がちの姿勢を保って浮気調査の探偵よろしく食べ続ける。彼の関心事は何だろう。こっちは夕飯の事が頭を過ぎり出した。神戸の街がとっぷりと闇に包まれた。
神戸在住の知人に教えてもらってからだから、はや五年になる。年に一度か二度の客でしかないのだが、こちらはすっかり常連の気でいる。焼きのオバチャンから掛かる「一枚ですか?」の声に、ひょいと人差し指をたてただけで返したりする。その気になっている。
この店を紹介してくれた知人がいうには、「明石焼はオヤツ。ご飯はまたべつです」 大振りのフワフワの明石焼きが10個。しかも、この時刻(五時過ぎ)のものとしては、少々多すぎはしはいか。隣のテーブルに着いた女性二人はペチャクチャと四方山話に花を咲かせながら、ひとつまたひとつと口に放り込んでいる。所謂別腹なのだ。
ところで中年オヤジがこんな場所に一人というのも、と思う間もなくもう一人更なるオヤジが目の前のテーブルについた。ガタイもよろしく、私などよりよほどこの場に似つかわしくない。焼きのオバチャンの声に、やはり頷くだけで答えた。彼も常連なのだ。
オヤジ二人のテーブルを挟むように先ほどの女性達と奥のカップルの話が盛り上がり、負けじと焼きのオバチャンは板さん風の男性相手に携帯電話の話が止まらない。
「184(いやよ)て、頭に付ければ相手に番号はみえへんから」
「いやよってか」
「そう、いやよ」
「なんか、怖いわ」
オヤジ二人は黙黙と明石焼を口にはこぶ。ハフハフしながら、黙って食べる。我々べつに怖い人ではないのだけれど、何故か眉間に皺を寄せ、伏せ目がちの姿勢を保って浮気調査の探偵よろしく食べ続ける。彼の関心事は何だろう。こっちは夕飯の事が頭を過ぎり出した。神戸の街がとっぷりと闇に包まれた。
2009-10-19
無題
車掌が、発車時刻に狂いが生じた理由を駆け込み乗車客がいたためと弁解している。25分間に四度めだ。俺たちはきちんと仕事をしている。問題が起きるのはいつもお前たちのせいだ。
空は気持ちよく晴れている。3時間のあいだにたった6分の遅れを取り戻してくれれば、誰も気にも止めない。
隣に席した男は倍ほどの体格で、きちんと自分のスペースに収まっているにもかかわらず、圧力を感じさせる。脳がそう感じる。その圧力の有無を実証はできない。客観的なものではないからだ。しかし、論証はできるかもしれないと、脳は考える。論証とは自己の内部で為される行為だから必ずしも客観性を伴うわけではない。隣の座席から感じるだけの無言の圧力の有無などという、世界の回転にとっては実にどうでもよろしい論証だから、きっとできたところで至極主観的なものだ。要は、彼の登場が理由のない居心地の悪さを感じただけなのだ。人というものは、いや私は我が儘なのだ。
そんなことを考えているうちに、隣の男がポケットからタバコを取り出して火を点けた。見れば私と同じ銘柄だ。たいへんメジャーなそのブランドの商品のなかにあって、常に継子扱いされるアイテムだ。関西の出張ではいつも入手に苦労するほどのマイナーな商品だ。
男を見れば私と同じような髭も蓄えている。体の威圧感に対して、目尻には人懐こい笑みも浮かんでいる。まんざら厭な人物ではないのかもしれない。
肘掛から取り外された灰皿が、テーブルの上に置かれている。男はタバコを押し付け火を消すと、缶コーヒーを飲み干す前に寝息を立て始めた。そうなのだ、腰掛けているだけとは言っても電車の長旅は意外に疲れる。仕事の前にしばしの休養は有効だ。見ればしっかり腕組みをして、他人のスペースを侵さぬ配慮もある。
それほど厭な人物でははさそうだ。言うほど圧力など感じもしない。私は乗車してから二本目のタバコに火を点けた。男の眠りを妨げぬように窓に向って煙を吐いた。
空は気持ちよく晴れ渡っている。あとは、列車が時刻どおりに到着してくれれば、きっといい日になるに違いない。
空は気持ちよく晴れている。3時間のあいだにたった6分の遅れを取り戻してくれれば、誰も気にも止めない。
隣に席した男は倍ほどの体格で、きちんと自分のスペースに収まっているにもかかわらず、圧力を感じさせる。脳がそう感じる。その圧力の有無を実証はできない。客観的なものではないからだ。しかし、論証はできるかもしれないと、脳は考える。論証とは自己の内部で為される行為だから必ずしも客観性を伴うわけではない。隣の座席から感じるだけの無言の圧力の有無などという、世界の回転にとっては実にどうでもよろしい論証だから、きっとできたところで至極主観的なものだ。要は、彼の登場が理由のない居心地の悪さを感じただけなのだ。人というものは、いや私は我が儘なのだ。
そんなことを考えているうちに、隣の男がポケットからタバコを取り出して火を点けた。見れば私と同じ銘柄だ。たいへんメジャーなそのブランドの商品のなかにあって、常に継子扱いされるアイテムだ。関西の出張ではいつも入手に苦労するほどのマイナーな商品だ。
男を見れば私と同じような髭も蓄えている。体の威圧感に対して、目尻には人懐こい笑みも浮かんでいる。まんざら厭な人物ではないのかもしれない。
肘掛から取り外された灰皿が、テーブルの上に置かれている。男はタバコを押し付け火を消すと、缶コーヒーを飲み干す前に寝息を立て始めた。そうなのだ、腰掛けているだけとは言っても電車の長旅は意外に疲れる。仕事の前にしばしの休養は有効だ。見ればしっかり腕組みをして、他人のスペースを侵さぬ配慮もある。
それほど厭な人物でははさそうだ。言うほど圧力など感じもしない。私は乗車してから二本目のタバコに火を点けた。男の眠りを妨げぬように窓に向って煙を吐いた。
空は気持ちよく晴れ渡っている。あとは、列車が時刻どおりに到着してくれれば、きっといい日になるに違いない。
2009-10-14
ここは梅田地下
今日も仕事を終えて、新幹線までの時間を愉しもうとふらり。
梅田の地下街には、間違いなく故郷にあるあらゆる商店を足した数より多くの店が並んでいるのに、足が向くのはここだけなんだな。別に特長があるわけではないのに。
鳥の巣。
コの字のカウンターは、時間が早いせいで数える程しか客はいない。二月にいた大連出身の女性の顔も覚えていない。目の前には福建省出のふっくらしたお嬢が立つ。豚カツと烏賊とキスの串揚げを一本づつ。それと生中。
キャベツをタレに浸して頬張りはじめると、一つ空けた席の年配が福建省お嬢をたどたどしい中国語で食事に誘い始めた。離れたところから先輩のドッカの省出身者がチャチャを入れてくる。お嬢がすかさず、「ツパラ(お腹いっぱいなんです)」
コの字の角の向こうでは、サングラスの男とポニーテールの男が雇用拡大政策を論じている。反対側の二つ離れた席では、痩せこけた老人が一つづつ薬を口に運んでいる。アサヒの大瓶は半分を過ぎたところから減る気配がない。それを認めた日本人の年配ウエイトレスが言葉を掛ける。
私だけが無言でキスの串揚げを頬張っている。何故だか至福の時。ホント、何故なんだろう。ナンパオヤジは、「時間が」と言い残して立ち去った。政策論議は未だ続いている。クスリの老人は「帰る」と告げた後も水を舐めなめ居座っている。
梅田の地下街には、間違いなく故郷にあるあらゆる商店を足した数より多くの店が並んでいるのに、足が向くのはここだけなんだな。別に特長があるわけではないのに。
鳥の巣。
コの字のカウンターは、時間が早いせいで数える程しか客はいない。二月にいた大連出身の女性の顔も覚えていない。目の前には福建省出のふっくらしたお嬢が立つ。豚カツと烏賊とキスの串揚げを一本づつ。それと生中。
キャベツをタレに浸して頬張りはじめると、一つ空けた席の年配が福建省お嬢をたどたどしい中国語で食事に誘い始めた。離れたところから先輩のドッカの省出身者がチャチャを入れてくる。お嬢がすかさず、「ツパラ(お腹いっぱいなんです)」
コの字の角の向こうでは、サングラスの男とポニーテールの男が雇用拡大政策を論じている。反対側の二つ離れた席では、痩せこけた老人が一つづつ薬を口に運んでいる。アサヒの大瓶は半分を過ぎたところから減る気配がない。それを認めた日本人の年配ウエイトレスが言葉を掛ける。
私だけが無言でキスの串揚げを頬張っている。何故だか至福の時。ホント、何故なんだろう。ナンパオヤジは、「時間が」と言い残して立ち去った。政策論議は未だ続いている。クスリの老人は「帰る」と告げた後も水を舐めなめ居座っている。
2009-10-13
カミさんの○×◇やな
仕事が済んでホテルへの帰り道。遠回りして帰ろと、なんば南海駅へ向って地下道を進むと両手をポケットに突っ込んだ年配の男が一人、何事かを口ずさみながら目の前を歩いてゆく。所謂呟きオヤジ。
こっちも両耳をグルリ回転させて、呟きを聞いてやろうと彼の前面に回り込んだ。
「15日やな、×△□。カミさんの○×◇やな、×△□。ホッ、ホッ、ホッ」
結局、彼が何を呟いていたのかはよく分からなかった。しかし、新宿辺りを徘徊している呟きオヤジとは明らかに違う。ななんだか幸せそうだ。少なくとも彼は、政権への悪口や若もんへの嫉妬や生活苦を吐き出すだけの厭世論者ではない。なんてったって、「カミさん」の後で、ホッ、ホッ、ホッだもの。周囲が嫌悪する理由はないし、事実私は少しだけ癒されもした。ふと、ローマの下町を思い出したりもした。
ゆかりという名のお好み焼き屋へ入った。何故だろう、どうしてもホテルへ辿り着く前に何処かへ立ち寄りたくなったのだ。ミックス焼きが1050円は、安いのかどうか分からない。しかし、ホテルはもう目の前。周囲は吉牛と回転寿し。選択の余地はなかった。
かつて四ツ谷のキングと呼ばれたバーテンが二十歳の頃はきっとこうだったに違いないという風貌の男の子が、キングとは正反対のテキパキとした客捌きを見せている。お好み焼きは柔らかすぎる気がした。
明日、仕事が済んだら梅田の地下街にある串焼き屋へ寄ろう。今年二月に立ち寄った時に、「ワタシ、大連帰りたいよ」と寂しそうな顔を見せた彼女はまだいるだろうか。揚げすぎた串を突き出し、キスは好きかと愛想なく勧めてきた。嫌いじゃないさ、勿論。ただ最近は遠ざかっているんだが。
「大阪でいいところ、大連よりあったかいところよ。それだけよ」そう言って少し眉間に皺を寄せていた。
いや、それだけでいいじゃないか。東京に比べたら、ここは何もかもずっとあったかいよ。そう言う代わりに、もう一杯の麦酒をのんだっけ。
こっちも両耳をグルリ回転させて、呟きを聞いてやろうと彼の前面に回り込んだ。
「15日やな、×△□。カミさんの○×◇やな、×△□。ホッ、ホッ、ホッ」
結局、彼が何を呟いていたのかはよく分からなかった。しかし、新宿辺りを徘徊している呟きオヤジとは明らかに違う。ななんだか幸せそうだ。少なくとも彼は、政権への悪口や若もんへの嫉妬や生活苦を吐き出すだけの厭世論者ではない。なんてったって、「カミさん」の後で、ホッ、ホッ、ホッだもの。周囲が嫌悪する理由はないし、事実私は少しだけ癒されもした。ふと、ローマの下町を思い出したりもした。
ゆかりという名のお好み焼き屋へ入った。何故だろう、どうしてもホテルへ辿り着く前に何処かへ立ち寄りたくなったのだ。ミックス焼きが1050円は、安いのかどうか分からない。しかし、ホテルはもう目の前。周囲は吉牛と回転寿し。選択の余地はなかった。
かつて四ツ谷のキングと呼ばれたバーテンが二十歳の頃はきっとこうだったに違いないという風貌の男の子が、キングとは正反対のテキパキとした客捌きを見せている。お好み焼きは柔らかすぎる気がした。
明日、仕事が済んだら梅田の地下街にある串焼き屋へ寄ろう。今年二月に立ち寄った時に、「ワタシ、大連帰りたいよ」と寂しそうな顔を見せた彼女はまだいるだろうか。揚げすぎた串を突き出し、キスは好きかと愛想なく勧めてきた。嫌いじゃないさ、勿論。ただ最近は遠ざかっているんだが。
「大阪でいいところ、大連よりあったかいところよ。それだけよ」そう言って少し眉間に皺を寄せていた。
いや、それだけでいいじゃないか。東京に比べたら、ここは何もかもずっとあったかいよ。そう言う代わりに、もう一杯の麦酒をのんだっけ。
2009-09-29
イタリアの秋刀魚と築地の万年筆
蝋燭も並べられらいほどの齢を祝ってもらった上に、イタリア製の万年筆と新幹線図鑑と携帯電話充電器とシルバーの絶縁テープに加え秋刀魚までもらって帰宅した。二日連続分泌され続けた脳内麻薬のおかげか熟睡もできた。大量に煽ったアルコールも残っておらず朝はすっきり目が覚めた。
目が覚めると真っ先に秋刀魚の事が頭に浮かんだ。「築地で仕入れたんです」という店長の言葉が耳の奧に残っているような。とにかく早く食べたい。自ら秋刀魚を焼くなどおそらく二十年ぶりだ。窓をいっぱいに開け玄関の扉に靴を挟み込み、換気扇を回してコンロに火を点ける。焼き網が赤くなったところでジュッと秋刀魚を置く。プチプチと音を立てて皮が焼けていく。焦げた皮がまたいいんだ。しかし焦げすぎは禁物。火加減を調節して脂がしみ出てくるのを眺めていると、脳の片隅で「そういえば万年筆」と囁く声がする。視界では秋刀魚が嬉しそうに弾けている。こんな時は一点に集中することが肝心なのだ。二兎追う者・・・と言うではないか。菜箸で秋刀魚を持ち上げ焼け具合を確認する。うむ、良い感じだ。もう少しこのままで大丈夫。
耳元の囁きは大きくなり身体が堪えきれなくなる。万年筆の包みに向かって、「分かってるよ、今相手をしてやるからな」と呟くと、 横目で秋刀魚を確認し、卓袱台へ移動して包みを解く。洒落たマークが印刷された箱を開けると鮮やかなオレンジ色の万年筆が眩しい笑顔を向けてきた。カチッとキャップを抜き取り、クルクルとお尻をネジってカートリッジを差し込んだ。何か注意書きのようなものが箱の隙間から顔を覗かせているが、なあに万年筆の扱いなら慣れている。今更何を。
ブシューッと大きな音がして万年筆より更に鮮やかな炎が目に飛び込む。いかん! 万年筆を卓袱台に置き秋刀魚のもとへとって返した。流石に築地物、脂ののりがよいのだ。盛んに弾ける脂に喉が反応して涎が出てくる。煙る秋刀魚をひっくり返そうと菜箸で摘むと、楽しみにしていた皮は焼き網にひっ付いてベロリと剥がれてしまった。まったく、だから言わぬことじゃない。万年筆は逃げも隠れもしないから今はとにかく秋刀魚に集中。しばし頭と尻尾にも火を通し、身の詰まった腹を再び火の上へ。用心のため更に火を弱めた。脂の弾け方に注意、注意。反対側の皮は死守しなければならない。なんたって、秋刀魚は焦げた皮が旨いのだから。
