2007-12-30

今年に限った事ではないのだが、つい年末に思ってみたりすること

年末になると、あれやこれやこの一年の記憶を辿ってみたりする。少しばかり年齢が嵩んだせいか、何時の出来事だったかが不確かな記憶も多くなる。月日だけならまだしも、今年のことだったか去年だったか・・・。まだその端緒ににしか至らぬはずなのに、老いるとは嫌なものだと思ったりする。

記憶のメカニズムは解明されているというのに、忘却のそれは未だであると聞く。何を基準に、どういう仕組みで忘れるべき記憶を、脳が選択しているのかが分からないのだという。つまりはさっぱり分かっていない。記憶の仕組みを脳のそれに習ったコンピュータは、だから「消去」を自らが選択しなければならない。そのうち所有者の忘却パターン(そんなものがあればの話しだが)に合わせて、不要なファイルをパソコンが勝手に選別してドンドン消し去ってくれるようになるかもしれない。「ちょっと、待ってよ!それは消さなくていいのよ」という嘆きが職場に満ちる日が来るかもしれない。

話しを戻せば、どうしても思い出すことが出来ない事柄があるように、全く忘れる事の出来ない記憶がある。初恋への告白を前にした鼓動の大きさや、初めて立った異国で嗅いだ空気の臭い、家族が増えたときの胸のたかなりと減ったときの痛み。大凡誰でもが個々の人生の重要事件として認める出来事は、強い記憶として保持している。
しかし、たったひとつ、おそらくは地球上の人々ほぼ全員にとって最も重要なはずのある日のことを、ほぼ全員が覚えていない。それは自分が生まれた日のことだ。
説に拠れば、幼児期の一定期間は、母親の胎内での記憶から出産時のことまでを、誰でもがきちんと保持しているという。しかし、それらは他の手によって記録に残されることでもない限り、当の本人のなかからは消え去ってしまうのが普通だ。
反対に、この瞬間を一生涯忘れずに持ち続けている人々もまた存在する。当然のこと、母親だ。九ヶ月に及ぶ妊娠期間は、男には理解し得ない強固さで母親と子の一体感を育むに違いない。男親とて、直接肉体的な経験はできないにしろ、我が子の誕生の瞬間は深く刻まれている。往々にして男親にとって子の誕生の瞬間には時間差を伴う。ましてや一度助産婦さんの手を経ての接触であったりするから尚更だ。しかし、この僅かな時間差でさえ、強く深く刻まれる瞬間であったりする。「いいから、早くだかせろ!」みたいな。

自分がこの世に生まれ出るという最重要事件は、本人が保持することができず、別の者の記憶の中に生きている。皮肉なことだ。どんなにお誕生日会を重ねたところで、誰も「ところで、生まれた時ってどんな感じだった?」とか「生まれて直ぐ何がしたかった?」なんて訊かれることはないし、そんなこと考えてみることもない。そころが、「あなたの時は、陣痛が来なくって」とか「出張先から5分おきに電話したよ」とか、親は全くよく覚えている。

更に皮肉なことに、大概唯一の記憶保持者である親は、大事な記憶のバックアップもとることなくその大事な記憶を一緒に抱えたまま先に逝く。親のおかげでこの世の中に存在していた自分自身の最も大事な記憶は、親の死とともに失われてしまう。

人生の折り返し地点は過ぎた。記憶容量の多少に関わらず、記憶すべき事象との遭遇は減ってくる。寂しいが現実だ。そのせいか、何時のことからか記憶の優先順位が変化した。記憶に留めようとする事柄のなかから、自身に纏わることが減り、代わって家族の出来事についてが圧倒的な勢いで増えてきた。父親としてしくじることが許されないはずのシャッターチャンスを忘れて家族の表情を凝視していたりする。まるで、その瞬間を自分のものだけに閉じこめておこうとでもするように、衰えかかった目力を最大限に活用して見つめている。

年末の白昼夢から覚めて、今年一年をかけて作ってきた記憶の整理に取りかかる。そしてふと気がつく。優先順位が高いはずの記憶を、一瞬でしかない貴重な想い出を、自らが作り出そうと奔走したことがどれだけ僅かであったかを。来年に持ち越す課題が去年のものと同じであることを。来年はもう今年と同じ記憶が作れるはずもないことを。

