保護主義指向の強い民主党から選出されたオバマの日本観、日本人観を考えた。全くの私的な説で、根拠はない。
ジョンレノンが撃たれた前年、オバマは故郷ハワイを後にロサンゼルスへ向かった。ケニア人の父と白人の母の間に生まれハワイで育ったオバマは、大学生活を送るため初めてアメリカ本土へ足を踏み入れた。実は、オバマはこの時初めて「アメリカ」を目にしたのだ。
その翌年、私はサンフランシスコに立った。私にとっても初めての「アメリカ」体験であった。そしてこの三年間に持ったアメリカに対する理解が、現在でもアメリカを捉える時の基礎になっている。オバマはアメリカ人であるし、私は短い間学生の身分でアメリカを通過しただけの存在だ。同時期にカリフォルニアということを除けば、立場も過ごした街も目指した学問も異なるが、同じ時代の空気を吸っていた。
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当時日本は、インフレやオイル危機を経てもなお驚異的な経済成長を続け、未だ安かった円のおかげで盛んに輸出で黒字を重ねていた。アメリカ人もオイルショックを経験し経済的な日本の小型車(シビック)を最も愛するようになった。家電製品の性能とかっこよさは無骨なアメリカ製品を凌駕し、ソニーは羨望の的となった。しかし、アメリカの製造業従事者、特に一般の労働者は日本製品の攻勢により経営を圧迫された影響をまともに受け、レイオフが頻発、日本に対する嫌悪感を益々強めていった。
一般の市民でさえ、イエロー・モンキーやエコノミックアニマルと叫んで、抑えきれなくなった反日感情を隠そうとはしなくなっていた。真珠湾攻撃40年を記念して「エノラゲイ」を扱ったテレビ映画が放映された。物語の終盤、エノラゲイがリトルボーイを広島上空へ投下したシーンでは実際の映像が使用され、それを目にしたレジデンスクラブ(滞在型の安宿)の住人は、立ち上がって「イエーィッ!!リメンバー パール ハーバー」と叫んだ。私は恐れをなして自室へ逃げ込まなければならなかった。
日本人が多数訪れる観光地ハワイ出身のオバマは、アメリカ本土における日本人に対する感情を、どのように受け止めただろうか。
少しばかり当時のサンフランシスコの状況に触れると、街には区別された人々が居た。年中訪れる観光客とそれを相手にする商店経営者、加えて金融業界に属するエリート階級、そしてそこから落ち溢れた人々と明らかにベトナム帰還兵とわかる人々。観光と金融の街サンフランシスコには、凌ぎやすい気候はあっても落ち溢れや帰還兵が手に出来る職はない。
ウイル・スミスの「幸せのちから」は、この頃のサンフランシスコを舞台に、主人公のクリス・ガートナーが正に81年から翌82年にかけて証券会社でのし上がっていく奇跡の物語だ。輝くサクセスストーリーとは対照的に、ベトナムからの完全撤退から既に7年もの月日が経過しているのに、その間社会復帰ができずにいる元兵士が多数存在した事実に驚いた。同時に、アメリカ社会に対する知識もろくに持たない私のような者にさえ、彼らに明日は来ないであろうということが漠然と感じられた。ホームレスという言葉は、この頃既にアメリカでは一般的に使われていた。
ベトナム帰還兵や失業者が、時に通りの一角に列をなしている。サルベーションアーミー(救世軍 -- キリスト教団体による救援団体)が提供する「ただ飯」にありつこうというのである。私も偶然並んでみたが、手にした食事は、普段文句をつけてばかりの宿泊所の食事が豪華極まりない物に思えるほど悲惨だった。暖かい食事にありつくということが、職のない彼らにとっては唯一の救いだったに違いない。そんな横を、成功を手にした第二第三のウイルスミス(勿論ガートナーのこと)がフェラーリを駆っていく。アメリカは、当時からそんな国だった。
自動車や家電製品で大儲けした日本人は、毎年大量にサンフランシスコを訪れていた。(勿論ロサンゼルスにも訪れていた)そんな観光客に対し、サンフランシスコの住人は、根っこの感情を押し殺して笑顔で接していた。どっさりお金を落としていく、よい客なのだから当然だ。しかし、直接利益を享受できる商店主は我慢できても、サルべーションアーミーに列を作る人々やインテリの中には、複雑な感情を持つ人々も沢山いた。「我々を苦況に追い込んだ彼らが、我々から巻き上げた金を持ってやって来る」 経済状況が思わしくない時に、好況に浮かれた人間が憎らしく見えるのは一般的なことだ。