タバコに火でも点けようか。いやいやここは秋刀魚に集中しなければならない。同じ過ちを繰り返すことは赦されない。なんたって秋刀魚は皮が旨いのだから。自らを制するように腕組みをし、手持ちぶたさに頭を振ると万年筆が視界に入る。キャップを外したままだ。これはうっかりと卓袱台へ歩み寄り、キャップを摘んだ。愛らしいオレンジ色が微笑みかける。ちょっと書いてみるか。右手に持ち替えて、ペン先を紙に滑らせた。ペン先にインクが染みるまで暫く書き殴らねばならない。承知している。なんたって私は万年筆の扱いに慣れているのだ。紙の上には色のない浅い溝だけが連なっていく。クルクル連なっていく。それにしても時間が掛かりすぎる。尻を捻ってカートリッジのインクを確かめる。希に劣化したインクは堅くなってペン先へ流れていかない。何度か揺らしてみるがインクに問題はなさそうだ。仕方なく、再びペン先を走らせる。出ない。インクが出てこない。どうしたというのだ。せっかくのイタリア製万年筆。友人がわざわざ銀座まで足を運びあれこれ悩んで私にピッタリのオレンジを選んでくれた万年筆。されど、紙の上には無色の溝が刻まれていくだけ。
と、先ほどとは比べものにならないほど大きな音とともに再び鮮やかな炎が二〇センチほど立ち上った。しまった、またやってしまった。急ぎ駆け戻った時、秋刀魚は哀れにも焼けただれてしまっていた。菜箸で摘むと、ぼろりと腹の肉が崩れ落ち、僅かに残った皮が漸くのことでつなぎ止めている。大半の皮は先ほどと同様に焼き網に見事にくっつき、在りし日の秋刀魚の姿を留めている。火は見る間に焼き網の皮へも回り大袈裟に炎を上げ始めた。築地物がたっぷりと脂を滴らせたのだ。不自然な形に持ち上げた腕の先には、より不自然な姿に変わり果てた秋刀魚がぶら下がり、左手は頭上から皿を一枚引き抜こうとしている。こんな時にはチビが恨めしい。皿が思うように引き抜けない。力を込めると、右手にぶら下がった秋刀魚が真ん中から千切れそうにぶらりと揺れる。
漸くのことで皿の上に秋刀魚を落ち着かせた。サランラップを解いたときに見せていた、あの凛々しく背筋を伸ばした姿とは似てもにつかない無惨な黒こげの魚肉が転がっている。いつかみた光景。そうだ、二〇年前にも同じように原型を留めない秋刀魚を見た。この歳月は何の成長ももたらしてはくれなかったのだ。肩を落として卓袱台へ運ぶと、先ほどまで笑顔を振りまいていたイタリア制万年筆の姿が見えない。乱暴に秋刀魚の皿を置き跪いて卓袱台の下を覗き込むと、見事に命を取り戻した万年筆のペン先から青いインクが血のように滲んでいる。年中敷きっぱなしで薄汚れたホットカーペットの上に一円玉ほどの歪な青い染みが色濃く浮かんでいる。万年筆を摘み上げた右手を見つめると突如として自分への苛立ちが沸き上がり、同時に勢いよく身体を起こした。その拍子に卓袱台の角を肩が持ち上げ、秋刀魚の皿が滑り落ちていくのが視界に入る。俺の秋刀魚! 咄嗟に鷲掴んだ何物かで素早く秋刀魚の腹を掬い上げると、洒落たマークが印刷されたイタリア制万年筆のケースの中に無惨に焦げた魚肉が収まっていた。なんてことだ! 右手で直に秋刀魚を摘み上げ皿の上に戻した。カタリと音がして、再び万年筆が卓袱台から転がり落ちる。これは、堪らん。素早く右手で万年筆を受け止めた。築地物の秋刀魚の脂でてかる掌の中でオレンジ色の万年筆が微笑んだ。
目が覚めると真っ先に秋刀魚の事が頭に浮かんだ。「築地で仕入れたんです」という店長の言葉が耳の奧に残っているような。とにかく早く食べたい。自ら秋刀魚を焼くなどおそらく二十年ぶりだ。窓をいっぱいに開け玄関の扉に靴を挟み込み、換気扇を回してコンロに火を点ける。焼き網が赤くなったところでジュッと秋刀魚を置く。プチプチと音を立てて皮が焼けていく。焦げた皮がまたいいんだ。しかし焦げすぎは禁物。火加減を調節して脂がしみ出てくるのを眺めていると、脳の片隅で「そういえば万年筆」と囁く声がする。視界では秋刀魚が嬉しそうに弾けている。こんな時は一点に集中することが肝心なのだ。二兎追う者・・・と言うではないか。菜箸で秋刀魚を持ち上げ焼け具合を確認する。うむ、良い感じだ。もう少しこのままで大丈夫。
耳元の囁きは大きくなり身体が堪えきれなくなる。万年筆の包みに向かって、「分かってるよ、今相手をしてやるからな」と呟くと、 横目で秋刀魚を確認し、卓袱台へ移動して包みを解く。洒落たマークが印刷された箱を開けると鮮やかなオレンジ色の万年筆が眩しい笑顔を向けてきた。カチッとキャップを抜き取り、クルクルとお尻をネジってカートリッジを差し込んだ。何か注意書きのようなものが箱の隙間から顔を覗かせているが、なあに万年筆の扱いなら慣れている。今更何を。
ブシューッと大きな音がして万年筆より更に鮮やかな炎が目に飛び込む。いかん! 万年筆を卓袱台に置き秋刀魚のもとへとって返した。流石に築地物、脂ののりがよいのだ。盛んに弾ける脂に喉が反応して涎が出てくる。煙る秋刀魚をひっくり返そうと菜箸で摘むと、楽しみにしていた皮は焼き網にひっ付いてベロリと剥がれてしまった。まったく、だから言わぬことじゃない。万年筆は逃げも隠れもしないから今はとにかく秋刀魚に集中。しばし頭と尻尾にも火を通し、身の詰まった腹を再び火の上へ。用心のため更に火を弱めた。脂の弾け方に注意、注意。反対側の皮は死守しなければならない。なんたって、秋刀魚は焦げた皮が旨いのだから。
タバコに火でも点けようか。いやいやここは秋刀魚に集中しなければならない。同じ過ちを繰り返すことは赦されない。なんたって秋刀魚は皮が旨いのだから。自らを制するように腕組みをし、手持ちぶたさに頭を振ると万年筆が視界に入る。キャップを外したままだ。これはうっかりと卓袱台へ歩み寄り、キャップを摘んだ。愛らしいオレンジ色が微笑みかける。ちょっと書いてみるか。右手に持ち替えて、ペン先を紙に滑らせた。ペン先にインクが染みるまで暫く書き殴らねばならない。承知している。なんたって私は万年筆の扱いに慣れているのだ。紙の上には色のない浅い溝だけが連なっていく。クルクル連なっていく。それにしても時間が掛かりすぎる。尻を捻ってカートリッジのインクを確かめる。希に劣化したインクは堅くなってペン先へ流れていかない。何度か揺らしてみるがインクに問題はなさそうだ。仕方なく、再びペン先を走らせる。出ない。インクが出てこない。どうしたというのだ。せっかくのイタリア製万年筆。友人がわざわざ銀座まで足を運びあれこれ悩んで私にピッタリのオレンジを選んでくれた万年筆。されど、紙の上には無色の溝が刻まれていくだけ。
と、先ほどとは比べものにならないほど大きな音とともに再び鮮やかな炎が二〇センチほど立ち上った。しまった、またやってしまった。急ぎ駆け戻った時、秋刀魚は哀れにも焼けただれてしまっていた。菜箸で摘むと、ぼろりと腹の肉が崩れ落ち、僅かに残った皮が漸くのことでつなぎ止めている。大半の皮は先ほどと同様に焼き網に見事にくっつき、在りし日の秋刀魚の姿を留めている。火は見る間に焼き網の皮へも回り大袈裟に炎を上げ始めた。築地物がたっぷりと脂を滴らせたのだ。不自然な形に持ち上げた腕の先には、より不自然な姿に変わり果てた秋刀魚がぶら下がり、左手は頭上から皿を一枚引き抜こうとしている。こんな時にはチビが恨めしい。皿が思うように引き抜けない。力を込めると、右手にぶら下がった秋刀魚が真ん中から千切れそうにぶらりと揺れる。
漸くのことで皿の上に秋刀魚を落ち着かせた。サランラップを解いたときに見せていた、あの凛々しく背筋を伸ばした姿とは似てもにつかない無惨な黒こげの魚肉が転がっている。いつかみた光景。そうだ、二〇年前にも同じように原型を留めない秋刀魚を見た。この歳月は何の成長ももたらしてはくれなかったのだ。肩を落として卓袱台へ運ぶと、先ほどまで笑顔を振りまいていたイタリア制万年筆の姿が見えない。乱暴に秋刀魚の皿を置き跪いて卓袱台の下を覗き込むと、見事に命を取り戻した万年筆のペン先から青いインクが血のように滲んでいる。年中敷きっぱなしで薄汚れたホットカーペットの上に一円玉ほどの歪な青い染みが色濃く浮かんでいる。万年筆を摘み上げた右手を見つめると突如として自分への苛立ちが沸き上がり、同時に勢いよく身体を起こした。その拍子に卓袱台の角を肩が持ち上げ、秋刀魚の皿が滑り落ちていくのが視界に入る。俺の秋刀魚! 咄嗟に鷲掴んだ何物かで素早く秋刀魚の腹を掬い上げると、洒落たマークが印刷されたイタリア制万年筆のケースの中に無惨に焦げた魚肉が収まっていた。なんてことだ! 右手で直に秋刀魚を摘み上げ皿の上に戻した。カタリと音がして、再び万年筆が卓袱台から転がり落ちる。これは、堪らん。素早く右手で万年筆を受け止めた。築地物の秋刀魚の脂でてかる掌の中でオレンジ色の万年筆が微笑んだ。
2009-09-24
チェリー達へ
ここ数日メディアに登場するのは、民主党政権に対する不安懸念疑問、ノリピーの今後、熊に襲われた九人、クレヨンしんちゃんはどうなるの、巨人の三連覇、朝青龍の復活、シルバーウイークの事故、鳩山ファーストレディの奇行、自民党総裁選、オバマ大統領の国連総会スピーチというところか。押尾はすっかり話題に上らなくなり、数ヶ月も宇宙滞在した若田さんも過去の人、岡田ジャパンのネタはすっかり萎んで、政治に関する話題が急増だ。気がついたら「官僚達の夏」は終了し、「白州次郎」も半年のインターバルを挟んで漸く完結した。
政治への関心が高まったことは喜ばしいことだと思う。なんたって国を動かしているのは政治だ。経済だと言って憚らない似非インテリも今は小さくなるしかない。「なら盛り返してみやがれ」の叱咤をかわそうとクネクネ踊りを続けている。隣国の再建計画が功を奏し、対照的に我が国の旧政権ばらまき政策は徒花に終わった。今度は政治主導で経済も盛り返してもらいたい。
鳩ちゃん(藤井財務大臣は鳩山親子三代に仕え、現首相をそう呼ぶらしい)は、腐った鯛が残していった負の遺産を抱えて、政権奪取後未だ一月にも満たないというのにメディアから評論家からその辺のオバチャンから、「どうすんのよ」「ホントなんでしょうネ」てな具合に突かれまくって、選挙前とは180度の態度豹変振りに少なからず表情が強ばっている。強ばっているのは閣僚達だけか。ご本人は幸夫人の掌の上でけっこう気分よろしく踊っているのかも。
それにしても自民党が半世紀も牛耳ってしまった影響なのであろう、ここ一月の間に顔をあわせた隣人知人インテリ達に見る、変化への畏れと拒絶と無理解、政治観の歪み、地底人並の愚鈍さには驚かされる。この国が以前鎖国封建制度の上に成立しているかのようだ。これでは本当に細石も巌となって苔生し現在の素性が分からなくなる。彼らは今という時代に対し完全に目を瞑り耳を塞ぎの状態で、口から化石化した借り物の言葉を吐きまくっている。落胆するしかないのか。
いや、いや冗談じゃない。時代は進んでいくし、好むと好まざるを得ず変化し続ける。「変えればいいのか」と似非インテリは言う。「ゼロと100以外に数字は読めないのか」と返したい。変えるべきか否か、変えるのであれば何をどう、何時どのようなタイミングで、それでも再考して最善策をと、私たちが手本にできる材料は山ほどある。二千年も前からのものがある。政治も経済も文化も空気も水も、生きるものが幸福になるために存在する。どう活用しようかを、考えようじゃないか。そう言いたいだけだ。あんた達を罵っているわけじゃない。その黴臭い考え方を否定しようとも思わない。唯、様々な考え方と選択があるのだということを伝えたいだけだ。
「だって、こうなんだから」と言いたい気持ちはよく分かる。「仕方がないのさ」と自棄になることだってたまにはあるさ。「俺に何ができるっていうんだ」と、それに対してだけはチョットマッタ。俺だって、ハジメテの時は怖かったさ。誰だってそうさ。上手くできるだろうか。相手は喜んでくれるだろうか。もう一回できるだろうかと悩むのは健全だ。だからこそ、健全な悩みは試してみるべきなのだ。畏れていてばかりで何時までもチェリーボーイでいちゃ、本当の気持ちよさを知ることはできないのさ。失敗したって早すぎたって、時を経ればそれも良い思い出になるよ、きっと。思い出に生きる必要もないし、生きてなんかいないさ。知れば今がもっと楽しくなるのさ。なっ、チェリー!
政治への関心が高まったことは喜ばしいことだと思う。なんたって国を動かしているのは政治だ。経済だと言って憚らない似非インテリも今は小さくなるしかない。「なら盛り返してみやがれ」の叱咤をかわそうとクネクネ踊りを続けている。隣国の再建計画が功を奏し、対照的に我が国の旧政権ばらまき政策は徒花に終わった。今度は政治主導で経済も盛り返してもらいたい。
鳩ちゃん(藤井財務大臣は鳩山親子三代に仕え、現首相をそう呼ぶらしい)は、腐った鯛が残していった負の遺産を抱えて、政権奪取後未だ一月にも満たないというのにメディアから評論家からその辺のオバチャンから、「どうすんのよ」「ホントなんでしょうネ」てな具合に突かれまくって、選挙前とは180度の態度豹変振りに少なからず表情が強ばっている。強ばっているのは閣僚達だけか。ご本人は幸夫人の掌の上でけっこう気分よろしく踊っているのかも。
それにしても自民党が半世紀も牛耳ってしまった影響なのであろう、ここ一月の間に顔をあわせた隣人知人インテリ達に見る、変化への畏れと拒絶と無理解、政治観の歪み、地底人並の愚鈍さには驚かされる。この国が以前鎖国封建制度の上に成立しているかのようだ。これでは本当に細石も巌となって苔生し現在の素性が分からなくなる。彼らは今という時代に対し完全に目を瞑り耳を塞ぎの状態で、口から化石化した借り物の言葉を吐きまくっている。落胆するしかないのか。
いや、いや冗談じゃない。時代は進んでいくし、好むと好まざるを得ず変化し続ける。「変えればいいのか」と似非インテリは言う。「ゼロと100以外に数字は読めないのか」と返したい。変えるべきか否か、変えるのであれば何をどう、何時どのようなタイミングで、それでも再考して最善策をと、私たちが手本にできる材料は山ほどある。二千年も前からのものがある。政治も経済も文化も空気も水も、生きるものが幸福になるために存在する。どう活用しようかを、考えようじゃないか。そう言いたいだけだ。あんた達を罵っているわけじゃない。その黴臭い考え方を否定しようとも思わない。唯、様々な考え方と選択があるのだということを伝えたいだけだ。
「だって、こうなんだから」と言いたい気持ちはよく分かる。「仕方がないのさ」と自棄になることだってたまにはあるさ。「俺に何ができるっていうんだ」と、それに対してだけはチョットマッタ。俺だって、ハジメテの時は怖かったさ。誰だってそうさ。上手くできるだろうか。相手は喜んでくれるだろうか。もう一回できるだろうかと悩むのは健全だ。だからこそ、健全な悩みは試してみるべきなのだ。畏れていてばかりで何時までもチェリーボーイでいちゃ、本当の気持ちよさを知ることはできないのさ。失敗したって早すぎたって、時を経ればそれも良い思い出になるよ、きっと。思い出に生きる必要もないし、生きてなんかいないさ。知れば今がもっと楽しくなるのさ。なっ、チェリー!