2007-10-20

とまどうペンギン

ホームの端に設置された喫煙コーナーの周囲には、早朝の新幹線のドアが開くのを待つ出張のサラリーマン達が越冬の皇帝ペンギンさながらに群れている。皇帝ペンギンほど愛らしくも微笑ましくも見えないのは、彼らの表情に生死を賭けた必死さも愛する者との再会を切望する哀愁の交じった幸福感も浮かんでいないことだ。命を賭して卵を守る父親の俯き加減の顔には、混迷した政局の打開に苦悩するこの国の政治的責任者よりはるかに切実な生命に対する責任の重さを伺うことができるし、わずかに肩が丸められていても決して揺るぐことのない背筋には挫折を繰り返しながらも諦めることを知らない孤独な地球環境学者の信念を彷彿させるものがある。

ホーム端の階段を登り終えた外国人観光客数名が、その場に立ち止まり笑みを浮かべた。その内の一人が昨日秋葉原で購入したばかりのパナソニック製のデジカメを引っ張り出し、シャッターボタンの位置を確認しながら狙いをつける。ツァイスのレンズが向けられた先には、毛並み悪い鼠色した動物の群が、集団の中央から狼煙のような煙をもうもうと立ち上らせている。今日一日をなんとかやり過ごすことのみを願う脆弱な精神と、一時ではあるにせよこの世で最も恐ろしげな顔を持つ配偶者から遠ざかることこそが現実的な唯一の幸福であるとの矮小な哲学を信望する、決して皇帝に登り詰めることのできない種族の生き物達。

外国人観光客は一度シャッターを切ったのち、カメラの角度を変えながら眼前の真実を一層リアルな記録に留めようと試行を続ける。彼はやがて我に返ってファインダーから目を遠ざけ、その試みが最新テクノロジーの粋を集めたこの機器に対し、また人生の貴重な時間と金を費やし訪れたこの国に対しての冒涜であるとでも悟ったのであろうか、一瞬口元を歪めて過ぎ去って行った。

私は、左手に書類の詰まった鞄とビニル袋の中で斜めに傾いだ鳥飯弁当をぶら下げ、二本目のタバコに火を灯しながらその一部始終を眺めてていた。

2007-06-11

三つの魂

この週末はスポーツの話題が目に付いた。新人、超ベテラン、若くして現役を退いたアスリートたち。

F1のカナダGPで、今年マクラーレンからエントリーした英国人の黒人ドライバー、ルイス・ハミルトンが、PPスタートでそのままフィニッシュした。黒人ドライバーが優勝したのも初めてならば、ルーキーが6戦目での優勝というのも1996年ジャック・ビルヌーブが4戦目で優勝して以来の快挙だ。

モータースポーツには金がかかる。昨今、アジア・中東の富豪が金の力でさほど実力もないドライバーにシートをあてがった例は幾つかあるが、マクラーレンのような欧州の名門F1チームが若い頃から目をつけ養成し、実力で這いあがってきたハミルトンのような例はこれまでない。有色人種という意味でだ。勿論、目をつけられるまでは家族がその費用を捻出していたわけだから、ハミルトン家は裕福な家庭に違いない。

しかし、金があれば這いあがれるわけではないのも欧州を中心に繁栄するモータースポーツの世界。まして、英国のように「クラス」が存在する国では、たとえ金があろうともクラスに属さない人間が易々と良い車を手に入れられるわけではない。実力の拮抗する白人ドライバーがいれば良い道具や環境がそちらへ向ってしまうことも想像に難くない。我々がこの国で耳にしたときに思い浮かべることのできるレベルをはるかに超えた、差別というものが以前存在する。

いかほどのものであったろう。家族の苦労、本人の苦労。そしてまた、彼をプロモーとしようと決断した人間が周囲を説得する際の苦労。結果が出なかったときの本人を含めた関係者の苦労。このままハミルトンが年間チャンピオンになれば、いやたとえ二番手、三番手で終わったとしても、シーズン中盤からは彼が話題の中心となり、これまでの軌跡が華々しくそして美しく語られることだろう。

