2009-07-07

再びMJ


今日もマイケル。
マイケルには三人の子どもがいるが、妻はいない。最初の二人の母親とは結婚していたが後に離婚し、三人目は代理母に生ませた。女を愛し、娶り、子を持ったという一般的な家庭像とは趣が異なる。一般人から遠くかけ離れた世界に生きていたのだから当然ではあろうが、それにしても単に子が欲しかったようにも感じられる。子どもというより遺伝子の継承者が欲しかったのかもしれない。本当のところは分からないが、そう感じる。

ニーチェは、男の愛というものについて、「人が心底から愛するのは、彼の子供と仕事だけである」と語ったが、マイケルはそれを実践したかのように見受けられる。マイケルが彼の子供達に向けた愛とは如何なるものであったか。

凡庸もしくはそれ以下なる私個人の愛情は、生前マイケルが彼の子供達に注いでいたものとは大きく異なるだろうと想像した。私の場合、子供達には、健康に生きて、私より後に死んでくれればそれでよいと思っている。要は彼らの人生を彼らなりに生きてくれればそれでいい。様々な制約はあるにせよ成人まではできうる限り子供らの成長を手助けしたいといった、非常に曖昧なものだ。そんなもので愛情かと問われれば、それも愛情だというしかない。所詮、親の愛情は、それをそうなのだと子が認識しないかぎり影も形もない。レスのないラブレターを送り続けるようなものだ。それを行い続けることのできるのが子への愛情と呼べるのかもしれないと考えている。

一方マイケルの場合は、桁外れな金額を遺産として残していった。(遺産の処理のされ方については脇に置いておき、)普通に考えても考えなくても、三人の子供が一生を送るに余りある金額だ。子供達の望みが金銭で適うものであれば大方のものは適えられるであろう。立派な愛情のかたちだ。再びニーチェの言葉を借りると、「偉大な人間において最も偉大なものは母性的なものだ ーー 父 ーー それは常に一つの偶然に過ぎない」とも言っている。その通りだ。父は偶然にしか過ぎないのだ。「できたみたいよ」と告げられるまで父親には何一つ分からないし、告げられたところで何一つ肉体的な変化があるわけではない。母親が文字通り心血を注ぐ愛情とは完全に別物の、父親の愛情というものがあるはずだ。充分な経済力は父親の愛情のひとつの形だ。(勿論、経済力を愛情のかたちとする女性も大勢いる) 

マイケルが残した莫大な財産は愛情のかたちだったのか?

では、マイケルが財産の他に子供達に与えたかったものがあるとしたら、それは何だろう。カネ目当てに群がる連中が子供達を翻弄することは察していただろう。その中で、子供達が自分達の人生を生きたいように生きるための何かを与えたいとは考えなかっただろうか。奇行ばかりが取りざたされるマイケルだったが、そういった当たり前の感情は持たなかったのだろうか。とはいえ、市井の人々の人生を知ることができなかったマイケルに、私の言葉を期待しても無理があるだろう。しかし、それなら尚更、彼がカネの他に示したかった親としての愛情は如何なるものだったのか。

「愛情から悲しみが生じ、愛情から恐れが生じる。愛情から解放されている人に悲しみは存在しない。どうして恐れることがあろうか」
これは、ブッダが残したとされる言葉だ。ブッダは、子をもうけたその時に妻と子を捨てホームレスの生活を始めた。そこで、この考えに辿り着く。周囲との絆を断ち切って孤独となることに恐れを抱く必要はない。それが自由という状態であることに気がついた。

何かの番組で出演者の一人が言った。「マイケルさんは五十歳だったんですね。年齢などからかけ離れている人でした」 
年齢に限らずあらゆる面で常人とはかけ離れていたマイケルには、もしかしたら一般的な愛情という概念が存在しなかったのかもしれない。それどころか、その面でも超越していたに違いない。マイケルはニーチェに加えブッダの言葉をも実践していたのではないだろうか。

貧しい人々や病に苦しむ人々、肌の色に悩まされる人々のことを数多く歌い続けたマイケルは、自ら周囲の一切を断ち切って、望むように生きようとした。「愛情」などという俗っぽい言葉は捨てて、苦しむのを止めて、自分が生きたいように生きようじゃないかとメッセージを送り続けた。そうやって世界中を激励し続けた彼は、自らの生き方でもそれを実践した。児童に対する性的虐待問題は正直何だったか分からない。しかし、奇行のひとつとされる様々な施設を借り切っての独りアソビやショッピングは、「誰も相手にしたくはないし、されたくもない」という意志から生じた行為ではなかっただろうか。ネバーランドもその延長に違いない。結局のところ、マイケルは周囲に手を差し延べようとはしても差し延べられることは拒んだ。悲しみや恐れや憎しみというものを遠ざけるために、孤高の存在を目指したのだ。

「カネは心配しなくてよい。周囲のことなど気にかけなくてもよいから、自分の生きたいように生きなさい。孤独になっても私の遺伝子を授けたのだから耐えられるはず。あとは、わたしの生き様を学びなさい。世界中の人が教えてくれるはずだ」 きっと、マイケルはこう言いたかったのだ。
お金の部分は除くとして、それ以外については凡庸な私にも頷ける部分が多い。生きたいように生きるためには孤独を恐れてはならない。愛情は結果として届くもので、その証を求めてはならない。生きる姿勢を示すことが、男の仕事なのだ。マイケルは意外に普通っぽいお父さんだったということが分かった気がする。

※前回の「Farewell MJ」に、「びっくりするほど滅茶苦茶な英語ですね」とのコメントが寄せられた。匿名というところが情けないが今時の人間にはこういう類が多い。英語の質なんかどうだってかまわないから、マイケルの死に少しでも感じたことがあるのなら自分の意見を言ってほしいな。それがないなら、マスでもかいてれば。

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