2009-07-25
従業員の悪質な行為はなかった
アメリカはいろんな意味で凄い。いろんな人間が居るからなのだろう。いろんな人間が、いろんな事に対していろんな受け取り方をする。そこから、いろんな物事が生まれていく。そういうダイヴァーシティは、本当に凄い。そんな例になるかどうかは知らねども、ちょっと腹を抱えたニュースがあったので紹介。加州サンタアナのレストランでの出来事 → ここをクリック サンタ、アナというところがオジサン的にはなんとも・・・。それにしても、いくら「従業員の悪質な行為はなかった」と言われても、誰が納得するかね。
さて、、、、
先日ルビコンの決断という番組で、プリウスの開発をドラマ化して放送した。私自身、プリウスが市場に投入されたあとの調査に携わったことがあるので興味も大きかった。一番驚いたのは開発期間の短さだった。ハイブリッドの研究はぞれ以前から進められていたとはいえ、技術的に量産は難しく独自の開発を要する部分も多かった。それを実質的には2年程度で市場に投入した。こういう集中力は、日本人が誇れる能力だと思う。
この二つ、実は何の関連も見いだせないのだが、両方同時にふっと浮かんでしまったのだ。読者の期待を裏切ろうなどという悪意はなかったのだが。
さて、、、、
先日ルビコンの決断という番組で、プリウスの開発をドラマ化して放送した。私自身、プリウスが市場に投入されたあとの調査に携わったことがあるので興味も大きかった。一番驚いたのは開発期間の短さだった。ハイブリッドの研究はぞれ以前から進められていたとはいえ、技術的に量産は難しく独自の開発を要する部分も多かった。それを実質的には2年程度で市場に投入した。こういう集中力は、日本人が誇れる能力だと思う。
この二つ、実は何の関連も見いだせないのだが、両方同時にふっと浮かんでしまったのだ。読者の期待を裏切ろうなどという悪意はなかったのだが。
2009-07-14
サブちゃんも聞け
「はるばる来たぜ 函館へ
逆巻く波を 乗り越えて
後は追うなと 云いながら
うしろ姿で 泣いてた君を
思い出す度 逢いたくて
とても我慢が できなかったよ」
ご存じ「函館の女(ひと)」
サブちゃんの大大大ヒット曲。
ダッサイよね。とてもこんな曲じゃ踊れない。
でも、なんか引っかかる。
男っぽいよね。完全に肉食だ。
「はるばる来たぜ」だぜ。
「逆巻く波」だぜ。
「後は追うな」だぜ。
そんでもって、「とても我慢ができなかったよ」だぜ
漁船か商船かは知らないけれども、暫くは陸にも上がれない。ってことは、とても手○○○なんかじゃ済まなかったはず。やっちゃった直後なんだから、そりゃ我慢できなかっただろう。
でも「後は追うな」って言っちゃうんだ。
三番の歌詞をみてみよう。
「迎えにきたぜ 函館へ
見はてぬ夢と 知りながら
忘れられずに とんできた
ここは北国 しぶきも凍る
どこにいるのか この町の
一目だけでも 逢いたかったよ」
都合のいい女じゃなかったんだよ。
何たって、「しぶきも凍る」街で待ってるかもしれないんだから。
やっぱりちゃんと好きだったんだよ。会いに行っちゃったんだ。
でも、女はいなかった。去ってしまった。
そんでもって、会えずに途方に暮れてるんだ。
ダサイけど、けっこういいぜ。
シモくはない。
こういうストレートさってよくないか。
逆巻く波を 乗り越えて
後は追うなと 云いながら
うしろ姿で 泣いてた君を
思い出す度 逢いたくて
とても我慢が できなかったよ」
ご存じ「函館の女(ひと)」
サブちゃんの大大大ヒット曲。
ダッサイよね。とてもこんな曲じゃ踊れない。
でも、なんか引っかかる。
男っぽいよね。完全に肉食だ。
「はるばる来たぜ」だぜ。
「逆巻く波」だぜ。
「後は追うな」だぜ。
そんでもって、「とても我慢ができなかったよ」だぜ
漁船か商船かは知らないけれども、暫くは陸にも上がれない。ってことは、とても手○○○なんかじゃ済まなかったはず。やっちゃった直後なんだから、そりゃ我慢できなかっただろう。
でも「後は追うな」って言っちゃうんだ。
三番の歌詞をみてみよう。
「迎えにきたぜ 函館へ
見はてぬ夢と 知りながら
忘れられずに とんできた
ここは北国 しぶきも凍る
どこにいるのか この町の
一目だけでも 逢いたかったよ」
都合のいい女じゃなかったんだよ。
何たって、「しぶきも凍る」街で待ってるかもしれないんだから。
やっぱりちゃんと好きだったんだよ。会いに行っちゃったんだ。
でも、女はいなかった。去ってしまった。
そんでもって、会えずに途方に暮れてるんだ。
ダサイけど、けっこういいぜ。
シモくはない。
こういうストレートさってよくないか。
2009-07-13
2009-07-07
再びMJ
今日もマイケル。
マイケルには三人の子どもがいるが、妻はいない。最初の二人の母親とは結婚していたが後に離婚し、三人目は代理母に生ませた。女を愛し、娶り、子を持ったという一般的な家庭像とは趣が異なる。一般人から遠くかけ離れた世界に生きていたのだから当然ではあろうが、それにしても単に子が欲しかったようにも感じられる。子どもというより遺伝子の継承者が欲しかったのかもしれない。本当のところは分からないが、そう感じる。
ニーチェは、男の愛というものについて、「人が心底から愛するのは、彼の子供と仕事だけである」と語ったが、マイケルはそれを実践したかのように見受けられる。マイケルが彼の子供達に向けた愛とは如何なるものであったか。
凡庸もしくはそれ以下なる私個人の愛情は、生前マイケルが彼の子供達に注いでいたものとは大きく異なるだろうと想像した。私の場合、子供達には、健康に生きて、私より後に死んでくれればそれでよいと思っている。要は彼らの人生を彼らなりに生きてくれればそれでいい。様々な制約はあるにせよ成人まではできうる限り子供らの成長を手助けしたいといった、非常に曖昧なものだ。そんなもので愛情かと問われれば、それも愛情だというしかない。所詮、親の愛情は、それをそうなのだと子が認識しないかぎり影も形もない。レスのないラブレターを送り続けるようなものだ。それを行い続けることのできるのが子への愛情と呼べるのかもしれないと考えている。
一方マイケルの場合は、桁外れな金額を遺産として残していった。(遺産の処理のされ方については脇に置いておき、)普通に考えても考えなくても、三人の子供が一生を送るに余りある金額だ。子供達の望みが金銭で適うものであれば大方のものは適えられるであろう。立派な愛情のかたちだ。再びニーチェの言葉を借りると、「偉大な人間において最も偉大なものは母性的なものだ ーー 父 ーー それは常に一つの偶然に過ぎない」とも言っている。その通りだ。父は偶然にしか過ぎないのだ。「できたみたいよ」と告げられるまで父親には何一つ分からないし、告げられたところで何一つ肉体的な変化があるわけではない。母親が文字通り心血を注ぐ愛情とは完全に別物の、父親の愛情というものがあるはずだ。充分な経済力は父親の愛情のひとつの形だ。(勿論、経済力を愛情のかたちとする女性も大勢いる)
マイケルが残した莫大な財産は愛情のかたちだったのか?
では、マイケルが財産の他に子供達に与えたかったものがあるとしたら、それは何だろう。カネ目当てに群がる連中が子供達を翻弄することは察していただろう。その中で、子供達が自分達の人生を生きたいように生きるための何かを与えたいとは考えなかっただろうか。奇行ばかりが取りざたされるマイケルだったが、そういった当たり前の感情は持たなかったのだろうか。とはいえ、市井の人々の人生を知ることができなかったマイケルに、私の言葉を期待しても無理があるだろう。しかし、それなら尚更、彼がカネの他に示したかった親としての愛情は如何なるものだったのか。
「愛情から悲しみが生じ、愛情から恐れが生じる。愛情から解放されている人に悲しみは存在しない。どうして恐れることがあろうか」
これは、ブッダが残したとされる言葉だ。ブッダは、子をもうけたその時に妻と子を捨てホームレスの生活を始めた。そこで、この考えに辿り着く。周囲との絆を断ち切って孤独となることに恐れを抱く必要はない。それが自由という状態であることに気がついた。
何かの番組で出演者の一人が言った。「マイケルさんは五十歳だったんですね。年齢などからかけ離れている人でした」
年齢に限らずあらゆる面で常人とはかけ離れていたマイケルには、もしかしたら一般的な愛情という概念が存在しなかったのかもしれない。それどころか、その面でも超越していたに違いない。マイケルはニーチェに加えブッダの言葉をも実践していたのではないだろうか。
貧しい人々や病に苦しむ人々、肌の色に悩まされる人々のことを数多く歌い続けたマイケルは、自ら周囲の一切を断ち切って、望むように生きようとした。「愛情」などという俗っぽい言葉は捨てて、苦しむのを止めて、自分が生きたいように生きようじゃないかとメッセージを送り続けた。そうやって世界中を激励し続けた彼は、自らの生き方でもそれを実践した。児童に対する性的虐待問題は正直何だったか分からない。しかし、奇行のひとつとされる様々な施設を借り切っての独りアソビやショッピングは、「誰も相手にしたくはないし、されたくもない」という意志から生じた行為ではなかっただろうか。ネバーランドもその延長に違いない。結局のところ、マイケルは周囲に手を差し延べようとはしても差し延べられることは拒んだ。悲しみや恐れや憎しみというものを遠ざけるために、孤高の存在を目指したのだ。
「カネは心配しなくてよい。周囲のことなど気にかけなくてもよいから、自分の生きたいように生きなさい。孤独になっても私の遺伝子を授けたのだから耐えられるはず。あとは、わたしの生き様を学びなさい。世界中の人が教えてくれるはずだ」 きっと、マイケルはこう言いたかったのだ。
お金の部分は除くとして、それ以外については凡庸な私にも頷ける部分が多い。生きたいように生きるためには孤独を恐れてはならない。愛情は結果として届くもので、その証を求めてはならない。生きる姿勢を示すことが、男の仕事なのだ。マイケルは意外に普通っぽいお父さんだったということが分かった気がする。
※前回の「Farewell MJ」に、「びっくりするほど滅茶苦茶な英語ですね」とのコメントが寄せられた。匿名というところが情けないが今時の人間にはこういう類が多い。英語の質なんかどうだってかまわないから、マイケルの死に少しでも感じたことがあるのなら自分の意見を言ってほしいな。それがないなら、マスでもかいてれば。
2009-06-30
Farewell, MJ
マイケルの死は悲しかった。
Micheal's death was so sad.
私と彼は年齢もほぼ同じだが、市井の人である私に対して彼は幼い頃から超のつく有名人。彼が私のことなど知らなくてもこちらはメディアを通じて彼の生涯を知った気分でいる。彼はいつしか超ガンバッテるダチのような存在になっていた。そして、勇気やパワーを与えてくれたのはいつも彼の方だった。
He is almost same age as me and he was super popular since his youth although I have been super ordinary. Although he, of course, never had known me, his life seemed very familiar to me through all the media. Moreover it was him to encourage me and give all kinds of power to me.
おかしな考えではあるが、仮にMJの死が二十代で訪れていたなら、私にとってどこか遠くの一アイドルの死で処理できたのかもしれない。しかし、それは齢五十を数えた男に訪れたものであり、三人の男の子もあり離婚も経験しているとなれば、とてもスクリーンの向こう側の出来事として片付けることができないのである。しかも、職業上の様々なストレスや事故の末に陥った、薬に頼らざるを得ない衰弱した肉体が原因となれば尚更だ。
His death might has been just one pop star's death to me if it had occurred to his twenties. I know it sounds a bit strange, though. As a matter of fact, he was a 50 years old man and he was a father of three kids after divorce. I can not handle his circumstances as one gossip from the other side of world. It is even heavier that the accidents and tremendous stress with job led the end of his exhausted body relied on drugs. Such death often occurs to the same age working men in my country.
その意味で、マイケルの死は酷く悲しかった。
His death is very tragic and sad in that way.
書き始めたばかりの物語は、アポトーシスをテーマにしている。アポトーシスとは、役目を終えたり異常を来した細胞が、自らスイッチを入れ自死するプログラムとその行為をいう。細胞は部位によって生まれ変わるサイクルが異なる。絶えず大きなダメージを受ける皮膚の入れ替わりは早く、外的刺激にさらされることなく且つ必要に応じてしか働かない内臓はそのサイクルが長い。しかし、いずれも最後の時を知り自ら死に向かうことでは変わりがない。それができないのが癌細胞で、これは薬や外科的な処置といった人為的対応でしか消去することができない。
The new theme on my story treats "Apoptosis". Apoptosis is a program taht the each single cell has inside of our body kills the cell itself. And a cell turns on the switch of program "Apoptosis" by itself. A cell has its own life span and the life span is different where it belongs in the body. For example, skin has a short life span with a lot of continuous damage by environment such as UV, compared with that internal organ has a longer span with less damage and no necessity of continuous activity. No matter what kind of cell, a cell turns on the switch and go forward to death knowing its time to die. Only exception of apoptosis is cancer cell. It has to be taken out by surgical treatment or killed by drugs.
マイケルは自らスイッチを入れたのだろうか。かつて周囲が彼を排除しようとしたことはないし、彼の場合はゴシップも含め益々の活躍が望まれていたのだ。となれば、市井の人が一生涯に為し得る数倍数百倍の活動を強いられ刺激に曝されたマイケルが、自らその役目の終わりを悟り、彼の肉体が死へのプログラムを起動したのだろうか。確かに彼の生涯は通常の何倍もの密度があった。見た目はどうあれ彼も自然の摂理に従って生きる人間であることには変わりがない。激しく炎を上げれば、蝋燭の寿命はそれだけ短くなる。そういう事だったのか。周囲が更なる彼の進化や生涯を目にしたいと願ったところで、彼の命にその願いを受け入れる余力は残されていなかったということなのか。周囲の願いを適えることのできない肉体を数多のチューブと人工心肺によって生き存えさせることより、フッと息を吹きかけ自らの炎を吹き消したのだろうか。
Did Micheal turn on switch by himself?
No one ever has put Micheal away, moreover every one was always looking forward to hearing and watching him including his gossip. Then again, did Micheal's body activate his program by himself knowing the time had come after his life long activity and stress thousands times harder and stronger than ordinary people? As fact, his life was too condensed to spend peacefully. Even though he looked like artificial, he was one of ordinary man living according to the nature providence. The candle burning twice brighter lives half longer of its life. Was that it? No matter how people wished to see his life and his evolution on works, nothing had been left in his life neither his body for people's wish. Was that it? Did he chose to blow his light off by himself rather than longer life with tubes and life extension system?
人生の終焉に悲鳴は上げただろうか?
Did he scream at the moment of his end?
一方、彼の子ども達にとっての彼の役割はまだまだ最後を迎えるべき時ではなかった。彼はそれをどう感じていただろうか。子ども達のために、たとえそれまでとは異なったとしてもライフスタイルを変えようとは考えなかっただろうか。顔の形を昔に戻そうとは思わなかったか。父という存在に悩むことはなかったか。天と地の両方を知るマイケルだからこそ、人生の本質を伝えたいとは望まなかったか。見ず知らずの乗客と一緒に狭いエコノミーシートで旅することや、順番を待たなければスプラッシュマウンテンには乗れないことや、欲しい家電製品を手に入れるためには雑踏を掻き分けなければならないことを伝えて上げたいとは思わなかったか。
On the other hand, Micheal as a father should not have had the end yet. I wonder how he felt about dying as a father of small kids. I wonder if he ever though about the change of his life style. I wonder if he ever wish to show his original smile to his kids. I wonder if he confused being a father. I wonder if he hoped his kids would know the meanings of life someday, because he is one of few man who knew both of heaven and hell. Travel in a small economy class seat with strangers, ride a splash mountain after waiting on a long line, walk in a crowded aisle in a electric store for a iPod. I wonder if he wanted to tell his kids that was a life.
最後の瞬間に無念の涙は溢れなかったか。
Did he drop tears of regret in heaven?
今後MJがスクリーンの向こうから私にパワーを分け与えてくれることはなくなった。しかし、会ったこともない赤の他人であるアイドルMJが、これまで一緒に人生を歩んできてくれたことは忘れないだろう。きっと思い出すだろう。これからは、まだ幼い彼の息子達がそれぞれの人生を自らの意志と勇気で歩んでいけるように祈ることにしよう。小さな恩返しだ。いや、同年代の一人として当たり前の感情のはずだ。
There is no more chance that MJ send us any messages nor encouragement. He was an idol whom I was never personally close to, still I will remember him lived in the same era and breathed the same air. Yes, I will. And from now on, I pray for his kids become strong enough to walk on their foot with will and courage. A little pay back. No, its just natural feeling of 50 years old ordinary man.
2009-06-26
嗚呼、バーバル
ここ一週間程、電話によるヒアリングを行っている。相手はどこも海外の法人だ。北米、オセアニア、欧州、アジア。基本的には英語で会話することになる。
英語は今やビジネスの共通語ということになっているが、各地で使われる英語はどれも同じではない。英語は一応使えるつもりでいるが、こちらの英語も何処かで覚えたもの。だから、話し方には地方色がでる。上手く通じてくれるとは限らない。そこが、もどかしい。もっと言えば、相手には通じていながらこちらが理解できない事が多い。そこに、苛立つ。
インドの英語なんか、英語じゃねぇし、韓国の英語も何だか聞き取れない。しかし、彼らも所謂ネイティブではないわけだから仕方のないことだと思うし、いざとなれば上から目線で、「よく分からん、もう一度頼む」と伝えれば、相手の方が気を遣う。ビジネス会話、特に英語での会話は如何に上段に立つかが肝心だから。それに、基本的には、互いに用件を済ませてさっさと会話を終えたいという思い気持ちは同じなわけで、聞きたいことを聞き頂戴するべき事を耳にしてしまえば、それまでとは打って変わった猫なで声で、「もう、本当に助かりました。感謝の言葉もない。神の祝福を」とかなんとか添えて、会話を打ち切って仕舞。
ところが、ネイティブと呼ばれる連中にこそ厄介な連中がいる。お国訛りはあったとしても、彼らはネイティブ。おそらく発音やイントネーションは彼らの方に分があるし、ボキャブラリーだって豊富なはず。今度は立場が変わって、相手のほうが上から目線になる。加えて、そういう連中の中には、暇なのか寂しん坊なのか唯のおしゃべりなのかは知らねども、口数の多いのがいたりする。オージー! よくもまあ、速射砲のように言葉を吐き連ねてくる。人が好いのは苦にならないが、こちらの求める一言二言に対し、延々と言葉を並べ立てる。
聞いている方は一応米国の標準言語のひとつとされるカリフォルニア語が身についているものだから、巻き舌は何とか対応するけれども、オーストラリアのあの訛りなのか低知能なのか田舎ものなのかが発するよく分からん語には閉口する。答えを確認したくて繰り返したりすると、そこにまた延々とよく分からん語で応答される。
基本的に、電話によるコミュニケーションは難しいのだ。何処かの権威が示すところによれば、バーバル(言葉)によるコミュニケーションは、コミュニケーション全体の7%ほどしか役に立っていない。相手の表情も仕草も何も目にすることができない電話では、残りの93%を補完する方法がない。仕事がちゃんとできて頭の回転もそれなりなら、こちらの要求を汲み取って必要な回答をくれるものだが、暇なのか寂しん坊なのか唯のおしゃべりなのかの氏はおそらくその93%を自分の欲求に任せ無関係な言葉として返してくれている。厄介なんだよ、こういう人。
「ところで、君の知りたかったのは何だっけ?」「おい、そんなことが最初の質問とどう関係するんだよ?」だって。
別に、オーストラリアに偏見があったりするわけではないのだけれどね。ただほんの少しだけ、気持ちよく飲んでいる時に邪魔されて殴り合いをしそうになったり、気に入らないという理由だけで仕事を辞めさせられたりみたいな事が普通にあるだけで、彼らのことをアホで間抜けな○○人のように思っているわけではないのだよ。ただ、ちょっとね。普通に会話してくれよ。
先日だって、主力メンバーが揃いさえすれば、あんな奴ら3-0で打ち負かしていたはずなんだ。
こっちまで、支離滅裂になってきた。
2009-06-12
ソニーからの贈り物
ソニーは好きなのよ。
最近はappleの後塵を拝し、いまいちパッとしない感じもするけれど、例のお尻のポケットからニュウっとはみ出すvaioのCFなんか、やっぱりソニーのクリエイティブの質の高さを感じさせる。<座布団!!>
移籍で話題のカカを起用したCMもなかなかで、実際にゾエトロープを作ったところがまた凄い。<二枚!!>
とにかく、ソニーはやっぱりソニーでいつまでも応援したい。windowsから手を引いてappleと組んじゃえばいいのに。実際、昔のMacのノートブックの筐体はソニーが提供していたりしたんだから。
そのソニーがスクリーンセーバーを提供している。
要はブルーレイの広告用のものなんだが、かっこいいったらありゃしない。好きなワードを記入すると、関連するテキストや画像をインターネット経由で引っ張り込んで、スピード感たっぷりの不思議なレイアウトでバシバシ展開させる。YouTubeの動画も取り込んで、クールにレイアウトしてくれる。
お気に入りのテーマが、お休み中のPCスクリーン上で駆けめぐります。
下記のサイトから登録も何にもなしでダウンロードできますぜ。
俺の、キーワード?