F1の世界での禁句は、「金の話」と「昨日のこと」けっして泥や汗にまみれ、あいた傷口が膿んで醜い傷跡になったハミルトンの陰が披露されることはない。チャンピオンやそれに次ぐヒーローは、光り輝くスターとして奉り上げなければならないのだ。ハミルトンの夢、そして彼を新たなスターとして伝説化しようとするF1界の夢はまだ始まったばかりだ。

今日早朝のゲームを前に、深夜桑田を取り上げた番組が放映されていた。そのなかで桑田は涙を見せた。昇格が決まった桑田に背番号18が用意されたことを耳にした瞬間だ。桑田は、39歳。りっぱなオジサンである。そして20年間巨人に在籍した一流の投手である。しかしこの数年間、正しく言えば右肘を負傷して以来、桑田がそれ以前のようにまぶしい輝きを見せることはなかった。

桑田は現在の松坂と同様に高校生ルーキーとして華々しい活躍を見せ、西武に入団した清原との両輪で当時のプロ野球を大いに沸かせた。真に実力を伴った期待の星だった。そして以降数年に渡り彼の活躍はまばゆい光りを放ちつづけた。1994年、槙原、斎藤、桑田の当時の三本柱を投入した中日との優勝を決める最終戦は日本中のファンの目をくぎ付けにし、今も語り継がれている。桑田は最も強く最も頼もしい名実ともに日本球界のエースだった。

人気実力ともピークにある翌95年、彼はピッチャーフライを補球するためファールグラウンドでダイビングキャッチを試みた際、右肘に致命的な負傷を負った。アメリカで手術を受け、長いリハビリの末復帰した。しかし、以前のような輝きを取り戻すことはなかった。

どれほどの精神力だったろう。選手生命を断たれても不思議でないほどの大怪我に直面し、保証のない手術や果てしのないリハビリを支えた本人の忍耐と夫人の支援。藤田・長島・原と続いた常勝を義務付けられた指揮官達の支援。そこからくるプレッシャー。桑田が背負っていたのは巨人のエースナンバー18だった。たとえエースナンバーを着けていようが、輝きを失ったプレーヤーからは当然ファンの眼差しも遠ざかってゆく。本人が折れてしまえばそこで、ジ・エンドだった。

しかし、「20歳のときに思った」と本人の口から発せられたその夢は、20年の長く苦労の多いプロ野球選手人生を通して絶えることなく抱きつづけられた。皮肉にも今年メジャー昇格を決める3月27日のオープン戦で、桑田は再び大きな試練に遭遇する。右肘を痛めたときと同様にファールグラウンドへ走りこんだとき、こともあろうか審判と接触。右足首を負傷した。「これで終わったかと思った」しかし、桑田はそれでも諦めることなく、フィールドに戻ってきた。そして今日、晴れてメジャーのプレーヤーとしてマウンドに立った。桑田の夢は、そう簡単に諦められそうにない。

一年前から、「氏」を添えられて報道されるようになった中田がフィールドを駆けまわっていた。ともにプレーするのは、ジダン、フィーゴといった世界の一流たち。フィーゴが主催したチャリティーマッチに招待され45分間プレーした。

トレードマークでもあった金や銀に染められた短髪ではなく、ペルージャ移籍当時を思いださせる長めの髪の毛をしていた。前半控えに回った中田の表情からは現役当時の鋭さが消え、どこか戸惑いを感じさせるようでもあった。旅人として世界中をまわる中田からは以前のような闘争心が失われてしまったのであろうか。当然だろう。彼はいま何処へも向かってはいない。

中学生だった中田は、当時既にメディアから注目され、そのニキビ面の童顔は臆することもなく海外でのプレーを口にしていた。そこから約5年の間に各クラスの代表を経てJリーグ入りし、ほぼ同時にA代表入りも果たした。そして、二十数年振りのオリンピックに日本を導き、イタリアへと渡った。ペルージャの活躍で名門ローマへ迎えられ、日本人では初めてのスクデット獲得メンバーにもなった。プレーヤーとしての絶頂期を迎えた。

どこまで登り詰めるのかとの期待を受けて、出場機会の少ないローマを去りパルマへ。しかし、その後の中田は起用法の問題で機能せず、最後はプレミアリーグへ移籍したが再び渡伊時の輝きを見せることはなかった。そして、2006年WCでのプレーを最後に現役を引退した。プロサッカープレーヤーとして彼が抱いた夢がどのようなものであったかは知りえないが、決して満たされた晩年ではなかった。