残念な事に、サンフランシスコに移住している日本人や日系人達は、母国の民に与えられた悪いイメージを払拭しようという努力に熱を入れることをしなかった。ジャパンタウンで開催されるサクラ祭りに訪れているのは日本人観光客ばかりだし、来日したYMOのコンサート会場もジャパンタウンのホールで、観客は9割が日本人だった。チャイナタウンのように露骨な閉鎖性を示さない代わりに、日本人はほとんど自ら存在を示そうとしない。善く言えばうまく融け込んでいるし、逆を言えば「美味しいところだけ取っている」。後者に取る者も多かったはずだ。何せ目の前を、日本人客を満載した大型観光バスが連なるのを連日目にしているのだから。
東芝のラジカセが燃やされ、シビックの窓が割られるニュースは、もう当たり前のことになっていた。
留学中一度だけ赴いたLAのディズニーランドにも驚くほどの日本人観光客がいた。留学中にLAを訪れたのは一度だけで、ダウンタウンとディズニーランド、ダウンタウンとメルローズ通りを往復しただけだから、市民の暮らしぶりは分からなかった。オバマはその頃私立の単科大学生だ。
LAは、サンフランシスコより余程大きな街であるし、UCLAやUSCなどといった有名ブランド大学も多い。勿論、ビバリーヒルズやハリウッドを有し唯でさえ煌めく街だ。その分クラス(階級)も存在するし社会の影も濃い。イーストLA(ロサンゼルス東部)は、低所得の労働者階級の居住地区で犯罪多発地帯でもある。ブルース・スプリングスティーンの「Born in the USA」をもじって、「Born in East LA」という歌まで生まれたほどだ。そんな光と影を、当時学生だったオバマも目にしていたはずだ。当然、派手にお金を遣いまくる日本人観光客のことも。
80年11月の大統領選挙で、カウボーイハットで空に向かって銃を撃ち放った、強いアメリカを象徴する男、ロナルド・レーガンが、二期目を目指す平和主義者のピーナツ農場主ジミー・カーターを破り当選する。現在と逆の状況だ。アメリカ中のインテリゲンチャーは項垂れ、「もうお終いだ」と口を揃えて嘆いた。ブッシュジュニアの二期目と同様だ。レーガン政権では、スターウォーズ計画だとかレーガノミクスだとかの打ち上げ花火が功を奏し、経済は上向いた。一種のバブルだ。第二第三のウイルスミスはこれでフェラーリを手にした。
この時期に、現在のITを支える多くの企業が、産声を上げたり最初の製品を市場に出したりしている。両スティーブが立ち上げたアップルコンピューター(当時)もそのひとつ。ここいらを描いたのが映画「フォレストガンプ」で、ニクソン以降、エンディングまでといったところだ。
勿論、ビルゲイツもこのあたりから台頭してくる。彼らのような若いベンチャー企業家達は、当時の学生から常に注目されていた。我々、オバマ世代にとって、この時代に頭角を現し、のちのアメリカ経済の基盤をつくる若者達は、アメリカ合衆国建国時の様々な方面で足跡を残したパイオニア達を彷彿させる。現に、彼らの哲学や理論が昨日までのアメリカ経済を支えた。
皮肉な事に、80年代から90年代の初めにかけて、IT関連で想起される日本のイメージは、「スパイ」である。産業スパイの事だ。日本の大手数社がシリコンバレーから機密情報を盗み出そうとして摘発された。また、冷戦終結前には、東芝が潜水艦のスクリュー製造技術(軍事機密)を当時のソ連に売りつけアメリカから叩かれている。たしかにこんな日本人のイメージは、常識もモラルも持ち合わせていないモンキーやアニマルとして映ったことだろう。
必死に努力するアメリカ人から旨味だけを吸い取っていく、自分勝手な日本人。オバマの「日本人の原イメージ」が、そんなものであっても可笑しくはない。
留学生であった私にしても、一番出会したくなかったのが日本人観光客だった。
「あなた、日本人でしょ。学生? だったら、△△まで連れて行ってよ。どうせ、暇でしょう」
というような唯我独尊厚顔無恥の筆頭が日本人観光客だったのだ。
アメリカがオバマを選択したというメッセージを、我々日本人個々人がそれぞれの立ち位置で考えなければならないと私は思う。「新しい時代の責任」とオバマは言った。
幾多の危機に瀕する現在を、「新しい時代」の幕開けとするならば、我々日本人の「新しい時代の責任」は、どういうものだろう。世界中の国と人々に対し、日本人として、本当は何を感じ考えているのかを伝える必要があるはずだ。我々は、未来永劫アメリカの尻尾を掴んで生き続けるつもりはないし、自立した国に住むもしくは其処から出でた国民であること、そして自らの財産と尊厳、および自由を確保してゆくつもりである事を伝えるべきである。
どうやって? それをみんなで考えよう。
なお、長文に最後までお付き合いいただきました方には感謝申し上げます。
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