勿論、「アンジー」ですぜ。
2009-06-03
野性の証明
腹が減っている時は誰でも精神が不安定になるものだ。更に空腹を満たす方法が見つからなければ攻撃的にもなる。人間もその辺りは野性なのだ。ナイーブだからではない。今、人がみな空腹だからだ。そんなとき、人間は野性味を失ってはならない。なぜなら野性味を失えば強くはなれず、強くなければ優しくはなれないのだ。知恵を追うより野性を取り戻すことを、今考えなければならない。
実際に腹が減ったときには、一杯の白湯でも空腹感を紛らわせることができるものだ。容易い。しかし、心の飢餓はそうはいかない。年齢を重ねるごとに深刻さを増していく。満たそうとする側の要求が増えていく。カスタマイズされジャストフィットしたものでしか受け付けなっていく。そこじゃなくて、もう少し上。そうそう、もう少し左の方を。ちょっと強く。ダメダメ強すぎ。だから、そうじゃなくてってば、分かんないかな!! 我が儘だ。そう、年をとるごとに我が儘が増すように感じられるのは、ディテールが生じるからなのだ。
肉体的な空腹は生まれた時から死ぬまで、度合いの差はあれ所謂空腹感でしかない。「これは空腹感なのだ」だから、白湯で一時紛らわそう。これを、知恵と呼ぶならば、心の飢餓感は何度となくやっては来るもののなかなか定型化することができない。つまり知恵では解決しにくくなる。勿論大概の人は年とともに知恵が増えていくものだが、心の飢餓感は度重なることにそのディテールが増えていき知恵では追いつかなくなっていく。「この虚しさは、なんだ!?」と猫も唄っていた。心の飢餓感は厄介だ。
若い時なら、「飲んで」「騒いで」「やって」ぐらいが揃うと大凡満たされたつもりになれるが、年を重ねるごとにどうもそれでは事足りなくなってゆき、「飲んで、飲んで、飲まれて、飲んで」という具合に度を超してゆく。しかしそれにも体力が必要だから、ある時期を境に、「独り酒場で飲む酒は・・・」と場末のカウンターの端っこで強いタバコを燻らすことになる。
独りにしておいてくれ
別にクールなわけではないのだ。体力が欠乏しているだけだ。処理できない自分に疲れてしまっているだけだ。野性味を失いつつある。野性を維持するためには体力が重要なのだ。
政治家が全国中継されているにも関わらず稚拙な論議を延々と繰り返すことができるのは野性の証明だ。「バーカ」「オマエこそバーカ」議論の場では、老議員たちも野性味をいかんなく発揮している。何故か。それは彼らが体力を温存する方法を心得ているからだ。自分では考えない(官僚が作ったものを読むだけ)、人の意見は聞かない(席に着いたら直ぐ眠る)、そして国民のことなど真剣には考えない(命など賭けない)。そうやって温存した体力で、闘いを続けている。どうやらこれが政治家の知恵らしい。狡い。
政治家に限らず老人は説教臭くなる場合が多い。これは彼らに知恵の引き出しが少ないためだ。闘いが長期化しないように、所謂「常識」であるとか「一般論」を用いて無理矢理やりこめようとするからだ。説教臭いオヤジに本当の知恵がある人間は少ない。
<うっ!>
知恵の多いオヤジは、ちゃんと付き合う体力がある。途中で寝たりしないぞという覚悟がある。そして、勿論、必死に蓄えてきた抽出一杯のディテールがあるのだ。自分の心の飢餓を満たすことはできなかったけれど、そのために足掻いた記憶をとどめているのだ。
議論は基本的に喧嘩だから、その必要がなくても雌雄を決するため必死になることが肝心だ。野性の原則だ。相手がダウンするまで言葉のパンチを打ち続けなければならない。生半可なパンチではダメージを与えられない。「オマエの母さん出臍」「違うもん」「さっき言ったじゃないか」「言ってないもん」だから、言葉には威力が必要だ。相手を傷つける威力ではなく、ノックアウトする威力がだ。
ノックアウトの目的は相手の息の根を止めることではない。相手に選択肢を与えることだ。具体的でディテールを伴った選択肢を与えることだ。真実と信じていた事がそうではなかった。誤りであると思っていたことにも真実はあった。ノックアウトされた相手は、その後両方を考えねばならない。その人間が野性を失っていなければ、彼は自分にとって本当の真実を求めて悩むだろう。それが、生き抜く上で不可欠なものであることを知っているからだ。そして、強くなるだろう。それが、また誰かへの選択肢を与える上で必要な事をノックアウトから学ぶからだ。
ガオーッ!!
実際に腹が減ったときには、一杯の白湯でも空腹感を紛らわせることができるものだ。容易い。しかし、心の飢餓はそうはいかない。年齢を重ねるごとに深刻さを増していく。満たそうとする側の要求が増えていく。カスタマイズされジャストフィットしたものでしか受け付けなっていく。そこじゃなくて、もう少し上。そうそう、もう少し左の方を。ちょっと強く。ダメダメ強すぎ。だから、そうじゃなくてってば、分かんないかな!! 我が儘だ。そう、年をとるごとに我が儘が増すように感じられるのは、ディテールが生じるからなのだ。
肉体的な空腹は生まれた時から死ぬまで、度合いの差はあれ所謂空腹感でしかない。「これは空腹感なのだ」だから、白湯で一時紛らわそう。これを、知恵と呼ぶならば、心の飢餓感は何度となくやっては来るもののなかなか定型化することができない。つまり知恵では解決しにくくなる。勿論大概の人は年とともに知恵が増えていくものだが、心の飢餓感は度重なることにそのディテールが増えていき知恵では追いつかなくなっていく。「この虚しさは、なんだ!?」と猫も唄っていた。心の飢餓感は厄介だ。
若い時なら、「飲んで」「騒いで」「やって」ぐらいが揃うと大凡満たされたつもりになれるが、年を重ねるごとにどうもそれでは事足りなくなってゆき、「飲んで、飲んで、飲まれて、飲んで」という具合に度を超してゆく。しかしそれにも体力が必要だから、ある時期を境に、「独り酒場で飲む酒は・・・」と場末のカウンターの端っこで強いタバコを燻らすことになる。
独りにしておいてくれ
別にクールなわけではないのだ。体力が欠乏しているだけだ。処理できない自分に疲れてしまっているだけだ。野性味を失いつつある。野性を維持するためには体力が重要なのだ。
政治家が全国中継されているにも関わらず稚拙な論議を延々と繰り返すことができるのは野性の証明だ。「バーカ」「オマエこそバーカ」議論の場では、老議員たちも野性味をいかんなく発揮している。何故か。それは彼らが体力を温存する方法を心得ているからだ。自分では考えない(官僚が作ったものを読むだけ)、人の意見は聞かない(席に着いたら直ぐ眠る)、そして国民のことなど真剣には考えない(命など賭けない)。そうやって温存した体力で、闘いを続けている。どうやらこれが政治家の知恵らしい。狡い。
政治家に限らず老人は説教臭くなる場合が多い。これは彼らに知恵の引き出しが少ないためだ。闘いが長期化しないように、所謂「常識」であるとか「一般論」を用いて無理矢理やりこめようとするからだ。説教臭いオヤジに本当の知恵がある人間は少ない。
<うっ!>
知恵の多いオヤジは、ちゃんと付き合う体力がある。途中で寝たりしないぞという覚悟がある。そして、勿論、必死に蓄えてきた抽出一杯のディテールがあるのだ。自分の心の飢餓を満たすことはできなかったけれど、そのために足掻いた記憶をとどめているのだ。
議論は基本的に喧嘩だから、その必要がなくても雌雄を決するため必死になることが肝心だ。野性の原則だ。相手がダウンするまで言葉のパンチを打ち続けなければならない。生半可なパンチではダメージを与えられない。「オマエの母さん出臍」「違うもん」「さっき言ったじゃないか」「言ってないもん」だから、言葉には威力が必要だ。相手を傷つける威力ではなく、ノックアウトする威力がだ。
ノックアウトの目的は相手の息の根を止めることではない。相手に選択肢を与えることだ。具体的でディテールを伴った選択肢を与えることだ。真実と信じていた事がそうではなかった。誤りであると思っていたことにも真実はあった。ノックアウトされた相手は、その後両方を考えねばならない。その人間が野性を失っていなければ、彼は自分にとって本当の真実を求めて悩むだろう。それが、生き抜く上で不可欠なものであることを知っているからだ。そして、強くなるだろう。それが、また誰かへの選択肢を与える上で必要な事をノックアウトから学ぶからだ。
ガオーッ!!
2009-06-02
2009-04-13
もっと「それってどういう意味?」と発しよう
携帯はどちらかの手の一部になってしまっている。視界にあろうとなかろうと、ワンアクションで掴むことのできる距離に携帯を置いている人が殆どだ。
携帯は、インターネットで世界と繋がっている。キャリアやモデルによっては、勝手に世界中のニュースがディスプレイされるものもある。時々刻々と最新の情報が入ってくる。
携帯は勿論コミュニケーションツールだ。そしてそのコミュニケーションの多くはメールになった。音声のコミュニケーションと異なり、後から見直す事もできる。おまけに、メールにはほとんどの場合絵文字がついてくる。まるでたった今コミュニケーションなされたかのような臨場感をともなっている。
しかし、携帯が提供できる情報は多くはない。実際には無限に可能だが、多くの場合ニュースも数行、メールも数行。そして、あとはさほど意味深くはないGIFFアニメーションのアイコンや絵文字だ。
「今の人たちは自己完結しすぎる」と知人が言った。届けられた情報量の少ないメッセージから、相手や出来事との関係性や状況を読み取り、事象を簡単に結論づけてしまう。
一度結論づけてしまえば、再度掘り返して思慮する必要がなく、全てを軽い状態に置いておけるし、そのほうが人生の重荷が減る。だから入手した情報は、さっと処理するほうがいい。と、先へ進めることなくピリオドを打ってしまうのだ。
みな、人生をサクサク前進させたい。
いいのか、それで?
今年は天皇陛下と美智子様が、金婚式を迎えた。朝のワイドショーでも結婚生活50年を迎えた数組のカップルを取り上げ、長続きする秘訣を紹介したりしている。秘訣は独自のものだから秘訣なので、マニュアルのようには機能しないのだから正直無意味である。しかし、50年は50年だ。サクサク過ぎていったはずはない。
人との関係は唯単に長ければ善いというものではないし、一定期間後終焉する。そして期間には各々の関係性により長短がある。しかし、期間に拘わらず関係の密度や質というものが多少なりとも重要視されるのであれば、そこそこの山谷があり奮起が必要だ。
人間関係において最も重要なのは相互理解であろう。理解を深めるためにギクシャクしたり頑張ったりする。確かめ合うのだ。
確かめ合うには勇気と忍耐が要る。無用とも感じられる波風を敢えて起こしてみる必要がある。
「それって、どういう意味?」
情報の量と質を増やすのだ。本当の理解と納得が得られるまで自らの手で情報を得るのだ。
出会わなければよい出会いはない。出会った人は、出会わなかった事にはできない。だから、理解し合う努力が欠かせない。勇気を奮い起こして理解の更なる一歩を進めなければならない。人生の重荷が増えることに畏れをなすことなく、涙に濡れ洟水を舐める姿を格好悪いと思うことなく、「それって、どういう意味」を発しなければならない。
オジサンの役目は、後に続く者達にそのことを伝えることだと思っています。身を以て伝える事だと思っています。
2009-03-18
対韓国戦 -- WBC第2ラウンド
WBC第二ラウンド対韓国戦を観ながら。
イチローは替えられないのだろうか。ついでに、小笠原と福留も替えられないのだろうか。
この三人は、明らかに調子が悪い。
たった今、5回の表の攻撃で日本は1点を返した。ノーアウト一、二塁のチャンスで岩村がショートゴロ。1アウト一、三塁で登場したイチローはセカンドゴロ。この間に三塁ランナーがホームへ返り得点した。それ以外は、東京ドームで完封されたホン・ジュングにまたしても押さえ込まれている。
この試合に限らないが、イチローの前で下位打線がしばしばチャンスを作る。一番イチローはそれを活かせない。そんなシーンがここまで続いている。イチローは2打点を記録しているとはいえ、二つとも内野ゴロの間に三塁ランナーが生還したもの。打率は既に2割を切っている。全く活躍できていない。ことごとく期待を裏切っている。
テレビの解説を続けている清原もイチローを批判することはしない。しかし、大事をとって休んでいる中島に対し、「この試合、大事をとってる場合じゃないですよね」と痛烈な一言を発した。調子の上がらないイチローにこのまま出場させている場合なのだろうかと首を傾げる。
イチローを批判するわけではないが、イチローのためのWBCがあるとは思わない。同様に、フォアボールを選ぶことでしか繋げることのできない小笠原、塁にランナーが居ない時にしかヒットが打てない福留も同様だ。原監督は、コンディションがベストの選手を選んでいるはずだ。とすれば、韓国に勝てない日本は優勝ができないチームということだ。何らかの策を講ずべきだろう。
昨晩、NHKのザ・プロフェッショナルに出演したサッカー日本代表の中澤は、「人を幸せにするのがプロフェッショナルだ」と言った。38歳で未だに挑戦を続ける辰吉丈一郎は、タイで行った19歳相手の試合でTKO負けを喰らい試合中の記憶をなくしていながら、「このまま終われんやろ」と吐いた。
今回のWBCは、「二連覇を目指せるのはニッポンだけ」という宣伝文句にあおられ、当然優勝するものだという雰囲気が漂う。しかし、戦前イチローは、「守るのではなく、取りにいく」と確かに言った。その言葉を聞いて我々はホットした。慢心はない。泥だらけでも厭らしくても、ニッポンは勝ちに行く。そう信じて国中が沸き立っているのだ。
だったら、そうすべきだ。韓国は間違いなく強い。そして、今日またホン・ジュングにしてやられた。日本の投手陣は、強さ安定感ともどの国にも引けをとらない。メジャーリーガー三人を下位の打線に並べる勇気が原監督にはあった。絶不調の一番バッターを替える、巨人の主軸打者や、今ひとつ乗り切れないメジャーリーガーの打順をいじるぐらいのことはできるだろう。やるべきだ。
試合が進んで6回ウラ、韓国の攻撃に入った。ダルビッシュは初回3点を失った以降、吹っ切れたのか抜群のピッチングで後続を断った。マウンドには、韓国が苦手とするアンダースローの渡辺が立っている。二死一、二塁のピンチを迎えた。
2009-03-17
2009-03-13
お父さんのパンツ
三男坊の靴下の踵が擦り切れて穴があいていたことがあった。上二人のお下がりだから通常の二倍か三倍履き古されていては穴もあくだろうと納得しながら、なんだか不憫に思われた。かといってお父さんは、自ら新しい靴下を探してやろうなどと思わない。男は中身なんだとお父さんは信じている。三男坊はパンツまでもゴムが伸びきっている。
正直、子供の下着や靴下がどこで買えるかなど知らないし、これまで友人や知人に「お子さんの靴下はいつも何処で買ってます?」なんて尋ねたこともない。勿論、訊かれたこともない。そのくせ新宿に降りる度、ビクトリアに立ち寄っては子供用のスポーツ用具を眺めていたりする。親子グローブセットを見つけた時には、迷わず買った。「どうしたの、突然」と、母親は当然訝しがる。下着や靴下は買ってきたこともないくせにと思っているかどうかは知らないが、下着や靴下に比べたらはるかに値が張る。のか? パンツや靴下については値段も知らない。
果たしてお父さんはそれらに本当に無関心なのか?
