腹が減っている時は誰でも精神が不安定になるものだ。更に空腹を満たす方法が見つからなければ攻撃的にもなる。人間もその辺りは野性なのだ。ナイーブだからではない。今、人がみな空腹だからだ。そんなとき、人間は野性味を失ってはならない。なぜなら野性味を失えば強くはなれず、強くなければ優しくはなれないのだ。知恵を追うより野性を取り戻すことを、今考えなければならない。
実際に腹が減ったときには、一杯の白湯でも空腹感を紛らわせることができるものだ。容易い。しかし、心の飢餓はそうはいかない。年齢を重ねるごとに深刻さを増していく。満たそうとする側の要求が増えていく。カスタマイズされジャストフィットしたものでしか受け付けなっていく。そこじゃなくて、もう少し上。そうそう、もう少し左の方を。ちょっと強く。ダメダメ強すぎ。だから、そうじゃなくてってば、分かんないかな!! 我が儘だ。そう、年をとるごとに我が儘が増すように感じられるのは、ディテールが生じるからなのだ。
肉体的な空腹は生まれた時から死ぬまで、度合いの差はあれ所謂空腹感でしかない。「これは空腹感なのだ」だから、白湯で一時紛らわそう。これを、知恵と呼ぶならば、心の飢餓感は何度となくやっては来るもののなかなか定型化することができない。つまり知恵では解決しにくくなる。勿論大概の人は年とともに知恵が増えていくものだが、心の飢餓感は度重なることにそのディテールが増えていき知恵では追いつかなくなっていく。「この虚しさは、なんだ!?」と猫も唄っていた。心の飢餓感は厄介だ。
若い時なら、「飲んで」「騒いで」「やって」ぐらいが揃うと大凡満たされたつもりになれるが、年を重ねるごとにどうもそれでは事足りなくなってゆき、「飲んで、飲んで、飲まれて、飲んで」という具合に度を超してゆく。しかしそれにも体力が必要だから、ある時期を境に、「独り酒場で飲む酒は・・・」と場末のカウンターの端っこで強いタバコを燻らすことになる。
独りにしておいてくれ
別にクールなわけではないのだ。体力が欠乏しているだけだ。処理できない自分に疲れてしまっているだけだ。野性味を失いつつある。野性を維持するためには体力が重要なのだ。
政治家が全国中継されているにも関わらず稚拙な論議を延々と繰り返すことができるのは野性の証明だ。「バーカ」「オマエこそバーカ」議論の場では、老議員たちも野性味をいかんなく発揮している。何故か。それは彼らが体力を温存する方法を心得ているからだ。自分では考えない(官僚が作ったものを読むだけ)、人の意見は聞かない(席に着いたら直ぐ眠る)、そして国民のことなど真剣には考えない(命など賭けない)。そうやって温存した体力で、闘いを続けている。どうやらこれが政治家の知恵らしい。狡い。
政治家に限らず老人は説教臭くなる場合が多い。これは彼らに知恵の引き出しが少ないためだ。闘いが長期化しないように、所謂「常識」であるとか「一般論」を用いて無理矢理やりこめようとするからだ。説教臭いオヤジに本当の知恵がある人間は少ない。
<うっ!>
知恵の多いオヤジは、ちゃんと付き合う体力がある。途中で寝たりしないぞという覚悟がある。そして、勿論、必死に蓄えてきた抽出一杯のディテールがあるのだ。自分の心の飢餓を満たすことはできなかったけれど、そのために足掻いた記憶をとどめているのだ。
議論は基本的に喧嘩だから、その必要がなくても雌雄を決するため必死になることが肝心だ。野性の原則だ。相手がダウンするまで言葉のパンチを打ち続けなければならない。生半可なパンチではダメージを与えられない。「オマエの母さん出臍」「違うもん」「さっき言ったじゃないか」「言ってないもん」だから、言葉には威力が必要だ。相手を傷つける威力ではなく、ノックアウトする威力がだ。
ノックアウトの目的は相手の息の根を止めることではない。相手に選択肢を与えることだ。具体的でディテールを伴った選択肢を与えることだ。真実と信じていた事がそうではなかった。誤りであると思っていたことにも真実はあった。ノックアウトされた相手は、その後両方を考えねばならない。その人間が野性を失っていなければ、彼は自分にとって本当の真実を求めて悩むだろう。それが、生き抜く上で不可欠なものであることを知っているからだ。そして、強くなるだろう。それが、また誰かへの選択肢を与える上で必要な事をノックアウトから学ぶからだ。
ガオーッ!!
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