先日、「パンツに穴が空いてても見えなきゃ気にしない」と冗談のつもりで言ったら、風呂場で脱ぎ捨てたパンツには本当に穴が空いていたので驚いた。しかし、そのパンツを棄てたかどうか覚えていない。今日は今日で、靴下のつま先が薄くなって地肌が見えそうになっていることに気がついた。そういえば洗濯の時、既に発見してたのだ。しかたがないので別のものに履き替えると、そちらも全く同じ場所が薄くなっていた。
知人二人と吞みに出かけた時、そこには小洒落た板敷きの掘りごたつが据えてあり三人とも「いいねえ」なんていいながら仕切りの部屋に通された。疲れた足を革靴から解放し、おまけにネクタイまで緩めて燗の酒を舐め舐め白いものが増えた互いの頭の話なんかで盛り上がっていた。やおら一人が片足を膝に載せると、もう一人が息を合わせるように反対側の足を放り出した。視界に入った二人のつま先が同じように薄くなっていた。
とにかく、お父さんは下着や靴下に無頓着だ。理由はない。しかし、子供達がサッカーボールを泥んこのまま放ったらかしていたら叱る。けっこう叱る。「ボールを作っている人は、一生懸命作っている。お前達に楽しく遊んでもらおうと思って心を込めて作っている。だから、遊ばせてくれてありがとうって、いつもきれいにしろ」二度と買ってやらないと脅したりもする。
別に、靴下やパンツを蔑ろにしているわけじゃない。ましてやその中身を放ったらかしでよいとは思っていない。もう子供に自慢するほど光り輝くボールでなくなっていても、100円ショップの歌舞伎揚げの横に吊されている代物なんかじゃなくて、もう少し気の利いたボール袋に包んでやるからなって思ったりする。今は力のなくなったこのバットだって、昔は四割の打率だったんだなんて思い出したりもする。
勝負下着なんて考えもしなかった時代に青春時代を過ごしてしまった俺らは、脱がせた下着のことなど覚えていない。無駄な時間はすっ飛ばして、さっさと稲妻シュートを決めたかった。しかし、今の持ち玉は変化球。緩急なんてつけられないからひたすら変化球。クリスチャンロナウドの無回転ボールなんて夢のまた夢。コロコロシュートが関の山。やっぱり色気のあるパンツの一枚も履いて、まずは目くらましから始めなければだめかしらん。とはいえ、今更パンツを吟味するなんて。
待てよ、・・・。
若い女のケツばっかり追いかけている彼奴は、ひょっとしたら勝負下着の二枚や三枚もっていたりするのかしらん。ずらっと並んだカラフルなパンツ売り場で、「今夜はこいつでキメテやるか」なんて、腕組みしてたりするのかい。
フン、男はやっぱり中身だ。お父さんだって決めてやる。
コロコロ~ッ、シュート。
2009-03-11
霞町物語
プリズンホテルもそうだった。
二巻目の途中で、「もういい、分かった」なんぞと口走ってぞんざいに単行本を鞄に放り込みはしたものの、書棚にしまい込むことなく最後まで読んだ。挙げ句に、「冬は僕が貸して上げます」なんて行きつけのボーイに言われたりしたものだから、一気呵成に春の巻まで読み終えた。
食材を買いに通りへ出た夏の日に、ぶらりと寄ったブックオフでまとめ買いしたなかに「霞町物語」はあった。
人気お笑いのシニカルな時評やピラミッドが暗示する太古のもっと前の文明、映画の巨匠のドキュメントにクラシックな警察もの、アップルのヤバイ時代と白州次郎の話しなんかをめくりきったら読むもんがなくなっていて、最後に打棄ってあったこの一冊に手を延ばした。
霞町なんていうぐらいだから、どうせノスタルジックなほろ酔いダンスだろう、なんて思っていたら案の定そうだった。こんな本はウンコのお供でちょうどよいと、一日一度便意が来るとテーブルの上から老眼鏡とセットで掴み取り、便座の上でページをめくった。この数日便座で過ごす時間が大きく伸びた。
上京したのは新宿ののっぽビルがまだ三本しかなかった時代だが、それとてこの物語の時代から十年以上は経過していた。いや、たった十年というべきだろうか。当時既に見ることのできなくなった大通りの都電の風景は別にして、霞町交差点から青山墓地にかけてはデニーズもまだないうらびれた通りだったし、その途中の米軍跡地には軍新聞のスターズ・アンド・ストライプスがちゃんとあった。ミスティーという名の店は知らないが代わりにレッドシューズも健在だった。六本木にしたって、ロアビルとホットドック屋があるだけだった。
私が霞町をぶらつくようになったのは二四、五だけれども、バブルのお陰かヤクザな商売のお陰かいずれにしても他人様の力で回った金が豊富な時代であったから、物語の主人公が親のすねをかじって闊歩していた一七、八の頃と似たような浮かれ具合だったに違いない。仲間内では霞町は霞町だったし、タクシーのウンちゃんだって「はい、霞町ですね」という具合で、西麻布でしか通じなくなったのが何時の頃なのかが思い出せない。
街の見た目は移ろいでも、記憶の流れには溜まりができて、生粋だろうが余所者だろうが溜まりに浸かれば同じ水の酸いも甘いも覚えていく。そんな記憶を呼び戻し物語に出てくる人物達を目蓋に思い浮かべれば、田舎モンの私とて今のモンより少しはましな東京人かしらん、などとケツを丸出し便座の上で悦に入る。
結局、ノスタルジックなほろ酔いダンスであることに間違いはなく、だからなんなのサ。だから、こんな本は便所の中でさっさと済ませ、次へ行こうと扉を開けるのが正道です。出すモノを出した爽快感と、妙な自信を取り戻して、背表紙を閉じることができた本でした。
浅田次郎は、上手いな。ひょっとしたら、俺でも適わないかもしれない。
2009-03-10
ポアンカレ予想・・・眺めながら
人が幸福を求める原動力は、好奇心だ。
好奇心を支えるのは想像力だ。
それも、限りない、いや、絶え間ない、いや、継続する、いや、跳ねる、・・・・。
絶え間なく継続し続ける飛び跳ねる想像力だ。
言ってみれば流体性想像力だ。
流体性想像力は、流体であるにも関わらず、時にジャンプする。
人間の場合はジャンプが必要だ。
アインシュタインもジャンプしたが、継続させる事ができたから流体の性質を失わなかった。
どうやらポアンカレ予想を解いたグレゴリー・ペレルマンは、時々ジャンプすることを忘れてしまったから自分を失ってしまった。だから、世界から自分を消した。
それはそうだ。人は器には閉じこめられていないが、存在に閉じこめられているので、時々解放されることが必要だ。それを、ここではジャンプと呼ぶ。
飛び上がって地面から離れ間は、少しだけ存在から解放されることができるのだ。
そうでなかったから、ペレルマンや彼には届かなかった何人かの数学者は破壊してしまった。
アインシュタインは、舌なんか出しながら時々ジャンプして理論を完結させることができた。もちろん、流体の性質も維持できたからだ。
アインシュタインやペレルマンは、言わば領域の頂点だが、決して頂点に立つことのない凡庸な我々にも流体性想像力が必要だ。
それがあれば、唯のアラフィーや、唯の格好付け爺や、唯の頑固オヤジや、唯の負け犬にならずに、きっと就活も婚活も、子や孫や配偶者や上司のあしらいも上手くいく。
つまり、・・・・。
だめだ。
もう少しだったが、ランディングを考え始めた。
まだ、漂いがたりない。
2009-02-10
アラフィー反則技 -- 「明治安田生命CM」の巻き
そろそろバージョンを替えてくれないか、と思わずにはいられないCMがある。同時に、そこにはまっている自分がいる。実は相当レベルにはまっていることを自覚せずにいる。そして動じる。これを、アラフィーシンドロームと呼ぶ。
次男の「音楽発表会」なるものが保育園で催された。三十人弱の六歳児が、歌たったり楽器を奏でたりの三十分。二つ目の演目で八人の一人に選ばれた次男は「ラ」のベルを片手に、自信満々で五六度右手を振った。何度か順番を忘れた「レ」と「ファ」の愛嬌で、妙に間延びした短い曲をなんとかこなし終えた八人に、集った親たちが割れんばかりの拍手を送る。さすが二人目の子ともなると、このレベルでは動じない。
最後の演目では園児全員が、「ありがとう」連発の歌を唄った。広間に並べられた園児用の小さな椅子に腰掛けた母親達の大半が、ハンカチで目頭を拭っている。演じている子ども達の「さっさと終えて、早く遊びたい」気持ちとは裏腹に、これでもかと畳込められた親たちの感情は最高潮に達している。しかし、このレベルも既に経験済みだ。動じる事はない。
予定の半分の時間で会は終了し、子も親も感動の箱庭から解放された。仕事に戻った。途中息切れし仕事机に突っ伏した小一時間を除けば、この日も残り数十分というところまで働き続けた。午前中に体験した非日常もすっかり脳裏から消え去っており、ビールを片手に夜のニュースで今日を締めくくろうとTVのスイッチを入れた途端だ。
~時を超えて君を愛せるか、本当に君を守れるか~
~君のために今何ができるか~
アラフィーに対する反則技は見事急所を突いた。長男の出産に始まり、次男、三男の成長の記憶がこの15秒間に蘇り、今朝目にした次男が「ラ」を振る姿までが目蓋に浮かび上がる。涙腺の制御は不能となり、頬伝う滴は止めどもなく。グラスを傾けるのと空いた手で頬を拭うのを繰り返す。小田一正なんて、ダセーヨ。もう、声にもなっていない。
2009-02-09
推定無罪(1990年公開)
サスペンスで忘れてはいけない一本が、「推定無罪」。
主演は、いつも通りのイメージでハリソン・フォード。共演は、「蜘蛛女のキス」(1985年)でホモ受刑者の相棒、「アダムスファミリー」(1991年)で不気味なお父さんを演じたラウル・ジュリア(故人)、「ダイハード」シリーズでブルース・ウィリスの女房ホリー役を演じたボニー・ベデリア、その他渋い役者が脇を固めている。「コカコーラ・キッド」「グッドモーニング・バビロン」(どちらも好みの映画です)に出演したグレタ・スカッキーも、直ぐ死んでしまうのだけれど、重要な役所を演じる。
制作は、以前二度にわたりブログで記した巨匠シドニー・ポラック。監督は、アラン・J・パクラで、「コールガール」(1971年)、「統領の陰謀」(1976年)。キャストやスタッフだけでも観る価値のある映画だ。
筋書きも書かないし、見所も書きませんが(wikiの解説は少々?なので読んだりしないで下さい)、レンタルする映画に迷ったら是非観て欲しい映画です。お酒を飲みながらというよりは、コーラとポップコーンを抱えて座り心地を整えて一気に観る事をお勧めします。(ポップコーンは、くれぐれも塩とバターで、どっさり用意して)とにかく、好いドラマは、トイレに立ったりせず一気に観きる。
シリアスな物語を描こうとする時には実力のある役者さんが不可欠であることも、この映画で教えられる。人気者に頼る事をせずともエンターテインメントした「犬神気~」でもそうでした。どちらも監督の狙いと技術がピッタリ一致した作品。無駄な演出がなく、役者も監督の要求によく応えています。
昼飯を済ませたところでうっかりTVのスイッチをオンしたところこの映画が始まって、結局オフに出来ずに最後までいってしまいました。仕事を再開しようと開いたノートブックは完全にお休みモードに入ってしまい、ポップコーンを作るのも忘れて見入ってしまった。(もともとポップコーンなんで無いんだけれど)仕事の遅れを取り戻そうと思ったら、しまった! 「ヒーローズ」が始まった。まあ、これもエンターテインメントと言えなくもないね。
追:
昨晩の「ダーウィンが来た!生き物新伝説」(NHK)で扱ったイワヒバリ。鳥類には珍しく多夫多妻制なのだそうです。雄雌それぞれ数羽のグループをつくり、雄雌それぞれにヒエラルキーもありますが、全部の雄が全部の雌と交尾します。雌は、尾羽を持ち上げ真っ赤な陰部をヒラヒラさせながら雄を誘います。全ての雄を誘いますが、ヒエラルキートップの雄から順に誘います。他の雌が近づくと蹴散らします。「アタシがやるまで、邪魔すんじゃないよ」って感じです。小二の息子は黙って観ていました。
それぞれ子どもを育てますが、はっきり言って誰が誰の父親かは定かではありません。そして、全ての雄がヒエラルキー上位の雌の子に優先的に餌を運びます。男親は全員、一番のべっぴん(ヒエラルキートップの雌)の子は自分の子だと勘違い(?)するからです。四番目の母親は自分で餌を探しています。時には餌不足で餓死する子もいます。小二の息子が、ようやく「かわいそうだね」と言葉を発しました。
雄の情けなさを痛感します。結局、事後宣告でしかないのです。
「あなたの子どもよ」
「推定無罪」は、やはり雄の無力さを、いや女の凄まじさを感じる映画です。
2009-02-07
2009-02-06
これ、やりたいぞー
スリルを求めたい割には、それなりの安心感もほしいわたしなんかには超魅力的なアドベンチャーに思えます。
上とは全く無関係なのだけれど、気に入っているので載せてしまう。
"進化はセクシーへ"ということなんです。
アラフィーくらぶ・・・「世界の料理ショー」の巻き
私 「子どもの頃に、世界の料理ショーってのがあってね、・・・」
某アラフィー 「知ってる知ってる」
某アラフォー 「見てた、見てた」
本日のゲストは、四ッ谷にお住まいの某アラフィーと、板橋在住の某アラフォー。やっぱり宮台の説は正しそうだな。現アラフィー世代は、テレビ番組や映画といった話題に超食いつきがよろしい。
世界の料理ショーは、wikiによると、
<世界の料理ショー(せかいのりょうりショー、The Galloping Gourmet)は、1968年から1971年まで、カナダ放送協会(CBC)で制作・放送された料理バラエティー番組。料理研究家のグラハム・カーが司会を務めた>
40年も前だったんだね。私も随分とオマセなガキだったんだな。それにしても、アラフォー某氏は、何時ごろ観ていたんだろう。
因みに、グラハム・カーは71年、夫人と共に交通事故に遭い番組継続が困難になったため、番組を中断。その後90年代に入り「新・世界の料理ショー」がカーにより制作された。この時は、時代的な健康志向の高まりと夫人が病に倒れた事が重なり、低カロリーな料理を提案していたという。残念ながら、こちらは知らなかった。
さて、盛り上がったのは料理そっちのけで、やれ「ワインを口にしながら男が料理というところに憧れた」とか、「何故か男は刃物に惹かれる」だとか。誰も、具体的なレシピの事なんか持ち出しもしないし、覚えてもいやしない。あの頃は、あらゆる年齢が、西洋文化や異なるライフスタイルに対し強い憧れを抱いていた事の証なんだろう。
さて、実はグラハム・カーは料理好きの番組プロデューサーで、番組も所謂バラエティーの範疇でしかなかったのだが、それがウケた。実は現在、本物の「フレンチの神様」ジョエル・ロブションの料理番組が放送されているのだ。TOKYO MXの午前11時から25分間。お勤め人は誰も見る事のできないこの時間帯に、こちらは真剣そのものに料理を紹介する。勿論、レシピや手順も、ジョエル・ブロション自身が担当する。
なんといってもあのジョエル・ブロションだ(もう三回目の記載だから、きっとgoogleでも検索されるな。検索結果にみんなガッカリだ)。しかし、それだけだ。実に中途半端な作りで、番組的には興ざめだ。「7分煮たから、もうできたかな」などと言ったりする。何故に最近の料理番組は、全てを数量化するのであろうか。ツボがない。「さあ、ほろ酔いになったところで、お鍋の中を覗いてみようか」と、ワイングラスを舐め舐め横滑りに移動したグラハム・カー。TVという厨房での味付けは、番組プロデューサーに軍配が上がった。
ところで、・・・
誰かコーヒーの番組を作ってくれないか。エスプレッソ1人前を上手く淹れる方法が知りたい。理想のエスプレッソはあるから、それを毎度上手く淹れるコツが知りたい。
私が愛用するのはbialetti社のモカ・エクスプレスという1人用の抽出器。豆はヤマヤでまとめ買いするブラジル産の安物。開封直後の豆を、ショットグラス3/4の水で、弱火にかける。時々中を覗き込みながら、抽出口から「シューッ」という音が聞こえてきたところで「とろ火」に落とす。辛抱して見つめていると、悪魔の誘惑のような細かな泡(クレマ)が立ち上ってくるのが分かる。後は暫し辛抱。クレマがビアレッティの半分ほどに達したら、ショットグラスに注ぐ。コーヒーはまだ抽出されるからビアレッティをコンロに戻す。
実は、このグラスの底1センチにしかならない、言わば一番搾りだけが、本物のコーヒー。三四ミリの細かなクレマの下の溶けたチョコレートのよう真っ黒な1センチ弱のコーヒーに、私はティースプーンスリコギ1杯の砂糖を加えて頂戴する。とろけるクレマが舌先に絨毯となって敷き詰められ、甘さと苦さの絡まり合った濃厚な液体がその上を滑り込んでくる。初めてこの方法で抽出が出来た時は、トレステーベレ(ローマの下町)で味わったCafeを思い出してしまったほど。これぞ、コーヒー。スタバもタリーズも、セガフレドも超えてしまった。
普段お金を出して飲んでいる「美味しいコーヒー」は、その後ビアレッティに抽出された二番煎じ程度の味でしかない。お店で淹れるほうが美味しいに決まっているのだが、トレステーベレのように数ミリのコーヒーで納得するお客がいないから、日本のカフェでは量を増して提供している。豆の量は変わらないから当然薄くなってしまうのだ。因みに、スタバのカフェはかなり頑張っているものの、紙のコップがダメなのだ。そこが、頭の悪い効率性一点張りのアメリカ人には分からない。味覚は、視覚や嗅覚といった他の感覚と積み重なって生み出されるものなのだ。防水加工された紙コップにプラスチックの臭いのする蓋をされ、幅の広い底で僅かに残った廃油のようだ。スタバはコーヒーを殺している。
そんなことより、前述「奇跡のコーヒー」は気まぐれで、10度に1度しか淹れることが適わない。火力に差が生じぬようにと換気扇を止め窓も閉め息も殺し、水の量は何度も足したり捨てたりしながら案配を探し、豆の詰め具合もティースプーンの腹に親指を添えて慎重を期し、とにかく気を遣いまくって淹れたところで出来るとは限らない。エスプレッソの鍵となるクレマが上手く立ってくれない。レシピが作れないのだ。
エスプレッソは、クレマ。クレマがエスプレッソを決めるのだ。
誰か、百発百中で「奇跡のコーヒー」を淹れる方法を示してくれないか。
??百発百中だと「奇跡」とは呼べなくなるか・・・。
2009-02-04
アラフィーくらぶ・・・「青い体験」の巻き
若女ケツ 「青い体験っていう映画があって・・・」
私 「おお、知ってるよ、青い体験」
現在アラフィーに居る年代は、「メディアを通じた共通体験に敏感」らしい。同年代の宮台真司が記していた。
青い体験は、wikiによると、
<青い体験(Malizia)は、1973年のイタリア映画。母の死後、家政婦としてやってきた若くて美しい年上の女性を相手に、思春期の少年が初体験を遂げるまでを描く。いわゆる「筆おろし(少年の初体験)もの」と呼ばれるジャンルの代表的作品。現在日本ではDVD化されていない>
充分な解説だ。それ以上の映画ではない。それにしても、DVD化していない日本は未分化な国だなあ。
ついでながら、家政婦アンジェラ役のラウラ・アントネッリは、この映画で一躍スターの座を掴んだ。その後ヴィスコンティの映画なんかに起用されたりしている。もの凄い出世だ。そんなことより、共にアラフィーの若女ケツ氏と私は、スクリーンでチラリまくりの彼女に完全にノックアウトされていたのだ。この日それが判明した。当時は二人とも中学生。下腹部のむず痒さに酔っていた。やはり同年代だったであろう「筆おろされ」ニーノ役のアレッサンドロ・モモに激しく嫉妬した。そして二人とも、自室に戻って使い古した大人の本をめくった。
その後我々は、アニメ論を交わした。ガンダムが日本人の世界観を変えたと氏は言った。残念ながらガンダムは殆ど読まなかったので、その意味が理解できなかった。その実、そんなことはどうでもよく、二人とも会話の虚しさにため息をついていた。
帰りの方向が同じ氏とは、電車の中で高校野球の話をした。71年(昭和46年)夏に福島県代表磐城高校が、「小さな巨人」田村投手のもと決勝まで勝ち上がった。その当時は、各県1校の出場は認めておられず宮城県の代表校と東北大会決勝を勝ち抜いての甲子園出場だった。磐城高校も田村投手も私には関わりがないのだが、実はその時の東北大会決勝の相手校が私の母校(宮城県古川高校)だった。さらには、その時の古川高校野球部の監督が、1年の担任だったということを自慢したかっただけだ。はっきり言って自慢にはなっていなかった。
そして、電車が駅に着いた。
「じゃ」と言って氏は乗り替えて行った。
再び虚しい溜息が出た。
動き出した電車はいつもと異なり、緩いカーブをに差し掛かっていた。仕方なく一駅先で折り返し、先ほど氏が乗り替えた駅まで戻り、行き先の正しい電車に乗り換えた。
この夜、三度目の溜息が出た。
2009-02-03
2009-01-27
トルゥーマン・ショーとあの国の報道
ジムキャリーが主演した、「トゥルーマン・ショー」という映画を思い出す。映画では、周囲の世界に小さな疑問を感じた主人公のトゥルーマンが、真実を知るため自分の属する世界から脱出しようと試みる。そんな彼を制止しようと、「摂理に従うのだ」と天の声が呼びかける。トルゥーマンの誕生から成長の過程をTV番組化して大成功したプロデューサーがコントロールタワーから彼の逃避行を監視していたのだ。彼が信じていた世界は、番組のためにつくられた虚構の世界で、両親やご近所、警官から政治家まで全てが「仕込み」の偽物。仕事が終わる、つまりその日の出番が終わると帰宅して本来の人生に戻るのだ。結末に関するネタバレはやめにしておくが、まるであの国のようである。
とても情けなくなる。彼らの歴史を尊敬し、過去の悲劇に同情し、現在の奮闘振りにエールを送る人々も大勢いるというのに、これだ。地上の人類の5分の1もの数を、そんな方法でコントロールできると未だに信じているのならば、彼らが残りの5分の4から正当な評価を得る事などあり得ない。
経済特区を訪れただけであれば、そこは自由経済圏であるとの実感を持つし、格差を容認する競争社会の側面を目撃するし、表面的には限りなく自由社会化したことを表象する。当地の人々もそのように振る舞っている。しかし、今回の報道の類に接する度に、10億の人間が全員、お上の指示に従って「開かれた国」の素振りを演じているだけなのかもしれないと肌が粟立つ。
考えてみれば、どおりであの国出身者は世界のあちらこちらにタウンを持つ。これまで自国を抜け出した人々の数は数億人を数えるのではないだろうか(統計的な数字はわからない)。彼らは、国外へ出る事によって本来の人生を見つけることができたのかもしれない。母国の親族や知人には、外の世界の生活や社会の状況も報せているにちがいない。あの国の人々だって、報道の全てが真実などとは考えまい。計り知れない力の存在を生まれた時から感じて生活しているからこそ、対外的な役を演じて生きることができるに違いない。
我々の親の世代にはこの国もそうであった、ということを思い出して、また肌が粟立った。
2009-01-24
オバマの日本観と我々
保護主義指向の強い民主党から選出されたオバマの日本観、日本人観を考えた。全くの私的な説で、根拠はない。
ジョンレノンが撃たれた前年、オバマは故郷ハワイを後にロサンゼルスへ向かった。ケニア人の父と白人の母の間に生まれハワイで育ったオバマは、大学生活を送るため初めてアメリカ本土へ足を踏み入れた。実は、オバマはこの時初めて「アメリカ」を目にしたのだ。
その翌年、私はサンフランシスコに立った。私にとっても初めての「アメリカ」体験であった。そしてこの三年間に持ったアメリカに対する理解が、現在でもアメリカを捉える時の基礎になっている。オバマはアメリカ人であるし、私は短い間学生の身分でアメリカを通過しただけの存在だ。同時期にカリフォルニアということを除けば、立場も過ごした街も目指した学問も異なるが、同じ時代の空気を吸っていた。
*****
当時日本は、インフレやオイル危機を経てもなお驚異的な経済成長を続け、未だ安かった円のおかげで盛んに輸出で黒字を重ねていた。アメリカ人もオイルショックを経験し経済的な日本の小型車(シビック)を最も愛するようになった。家電製品の性能とかっこよさは無骨なアメリカ製品を凌駕し、ソニーは羨望の的となった。しかし、アメリカの製造業従事者、特に一般の労働者は日本製品の攻勢により経営を圧迫された影響をまともに受け、レイオフが頻発、日本に対する嫌悪感を益々強めていった。
一般の市民でさえ、イエロー・モンキーやエコノミックアニマルと叫んで、抑えきれなくなった反日感情を隠そうとはしなくなっていた。真珠湾攻撃40年を記念して「エノラゲイ」を扱ったテレビ映画が放映された。物語の終盤、エノラゲイがリトルボーイを広島上空へ投下したシーンでは実際の映像が使用され、それを目にしたレジデンスクラブ(滞在型の安宿)の住人は、立ち上がって「イエーィッ!!リメンバー パール ハーバー」と叫んだ。私は恐れをなして自室へ逃げ込まなければならなかった。
日本人が多数訪れる観光地ハワイ出身のオバマは、アメリカ本土における日本人に対する感情を、どのように受け止めただろうか。
少しばかり当時のサンフランシスコの状況に触れると、街には区別された人々が居た。年中訪れる観光客とそれを相手にする商店経営者、加えて金融業界に属するエリート階級、そしてそこから落ち溢れた人々と明らかにベトナム帰還兵とわかる人々。観光と金融の街サンフランシスコには、凌ぎやすい気候はあっても落ち溢れや帰還兵が手に出来る職はない。
ウイル・スミスの「幸せのちから」は、この頃のサンフランシスコを舞台に、主人公のクリス・ガートナーが正に81年から翌82年にかけて証券会社でのし上がっていく奇跡の物語だ。輝くサクセスストーリーとは対照的に、ベトナムからの完全撤退から既に7年もの月日が経過しているのに、その間社会復帰ができずにいる元兵士が多数存在した事実に驚いた。同時に、アメリカ社会に対する知識もろくに持たない私のような者にさえ、彼らに明日は来ないであろうということが漠然と感じられた。ホームレスという言葉は、この頃既にアメリカでは一般的に使われていた。
ベトナム帰還兵や失業者が、時に通りの一角に列をなしている。サルベーションアーミー(救世軍 -- キリスト教団体による救援団体)が提供する「ただ飯」にありつこうというのである。私も偶然並んでみたが、手にした食事は、普段文句をつけてばかりの宿泊所の食事が豪華極まりない物に思えるほど悲惨だった。暖かい食事にありつくということが、職のない彼らにとっては唯一の救いだったに違いない。そんな横を、成功を手にした第二第三のウイルスミス(勿論ガートナーのこと)がフェラーリを駆っていく。アメリカは、当時からそんな国だった。
自動車や家電製品で大儲けした日本人は、毎年大量にサンフランシスコを訪れていた。(勿論ロサンゼルスにも訪れていた)そんな観光客に対し、サンフランシスコの住人は、根っこの感情を押し殺して笑顔で接していた。どっさりお金を落としていく、よい客なのだから当然だ。しかし、直接利益を享受できる商店主は我慢できても、サルべーションアーミーに列を作る人々やインテリの中には、複雑な感情を持つ人々も沢山いた。「我々を苦況に追い込んだ彼らが、我々から巻き上げた金を持ってやって来る」 経済状況が思わしくない時に、好況に浮かれた人間が憎らしく見えるのは一般的なことだ。
残念な事に、サンフランシスコに移住している日本人や日系人達は、母国の民に与えられた悪いイメージを払拭しようという努力に熱を入れることをしなかった。ジャパンタウンで開催されるサクラ祭りに訪れているのは日本人観光客ばかりだし、来日したYMOのコンサート会場もジャパンタウンのホールで、観客は9割が日本人だった。チャイナタウンのように露骨な閉鎖性を示さない代わりに、日本人はほとんど自ら存在を示そうとしない。善く言えばうまく融け込んでいるし、逆を言えば「美味しいところだけ取っている」。後者に取る者も多かったはずだ。何せ目の前を、日本人客を満載した大型観光バスが連なるのを連日目にしているのだから。
東芝のラジカセが燃やされ、シビックの窓が割られるニュースは、もう当たり前のことになっていた。
留学中一度だけ赴いたLAのディズニーランドにも驚くほどの日本人観光客がいた。留学中にLAを訪れたのは一度だけで、ダウンタウンとディズニーランド、ダウンタウンとメルローズ通りを往復しただけだから、市民の暮らしぶりは分からなかった。オバマはその頃私立の単科大学生だ。
LAは、サンフランシスコより余程大きな街であるし、UCLAやUSCなどといった有名ブランド大学も多い。勿論、ビバリーヒルズやハリウッドを有し唯でさえ煌めく街だ。その分クラス(階級)も存在するし社会の影も濃い。イーストLA(ロサンゼルス東部)は、低所得の労働者階級の居住地区で犯罪多発地帯でもある。ブルース・スプリングスティーンの「Born in the USA」をもじって、「Born in East LA」という歌まで生まれたほどだ。そんな光と影を、当時学生だったオバマも目にしていたはずだ。当然、派手にお金を遣いまくる日本人観光客のことも。
80年11月の大統領選挙で、カウボーイハットで空に向かって銃を撃ち放った、強いアメリカを象徴する男、ロナルド・レーガンが、二期目を目指す平和主義者のピーナツ農場主ジミー・カーターを破り当選する。現在と逆の状況だ。アメリカ中のインテリゲンチャーは項垂れ、「もうお終いだ」と口を揃えて嘆いた。ブッシュジュニアの二期目と同様だ。レーガン政権では、スターウォーズ計画だとかレーガノミクスだとかの打ち上げ花火が功を奏し、経済は上向いた。一種のバブルだ。第二第三のウイルスミスはこれでフェラーリを手にした。
この時期に、現在のITを支える多くの企業が、産声を上げたり最初の製品を市場に出したりしている。両スティーブが立ち上げたアップルコンピューター(当時)もそのひとつ。ここいらを描いたのが映画「フォレストガンプ」で、ニクソン以降、エンディングまでといったところだ。
勿論、ビルゲイツもこのあたりから台頭してくる。彼らのような若いベンチャー企業家達は、当時の学生から常に注目されていた。我々、オバマ世代にとって、この時代に頭角を現し、のちのアメリカ経済の基盤をつくる若者達は、アメリカ合衆国建国時の様々な方面で足跡を残したパイオニア達を彷彿させる。現に、彼らの哲学や理論が昨日までのアメリカ経済を支えた。
皮肉な事に、80年代から90年代の初めにかけて、IT関連で想起される日本のイメージは、「スパイ」である。産業スパイの事だ。日本の大手数社がシリコンバレーから機密情報を盗み出そうとして摘発された。また、冷戦終結前には、東芝が潜水艦のスクリュー製造技術(軍事機密)を当時のソ連に売りつけアメリカから叩かれている。たしかにこんな日本人のイメージは、常識もモラルも持ち合わせていないモンキーやアニマルとして映ったことだろう。
必死に努力するアメリカ人から旨味だけを吸い取っていく、自分勝手な日本人。オバマの「日本人の原イメージ」が、そんなものであっても可笑しくはない。
留学生であった私にしても、一番出会したくなかったのが日本人観光客だった。
「あなた、日本人でしょ。学生? だったら、△△まで連れて行ってよ。どうせ、暇でしょう」
というような唯我独尊厚顔無恥の筆頭が日本人観光客だったのだ。
アメリカがオバマを選択したというメッセージを、我々日本人個々人がそれぞれの立ち位置で考えなければならないと私は思う。「新しい時代の責任」とオバマは言った。
幾多の危機に瀕する現在を、「新しい時代」の幕開けとするならば、我々日本人の「新しい時代の責任」は、どういうものだろう。世界中の国と人々に対し、日本人として、本当は何を感じ考えているのかを伝える必要があるはずだ。我々は、未来永劫アメリカの尻尾を掴んで生き続けるつもりはないし、自立した国に住むもしくは其処から出でた国民であること、そして自らの財産と尊厳、および自由を確保してゆくつもりである事を伝えるべきである。
どうやって? それをみんなで考えよう。
なお、長文に最後までお付き合いいただきました方には感謝申し上げます。
2009-01-23
プレジデントと大統領
オバマの大統領就任演説について考えている。今回は、「そもそも大統領とは」を少しだけ、言葉の部分から考えた。
広辞苑では、大統領を以下のとおり定義している。
<全文引用>
【大統領】①(president of the republic)共和国における元首。直接国民から選挙され、あるいは議会その他の機関から選出されて、所定の任期の間、その国の全般の行政を統(す)べる行政権の最高首長。また、首相や閣僚を任命し、法律や条約に署名し、外国使使臣を接受するなどの形式的権限だけをもつ場合もある。②立役者の意で、親しみをこめて呼ぶ掛け声。「よう、大統領」
20日就任した第44代合衆国大統領バラク・オバマは、勿論、①の前者。実質的な最高首長だ。オバマに、「よう、大統領!」と声を掛ける人がいたらアメリカも勢いつくかもな。
形式的権限のみの大統領では、イタリアのベルルスコーニが代表例で、事業家、ACミランオーナー、メディア王としてあまりにも有名だ。ジョルジョ・ナポリターノという大統領の存在を知る者はインテリと呼んでも差し支えないほど認知されていないと思える。親しみやすい名前だから、すぐにも覚えてしまいそうなのに。因みに、イタリアは共和国。
また、wikipedia(日本)では、<要出典>の注が付され、以下の記述もある。
<抜粋>アメリカ合衆国の建国時に、国家元首の呼称として権威的な響きのない語を求めて、史上初めて採用した。
同様に、英語版wikipediaには、「president」の歴史として以下のとおり記述されている。(大凡の意味を記した)
英語では、元々英国で委員会や理事会の長(議長など)を指す言葉として使われた。
初期の例では、1179年から大蔵省の長、1464年からオックスフォードとケンブリッジ大学の学長、1660年から英国学士院の長ウイリアム・ブロンカー。
後に、13のうちの幾つかの植民地の政治的主導者に対して用いられる<1608年バージニアに発する>、正式には協議会議長。
最初の国家元首は、合衆国大統領のジョージ・ワシントン。アメリカにおけるその地位は、1774年にはじまる連邦議会幹事長に用いられた初期の用法を、「格上げ」したもの。
<以下、wikipedia英語版より引用>
As an English word, the term was originally used to refer to the presiding officer of a committee or governing body in Great Britain.
Early examples are the President of the Exchequer ("presidentis" in the original Latin, from the Dialogue concerning the Exchequer, 1179), the presidents of the universities of Oxford and Cambridge (from 1464), and the founding President of the Royal Society (William Brouncker, 1660).
Later this usage was applied to political leaders, including the leaders of some of the Thirteen Colonies (originally Virginia in 1608); in full, the "President of the Council".
The first President of a country was George Washington, the President of the United States. In America the title was "upgraded" from its earlier use for the President of the Continental Congress, the "officer in charge of the Continental Congress" since 1774.
さらに、
「president」という単語の成り立ちは、
大統領、会長
[語源] pre-(前に)+L.sedere(すわる)+ent(人[上座に座る人])<出典:地球人ネットワークを創る SPACE ALC>
日本語の大統領という言葉の語源は、ペリー来日の際、「棟梁」をもじって造語したという噂がある。
それはともかく、その背景を見てみると、「合衆国大統領」という地位は初めから最高位にあったわけではなく、アメリカ人が自らの手で押し上げていったものだということがわかる。英国が与えた一権限を、国家の最高責任者へと持ち上げたのだ。
オバマが就任演説で繰り返し説いた、「あの日」の記憶を呼び戻そうという訴えや、建国から変わらぬ「理想」こそが重要なのだという言葉は、現在の大統領の権限やアメリカ合衆国市民としての権利は、すべて自らの手で勝ち取ってきたものなのだということを国民に思い出させるためだったのだろう。黙って与えられるものはない。一生懸命勝ち取らなければならない、というメッセージだ。
過去の栄光に奢ることなく、これからの時代を自ら作り出し、自分達のものにしてくぞという誓いの言葉だったのだ。
果たして私はこれを、遠い海の向こうの他人事として批評家ぶるだけなのか、または命が宿った人間オバマの誓いとして受け取るのか。
宋文洲さんのメルマガに、そんな私へのきつい一言が記されてあった。「最近の中国人には『眼高手低』(望みは高いが、実行力がない)のような人が多い」
あまり大きな風呂敷を拡げることばかりせず、まずは足下をしっかり。その中にこそ、オバマの言葉は活かせるだろう。
2009-01-21
オバマの「あの日にかえりたい」
「100年に一度の未曾有の危機」に瀕した今日、米国史上初の黒人大統領という事実に加え、いまだ世界情勢に対し最大の影響を有する新しい指導者が生まれるのだから、その第一声を聞きたいと思った。結果は、スピーチの途中で眠気に勝てなかったわけだが、今朝和訳された就任演説を読み返し、そして思った。
「市井の皆さん」で始められた演説は、流石に素晴らしいスピーチであった。さらに思った。
オバマさん、少し早口じゃないかい。
彼の肉声がどの程度明瞭に現場に集った二百万人に伝わったのか分からないが、米国内はもとより各国が同時中継し、同時通訳されたスピーチの内容に多くの人々が耳を傾けたはずだ。深夜の完全な静寂の中にあってテレビで視聴している私でさえ、同時通訳の??世起子さんが負けじと早口でまくし立てた内容は一部追いつけないほどだった。
シンプルだが凝縮され理路整然とこれからのアメリカを語る新しい指導者が、自分達を置いてきぼりにするのを感じた「市井の」人々は少なくなかったのではないか。大統領として発する最初のスピーチである。「市井の」人々が受けた第一印象が、オバマの四年間にどう影響を及ぼすのかが、まずは楽しみになった。
余談だが、二百万人が生み出す静寂というものにも凄みを感じた。
途中までライブ中継で見た演説と今朝読み返した内容で次の事を感じた。
オバマさんはどの日に帰りたいの?
冒頭彼は、「先祖が支払った犠牲」、「先祖の理想」という言葉を用い、そしてこれまでアメリカ人は先祖の理想に忠実に、「ずっとやってきた。この世代のアメリカ人も同様にしなければならない」と語った。
犠牲や理想については、アメリカ合衆国建国時の人々についても、また人種問題を闘った先人たちについてをも含んでいるであろうが、今ここで想起し掲げるべき理想は、果たして眼前の二百万人を含めたアメリカ人に共通して認識されるものなのであろうか。現在の、「アメリカ人」と自覚すべき「市井の」人々のあいだに、それほど共有された原体験が存在するのだろうか。
続けてオバマは、「暴力と憎悪の広範なネットワーク相手に戦争を行っている」と現在の国家安全上の危機を定義し、「一部の強欲と無責任の結果」が経済的な危機を招いたとし、更に社会保障や環境、教育においても危機的な状況にあると語った。
これらは、直ぐにとは言わないが、必ず克服可能なものであり、これまで克服を阻害してきた「ささいな不満」、「偽りの約束」、「非難」、「言い古された定説」を終えさせると宣言した。「Yes, we can」である。
つまり、これからのアメリカが「変化」し向かう先は、「先祖の理想」だと言った。タイムマシンがあったとして、目指す先は西暦何年何月何日なのだろう? それはどんな姿だ?
次にオバマは、アメリカ合衆国の主役は、建国以前から「無名の働く男女」、つまり市井の人々であったと語った。彼らの「でこぼこした道を繁栄と自由を目指し」た長い旅が、現在を導いた。オバマの名台詞のひとつである、「白人の国も黒人の国もない、唯アメリカがあるのだ」を強調し、その人達の尊さは「生まれや富や党派を超え」、神からの約束である「平等」、「自由」、「あらゆる手段により幸福を追求する機会を与える」という考えを発展させてきた事であるとした。
アジアで過ごしたことのあるオバマは、何かの機会に美空ひばりの歌を聴いたのかもしれない。勿論、「川の流れのように」
オバマはいよいよアメリカを作り直そうと語る。ここでは、経済、科学技術、環境、医療・福祉、教育が主要な領域であり、これらにおいて「新たな成長の礎を整える事ができる」と語った。何故ならば、未だアメリカは、「力強い国」であり、労働者の「生産性は高く」、「創意に富み」、「能力も衰えていない」からだ。
次にオバマが発した言葉は興味深かった。優秀なアメリカとアメリカ人は、「想像力が共通の目的と出会った時」、「必要が勇気に結びついた時」にアメリカを作り直すことができると言った。
「想像力と共通の目的」、「必要と勇気」といった対の概念は、言われればなるほどであるが、少なくとも私には発想が出来ない。このあたりは、アメリカ人が突如として元気を取り戻したりする際のマジックなのかもしれない。
そしてオバマは、アメリカ社会の再構築のみならず、政府のリストラにも言及する。「我々が今日問うべきなのは、政府の大小ではなく、政府が機能するか否かだ」 さらに、国民にその答えを出してくれ、「答えがイエスの場合は、その施策を前進させる。ノーならば終わりとなる」と宣言する。それは、「公共の利益に通じる」かどうかで判断してくれと言い切る。
この辺りの覚悟については、羨望の思いを禁じ得ない。「あさう」さんと読むんだっけ? 何処かの内閣最高責任者もこのスピーチを耳にしたなら(読んでも読み違えが多いから、側近に読んでもらえばいい)、腹をくくってくれないかな。行きつけの店の常連の一人は、「あの程度のバカなら許せる」と言っていたたが、とっくに度は超えている。「公共の利益」程度の漢字であれば読み違いもないだろうから、いい機会だ、もういっぺん考え直してみてくれ。
国家の安全に話は続き、今後は「安全と理想を天秤にかけるという誤った選択を拒否する」、「大義の正当性や模範を示す力」と表し、加えてイラク撤退やアフガニスタン増派に触れ、自らの立場を改めて明確にした。
ソマリア沖の海賊討伐のための自衛艦派遣が可能になる日本は、今後の軍事力展開について明確な態度と法整備を急ぐ必要がある。よもや、国民財産の保全と建前を天秤にかけるような愚行は犯さないで欲しいと願う。
話はその流れにおいてテロに及び、「イスラム世界よ。<中略> 握った拳を開くなら、我々は手を差し延べよう」と、「権力にしがみつく者」へ向けて言った。当然、国を代表しメッセージを発する事ができるのは、メディアを含めある権力を有するものだけだから、「イスラム世界」とされる国々がどのように反応するのか興味深い。
また、ここでは同時に、「貧しい国々の人々よ、我々は誓う」と延べ、「我々が国境の向こう側の苦悩にもはや無関心でなく、影響を考慮せず世界の資源を消費することもないと言おう」と宣言し、加えて「我々も世界と共に変わらなければならない」とアメリカ社会に対しても、変化を促した。これは、大きな経済問題を抱える米国にとっては、非常に辛いオブリゲーションとなるわけで、今後具体的にどのような方策が考え出されるのか注目したい。
環境、省エネ、太陽他エネルギー発電において世界をリードする日本の技術は、これを受け知恵を絞らなければならない。オバマのこの発言は、低迷する日本の製造業への活性剤、もしくは新たな基準で考慮される製造業全般のエネルギー問題、環境問題における日本の科学技術展開の可能性を広めることに繋がるのではないだろうか。
今回何かとリンカーンを持ち出されるオバマの言動だが、次に彼は、ケネディーのスピーチを拝借したと思わせる内容を口にする。テロの流れのなかで、中近東をはじめ紛争地域に派遣された兵士に言及し、彼らを誇りに思う理由は、「奉仕の精神、つまり、自分自身よりも大きい何かの中に進んで意味を見いだす意志を体現している」からだと言った。これは、ケネディーが就任演説で語った、「あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか」を受け、イラクやアフガンの兵士達は今正に、その問いの答えを体現しているのだと訴えているのだろう。
兵士らをその具現者として讃えなければならない状況をもまた、アメリカが危機に瀕している事実をオバマ流に表現したのかもしれない。そして、これは多くの人々から様々な解釈のされ方をするに違いない。オバマはどのようなマネージメント手腕を見せてくれるのだろうか。
スピーチは後半に差し掛かり、新たな責任についてが語られた。オバマが仕向ける新たな挑戦において、その成功の鍵を、「誠実や勤勉、勇気、公正、寛容、好奇心、忠実、愛国心といった価値観」であるとし、これらの価値感こそが進歩するための力となってきたという「事実に立ち返ることだ」と呼びかけた。冒頭に語ったように、社会の有り様は、教育を含め危機に瀕しているとの強い認識がオバマにも勿論アメリカ市民にもある。そして、ここに価値感として挙げられたものは、おそらく世界中のどんな国においても人間の重要な資質であることは間違いがない。つまり、アメリカは今、人間そのものが病んでいるのだと言っている。国や社会を変革するうえで最も重要な民力が、現在衰えているのだということを言っている。
我々日本人はどうであるか、と少し考えてみたい。私が見る限り、数年から十数年のタイムラグをおいて、明らかに日本人はアメリカ人の後を追っているからだ。明日は我が身であると言いたい。
結びとしてオバマは、「我々の子孫に言い伝えられるようにしようではないか」、「自由という偉大な贈り物を運び、未来の世代に無事に届けた、と」と締めくくった。
1997年、ビル・クリントンの第二期就任演説において、やはり締めくくりの言葉として彼はこういった。「まだ顔見ぬ世代や、その名前もわれわれは知らない世代が、ここにいるわれわれにこう言うことを祈ろう。われわれが、愛する土地を全てのアメリカの子供たちに生きたアメリカンドリームをもたらす新しい世紀に導いたと。すべての人々にとって、より完全に連合したアメリカの約束が現実となるような新しい世紀に、そしてアメリカの激しい自由の炎が全世界に広がる新しい世紀に導いたと」
たった十年前の事だ。アメリカが唱え続ける「自由」、次の世代へ送り届けたい「自由」とは、いったいどういうものなのだろう。自由に物が言える世界、しかし気に入らなければ殴り倒される世界。必死に金持ちを目指す事のできる社会、そして道で餓死する人間を放っておく社会。
自由はあったほうがよいに決まっている。しかし、重要な事は、自由は必ず枠組みの中にしか存在しないということだ。枠組みを決める事が、即ち自由を形作るということだ。アメリカの枠組みは複雑になりすぎたのかもしれない。
故に、オバマは「あの日にかえりたい」に違いない。しかし、今日の演説を耳にして、三億人を数えるアメリカ人の中には、どれほど多くの「あの日」が想起されたのだろう。はたして、オバマはそれをまとまりのあるメージや思想、アイコンに向けて導いて行く事が出来るのだろうか。「どの日を思い浮かべたっていいだろう。ここは自由の国だから」ということにはならないのか。
たのむぞ、オバマ。アンタが転けると、やり直しの利かないところまで行っちゃう年寄りが、世界にはゴマンと居るのだ。
何故か軍服姿の荒井由美
「あの日にかえりたい」
荒井由美つながりで、『「いちご白書」をもう一度』ベトナム戦争バージョン
「市井の皆さん」で始められた演説は、流石に素晴らしいスピーチであった。さらに思った。
オバマさん、少し早口じゃないかい。
彼の肉声がどの程度明瞭に現場に集った二百万人に伝わったのか分からないが、米国内はもとより各国が同時中継し、同時通訳されたスピーチの内容に多くの人々が耳を傾けたはずだ。深夜の完全な静寂の中にあってテレビで視聴している私でさえ、同時通訳の??世起子さんが負けじと早口でまくし立てた内容は一部追いつけないほどだった。
シンプルだが凝縮され理路整然とこれからのアメリカを語る新しい指導者が、自分達を置いてきぼりにするのを感じた「市井の」人々は少なくなかったのではないか。大統領として発する最初のスピーチである。「市井の」人々が受けた第一印象が、オバマの四年間にどう影響を及ぼすのかが、まずは楽しみになった。
余談だが、二百万人が生み出す静寂というものにも凄みを感じた。
途中までライブ中継で見た演説と今朝読み返した内容で次の事を感じた。
オバマさんはどの日に帰りたいの?
冒頭彼は、「先祖が支払った犠牲」、「先祖の理想」という言葉を用い、そしてこれまでアメリカ人は先祖の理想に忠実に、「ずっとやってきた。この世代のアメリカ人も同様にしなければならない」と語った。
犠牲や理想については、アメリカ合衆国建国時の人々についても、また人種問題を闘った先人たちについてをも含んでいるであろうが、今ここで想起し掲げるべき理想は、果たして眼前の二百万人を含めたアメリカ人に共通して認識されるものなのであろうか。現在の、「アメリカ人」と自覚すべき「市井の」人々のあいだに、それほど共有された原体験が存在するのだろうか。
続けてオバマは、「暴力と憎悪の広範なネットワーク相手に戦争を行っている」と現在の国家安全上の危機を定義し、「一部の強欲と無責任の結果」が経済的な危機を招いたとし、更に社会保障や環境、教育においても危機的な状況にあると語った。
これらは、直ぐにとは言わないが、必ず克服可能なものであり、これまで克服を阻害してきた「ささいな不満」、「偽りの約束」、「非難」、「言い古された定説」を終えさせると宣言した。「Yes, we can」である。
つまり、これからのアメリカが「変化」し向かう先は、「先祖の理想」だと言った。タイムマシンがあったとして、目指す先は西暦何年何月何日なのだろう? それはどんな姿だ?
次にオバマは、アメリカ合衆国の主役は、建国以前から「無名の働く男女」、つまり市井の人々であったと語った。彼らの「でこぼこした道を繁栄と自由を目指し」た長い旅が、現在を導いた。オバマの名台詞のひとつである、「白人の国も黒人の国もない、唯アメリカがあるのだ」を強調し、その人達の尊さは「生まれや富や党派を超え」、神からの約束である「平等」、「自由」、「あらゆる手段により幸福を追求する機会を与える」という考えを発展させてきた事であるとした。
アジアで過ごしたことのあるオバマは、何かの機会に美空ひばりの歌を聴いたのかもしれない。勿論、「川の流れのように」
オバマはいよいよアメリカを作り直そうと語る。ここでは、経済、科学技術、環境、医療・福祉、教育が主要な領域であり、これらにおいて「新たな成長の礎を整える事ができる」と語った。何故ならば、未だアメリカは、「力強い国」であり、労働者の「生産性は高く」、「創意に富み」、「能力も衰えていない」からだ。
次にオバマが発した言葉は興味深かった。優秀なアメリカとアメリカ人は、「想像力が共通の目的と出会った時」、「必要が勇気に結びついた時」にアメリカを作り直すことができると言った。
「想像力と共通の目的」、「必要と勇気」といった対の概念は、言われればなるほどであるが、少なくとも私には発想が出来ない。このあたりは、アメリカ人が突如として元気を取り戻したりする際のマジックなのかもしれない。
そしてオバマは、アメリカ社会の再構築のみならず、政府のリストラにも言及する。「我々が今日問うべきなのは、政府の大小ではなく、政府が機能するか否かだ」 さらに、国民にその答えを出してくれ、「答えがイエスの場合は、その施策を前進させる。ノーならば終わりとなる」と宣言する。それは、「公共の利益に通じる」かどうかで判断してくれと言い切る。
この辺りの覚悟については、羨望の思いを禁じ得ない。「あさう」さんと読むんだっけ? 何処かの内閣最高責任者もこのスピーチを耳にしたなら(読んでも読み違えが多いから、側近に読んでもらえばいい)、腹をくくってくれないかな。行きつけの店の常連の一人は、「あの程度のバカなら許せる」と言っていたたが、とっくに度は超えている。「公共の利益」程度の漢字であれば読み違いもないだろうから、いい機会だ、もういっぺん考え直してみてくれ。
国家の安全に話は続き、今後は「安全と理想を天秤にかけるという誤った選択を拒否する」、「大義の正当性や模範を示す力」と表し、加えてイラク撤退やアフガニスタン増派に触れ、自らの立場を改めて明確にした。
ソマリア沖の海賊討伐のための自衛艦派遣が可能になる日本は、今後の軍事力展開について明確な態度と法整備を急ぐ必要がある。よもや、国民財産の保全と建前を天秤にかけるような愚行は犯さないで欲しいと願う。
話はその流れにおいてテロに及び、「イスラム世界よ。<中略> 握った拳を開くなら、我々は手を差し延べよう」と、「権力にしがみつく者」へ向けて言った。当然、国を代表しメッセージを発する事ができるのは、メディアを含めある権力を有するものだけだから、「イスラム世界」とされる国々がどのように反応するのか興味深い。
また、ここでは同時に、「貧しい国々の人々よ、我々は誓う」と延べ、「我々が国境の向こう側の苦悩にもはや無関心でなく、影響を考慮せず世界の資源を消費することもないと言おう」と宣言し、加えて「我々も世界と共に変わらなければならない」とアメリカ社会に対しても、変化を促した。これは、大きな経済問題を抱える米国にとっては、非常に辛いオブリゲーションとなるわけで、今後具体的にどのような方策が考え出されるのか注目したい。
環境、省エネ、太陽他エネルギー発電において世界をリードする日本の技術は、これを受け知恵を絞らなければならない。オバマのこの発言は、低迷する日本の製造業への活性剤、もしくは新たな基準で考慮される製造業全般のエネルギー問題、環境問題における日本の科学技術展開の可能性を広めることに繋がるのではないだろうか。
今回何かとリンカーンを持ち出されるオバマの言動だが、次に彼は、ケネディーのスピーチを拝借したと思わせる内容を口にする。テロの流れのなかで、中近東をはじめ紛争地域に派遣された兵士に言及し、彼らを誇りに思う理由は、「奉仕の精神、つまり、自分自身よりも大きい何かの中に進んで意味を見いだす意志を体現している」からだと言った。これは、ケネディーが就任演説で語った、「あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか」を受け、イラクやアフガンの兵士達は今正に、その問いの答えを体現しているのだと訴えているのだろう。
兵士らをその具現者として讃えなければならない状況をもまた、アメリカが危機に瀕している事実をオバマ流に表現したのかもしれない。そして、これは多くの人々から様々な解釈のされ方をするに違いない。オバマはどのようなマネージメント手腕を見せてくれるのだろうか。
スピーチは後半に差し掛かり、新たな責任についてが語られた。オバマが仕向ける新たな挑戦において、その成功の鍵を、「誠実や勤勉、勇気、公正、寛容、好奇心、忠実、愛国心といった価値観」であるとし、これらの価値感こそが進歩するための力となってきたという「事実に立ち返ることだ」と呼びかけた。冒頭に語ったように、社会の有り様は、教育を含め危機に瀕しているとの強い認識がオバマにも勿論アメリカ市民にもある。そして、ここに価値感として挙げられたものは、おそらく世界中のどんな国においても人間の重要な資質であることは間違いがない。つまり、アメリカは今、人間そのものが病んでいるのだと言っている。国や社会を変革するうえで最も重要な民力が、現在衰えているのだということを言っている。
我々日本人はどうであるか、と少し考えてみたい。私が見る限り、数年から十数年のタイムラグをおいて、明らかに日本人はアメリカ人の後を追っているからだ。明日は我が身であると言いたい。
結びとしてオバマは、「我々の子孫に言い伝えられるようにしようではないか」、「自由という偉大な贈り物を運び、未来の世代に無事に届けた、と」と締めくくった。
1997年、ビル・クリントンの第二期就任演説において、やはり締めくくりの言葉として彼はこういった。「まだ顔見ぬ世代や、その名前もわれわれは知らない世代が、ここにいるわれわれにこう言うことを祈ろう。われわれが、愛する土地を全てのアメリカの子供たちに生きたアメリカンドリームをもたらす新しい世紀に導いたと。すべての人々にとって、より完全に連合したアメリカの約束が現実となるような新しい世紀に、そしてアメリカの激しい自由の炎が全世界に広がる新しい世紀に導いたと」
たった十年前の事だ。アメリカが唱え続ける「自由」、次の世代へ送り届けたい「自由」とは、いったいどういうものなのだろう。自由に物が言える世界、しかし気に入らなければ殴り倒される世界。必死に金持ちを目指す事のできる社会、そして道で餓死する人間を放っておく社会。
自由はあったほうがよいに決まっている。しかし、重要な事は、自由は必ず枠組みの中にしか存在しないということだ。枠組みを決める事が、即ち自由を形作るということだ。アメリカの枠組みは複雑になりすぎたのかもしれない。
故に、オバマは「あの日にかえりたい」に違いない。しかし、今日の演説を耳にして、三億人を数えるアメリカ人の中には、どれほど多くの「あの日」が想起されたのだろう。はたして、オバマはそれをまとまりのあるメージや思想、アイコンに向けて導いて行く事が出来るのだろうか。「どの日を思い浮かべたっていいだろう。ここは自由の国だから」ということにはならないのか。
たのむぞ、オバマ。アンタが転けると、やり直しの利かないところまで行っちゃう年寄りが、世界にはゴマンと居るのだ。
何故か軍服姿の荒井由美
「あの日にかえりたい」
荒井由美つながりで、『「いちご白書」をもう一度』ベトナム戦争バージョン
2009-01-19
「noWax」って名前を知ぃってるかい?
noWaxっていうミュージックイベントについては、今更何をか言う必要もないのだろうから、宣伝だけ。
以下、主催者のマサ君の気合いの入った宣伝文句を許可を受けた上で転載します。
なお、意味不明っぽい箇所については<>にて補足。
-----<ここより転載文>-----
今年一発目のnoWax Tokyoがやってきますぜ!
来週1/24(土)18:00~23:00
高円寺CAFE Indian Summer
¥2000 (2drink/1play)
*先着30名限定なのでお早めに!
今回はお笑いげいに<芸人?>デカルコマニの出演もあるので超期待!
まさかの飛び入りゲストも?!
そしてこれからIndian Summerで放送するローカルラジオに出演してきます!
来週のnoWaxの番宣です!
高円寺近隣の方お楽しみに?!
皆さん、iPod片手に遊びにきてねー!
------<ここまで転載文>-------
11行の文面で、8階も「!」マークが使われていたりするんだから、相当本気っぽいね。
因みに今回は30名限定!! なんてことも言っているのだから、本気なんだろうね。
俺の分の席はあるのかネ?
インディアン・サマーの場所は以下で。
東京都杉並区高円寺北3丁目4−10
マップ
マップ
2009-01-09
はっきりしない
山本モナがコケたのは、仕事にしても恋愛にしても「はっきりしない女」だったからだと、山中登志子は言いきった(山本登志子って誰?)。
ずいぶん前になるが、レスター教授ことアンソニー・ホプキンスの来日に際しインタビューを担当した久米宏は、インテリでインタビュー嫌いのホプキンスに対し徹底的にオバカインタビュアーキャラで接した。当然、TVスクリーンを通しても分かりすぎるほどホプキンスは怒っていた。何年も経過していながら、嫌気がさすほど鮮明に記憶の残る無様なインタビューだった。山本登志子ふうに分析すれば、インテリとも真面目コメンテーターとも位置づけされていなかった久米は、かつてクイズや歌番組で定着したオトボケキャラを敢えて自キャラとして立ち位置を印象づけたということだったのだろうか。ニュースステーションのMCを長年続け、妙に日本の「ふつう」な常識人の顔を持ち始めた自分のポジショニングを、ホプキンスへのインタビューを機にリセットさせたかったということか。「やっぱり唯の人でした」って。
久米はその後、ニュースステーションを降板。そのインタビューがきっかけの一つになったというのは考え過ぎか。
ミニノートとかNetbookとかが、所謂パソコンのトレンドとして持て囃されている。つい最近もソニーの新型ノートPC投入のニュースでネットのニュース紙誌面は大賑わいだ。PCだから機能は多彩だし見た目も華やかだ。私は、既に生産が終わったシグマリオンというPDAを2世代使った。小型だからキーボードは打ちにくかったが荷物としてほとんどかさばる事がなく(単庫本程度の大きさで半分の薄さ)、USB接続やSDメモリーによってデスクトップへデータ移行が出来たから、出張時のインタビュー記録や報告書のネタ記録用としては充分だった。繋ごうと思えばネット接続もできた。繰り返しになるが、どうせまともな仕事環境が期待できない出張先でのテキスト入力(結局仕事場に戻ってフィニッシュワークが必要なのだ)には十分なガジェットだった。そのための道具として、はっきりした機能の割り切りがあった。惜しい代物だった。
冷蔵庫に電話機を入れていた。二種類あったから気分で使い分けていた。ひとつはバドワイザーの缶でもうひとつはハーシーのチョコレートが牛乳パックに入っているモノ。どちらも見た目は缶ビールであり、飲むチョコレートのパックなのだ。もともと電話だからきちんと通話もできる。但し、トーンの出ないプッシュボタン式で本当に通話が出来るだけだった。どうせ電話なんか希な事だったし、彼女が居なけりゃ長電話の必要もない。たまの来客に、「電話貸してくれる?」と頼まれるのをひたすら待った。「いいよ、冷蔵庫で冷えてる」と答えた時の相手の呆け顔を楽しむため「だけ」のアイテムだった。
最近の携帯は、電話なのかメーラーなのか音楽プレーヤーなのか、はっきりしない。最近のビールの類は、ビールなのか発泡酒なのか第三種なのか、その差がいったいどれぐらいのモノなのかはっきりしない。最近のお笑いは芸なのかどうかはっきりしない。最近の男も女も、愛し合っているのか畏れているだけなのかはっきりしない。「そのうちみんなこけるぞ」と山中登志子が言ったかどうか知らないが、「成功に至る第一歩は、自分が心に何を望んでいるかを見つけ出す事です。それがはっきりとわからないうちは、何を期待してもだめです」とカーネギーは言っているぞ。
注)写真は本文の内容とは全く何の一欠片の関連もありません。
2009-01-08
メンズブラ
習慣的なものか条件反射なのか、クリスマス時期のWham!"Last Christmas"と新年のU2"New year's day"は毎年聞くんだよ。
で、年明け一発目としてはどうかと思いながら、昨年末アラフィーくらぶを設立したことでもあるし(関係ないか?)、「ブラ」の話題だよ。楽天市場のウイッシュルームという店が販売している「メンズ・プレミアム・ブラジャー」。
男の化粧やパンストは、巷で見掛ける事も多いし、自分でも経験がある。とは言ってもそこは飲んだ勢いの余興程度の経験だから、日常的に身に着けることなどは当然想像の外にある。余興程度とはいっても、べったりと塗りたくられた口紅の不快さに唇が閉じられなくて突き出し加減に固定した不自然きわまりない顔の強張りが、太い鉛筆でしつこいぐらいになぞられた目蓋を開けて飛び込んできたときのその異様さたるや。思わず屁を漏らしたほどのバカバカしさだった。
確かにブラは外見では分からないだろう。だからこそ、それを日常的に身に着けようとする男の内心は最早想像を超える。
別にブラを購入した男性の皆がみな「コレ」*ってわけじゃないんだろう?
記事には「どうしてメンズブラはないの?」という声に応えたとあるんだが、そもそもどうしてそんな疑問が湧くんだ?
着けると「やさしくなれる」とか「リラックスできる」って、何だよそれ?
*「コレ」・・・手の甲を反らせて小指を少し離し加減に、反対側の頬に添えるポーズ
男性用の下着も、パンツは確かに変遷を経た。白ブリーフだけの時代から、色が付いたり、にわかにトランクスが流行ったり、かと思えばボクサータイプが台頭したり。今では日常の下着としてブーメランやヒモパンみたいなものまであるからメンズブラが出てくる素地はあったのかもしれない。余談だが、パンストの感触は、初めてボクサータイプがぴたりと股間を締め上げた時のそれに近かったかもしれない。
しかし、そもそも男のパンツには、二つの○と弛緩状態の凸をしまい込んでおく場所という、歴とした疑いようのない正真正銘の目的があるではないか。ブーメランだってヒモパンだって、そこは外さずに機能デザインされている(はず)だ。男の下着には機能的な理由がある。
女性のブラにも、それは全く同じことが言える。二つの凸を落ち着かせておく。多少、ボリュームの誇張や形の欺瞞があるにしても基本的には男性と同様、凸が必要とされないときの格納場所である。
で、はたと疑問が生じる。
では、「女性の下着、ボトムについてはいったいどのような存在理由があるのか?」
収納せねばならない凸はない。女性特有の生理的状況への対応は、まるまる1ヶ月必要ではなかろう?
そもそも昔々の女性達は腰巻きだけで他の下着など着けなかったではないか。
まさか、女性は下着をつけることで優しくなれたり、リラックス出来るわけではなかろう?
確かに下着を外した途端に野獣と化す女人がいるとは聞くが・・・。
どうやら男性ブラに対する欲求の秘密は、女性の下着の必要性の解明に鍵がありそうだ。
四谷アラフィーくらぶの第二回会合における議題が決まった。今年も四谷アラフィーくらぶは、一般世間のそれとは異なる理由で眉間に皺寄せ口角泡を飛ばす事になりそうだ。
追:U2が"40"という曲を奏で始めた。「俺は、新しい歌を歌うよ」と会場の聴衆を巻き込んで叫んでいる。俺は50になっても同じ詩を口ずさんでいる気がするな。
で、年明け一発目としてはどうかと思いながら、昨年末アラフィーくらぶを設立したことでもあるし(関係ないか?)、「ブラ」の話題だよ。楽天市場のウイッシュルームという店が販売している「メンズ・プレミアム・ブラジャー」。
男の化粧やパンストは、巷で見掛ける事も多いし、自分でも経験がある。とは言ってもそこは飲んだ勢いの余興程度の経験だから、日常的に身に着けることなどは当然想像の外にある。余興程度とはいっても、べったりと塗りたくられた口紅の不快さに唇が閉じられなくて突き出し加減に固定した不自然きわまりない顔の強張りが、太い鉛筆でしつこいぐらいになぞられた目蓋を開けて飛び込んできたときのその異様さたるや。思わず屁を漏らしたほどのバカバカしさだった。
確かにブラは外見では分からないだろう。だからこそ、それを日常的に身に着けようとする男の内心は最早想像を超える。
別にブラを購入した男性の皆がみな「コレ」*ってわけじゃないんだろう?
記事には「どうしてメンズブラはないの?」という声に応えたとあるんだが、そもそもどうしてそんな疑問が湧くんだ?
着けると「やさしくなれる」とか「リラックスできる」って、何だよそれ?
*「コレ」・・・手の甲を反らせて小指を少し離し加減に、反対側の頬に添えるポーズ
男性用の下着も、パンツは確かに変遷を経た。白ブリーフだけの時代から、色が付いたり、にわかにトランクスが流行ったり、かと思えばボクサータイプが台頭したり。今では日常の下着としてブーメランやヒモパンみたいなものまであるからメンズブラが出てくる素地はあったのかもしれない。余談だが、パンストの感触は、初めてボクサータイプがぴたりと股間を締め上げた時のそれに近かったかもしれない。
しかし、そもそも男のパンツには、二つの○と弛緩状態の凸をしまい込んでおく場所という、歴とした疑いようのない正真正銘の目的があるではないか。ブーメランだってヒモパンだって、そこは外さずに機能デザインされている(はず)だ。男の下着には機能的な理由がある。
女性のブラにも、それは全く同じことが言える。二つの凸を落ち着かせておく。多少、ボリュームの誇張や形の欺瞞があるにしても基本的には男性と同様、凸が必要とされないときの格納場所である。
で、はたと疑問が生じる。
では、「女性の下着、ボトムについてはいったいどのような存在理由があるのか?」
収納せねばならない凸はない。女性特有の生理的状況への対応は、まるまる1ヶ月必要ではなかろう?
そもそも昔々の女性達は腰巻きだけで他の下着など着けなかったではないか。
まさか、女性は下着をつけることで優しくなれたり、リラックス出来るわけではなかろう?
確かに下着を外した途端に野獣と化す女人がいるとは聞くが・・・。
どうやら男性ブラに対する欲求の秘密は、女性の下着の必要性の解明に鍵がありそうだ。
四谷アラフィーくらぶの第二回会合における議題が決まった。今年も四谷アラフィーくらぶは、一般世間のそれとは異なる理由で眉間に皺寄せ口角泡を飛ばす事になりそうだ。
追:U2が"40"という曲を奏で始めた。「俺は、新しい歌を歌うよ」と会場の聴衆を巻き込んで叫んでいる。俺は50になっても同じ詩を口ずさんでいる気がするな。
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