その後の彼は、一部企業の経済的な価値を理由に露出される以外、メディアへ登場することもなくなった。中田は約10年の現役時代に100億円におよぶ収入を得たと報道された。30歳の青年は現在経済力を頼りに、次の夢を模索する旅を続けている。

年上の現役や引退した花形プレーヤー達と再会し、中田は何を思ったであろうか。引退した後もサッカーを通じて世界に存在するジダンを目にし、またサッカープレーヤーとしての恩恵を社会に還元するため世界中のスタープレーヤーを呼び寄せたフィーゴに触れ、中田は新たな夢の一端が見えただろうか。一個人を超えた存在であることを認識する彼らとの友好は彼にどんな意識を植えつけたのだろうか。

旅の意味は目的地を探すことではない。目的地を持たなければ、それは彷徨。一度定めた目的地を目指し、様々な困難を超え、喜びを感じることが旅だ。また、定めたつもりの目的が異なると知れば、あらたな目的地に向って歩みを進める。そして若さはそこに躊躇を生まない。歩きつづける、それが旅を意味あるものにする。そして人は死ぬまで旅を続ける。夢を見つづける。

2007-06-06

エーべーか

「エーベーか(欧米か)」二歳半になる三男坊の近ごろお気に入りのフレーズだ。叱りつけると睨み付けるようにこの言葉を返してくる。「それは、オマエだろうが」とこちらも返してやる。互いに意味は通じていないが何となく納得する。

朝の新幹線で仙台へ向かった。車中でチェックしたメールに友人の米国人からのものがまぎれていた。1ヵ月前から仕事のため仙台に滞在しているはず。久しぶりに顔を合わせてみるのもよいだろう。そんなことを思いながら読み進めば、「フロリダから」とある。どうやら仕事を辞めて帰国したやうだ。「自身の選択ではなかったが」と続けられていた。

「仕事はお金のため。日本が好きなんだ」と口にしていた彼。その日本を諦めるどんな理由があったというのだろう。

「仙台には温泉はあるか?」と大の温泉好きに問われ、仙台の三大温泉地を地図にして手渡した。「これは問題にはならないか?」と背中いっぱいに彫り込まれた世界地図を指差す。ならばと「怪しい者ではない。日本文化をアピールするためにも、是非温泉に浸からせてやってほしい」と宿主に手紙を認めて持たせた。1ヵ月ほど前のことだ。

五月に入ってすぐ、仙台に移動した彼にメールを送った。「牛タンは美味いか?温泉は楽しんだか?」今日のメールはそれに対する返信だった。以前は間髪をおかず返信してくれていた。音沙汰のないのは無事の証拠というが、この間如何程のことが降り掛かったというのだろうか。

「負けるが勝ち」という言葉を教えたことがある。片方の眉をぴょんと持ち上げ、大変に興味深いと頷いていた。「しかし、私はアメリカ人。私の方法でいってもいいか?」と、絡んできた酔っ払いの腕をへし折っていた。

「AKIYUという処で温泉を楽しんだ」と事の経緯には一切触れないところは、さすがに欧米か。続けてあった「プライベートな風呂だったので、あの手紙を使う必要はなかった」という一文に、露天で一人湯槽に浸かり物思いに耽る彼の姿を思い浮べ哀愁を感じるのは「ニッポン」だからか。

長町という本来彼が務めているはずの駅に降り立つと、線路の高架脇の広大な敷地のなかに、ビッグハットと呼ばれるシルクドソレイユの巨大なテントが少し萎んだようにたたずんでいた。

2007-06-03

ブルース、俺も男だ

「パパ、鍵がかかっているよ」と、妻が二階で声を荒立てる。この家の一部屋だけ鍵のついた私の仕事部屋兼物置が、内側からロックされている。昼食を終え二階のもう一部屋で昼寝の体勢に入りかけた子供たちを睨み付けると、上の子から順番に「僕じゃないよ」と三度繰り返される(三番目はそれらしき音声という意味だが)。夫婦が顔を見合わせ互いが声に出さずに「誰に似たんだか」と呟く。

大家さんに連絡を入れるも、「あの部屋に鍵?記憶にないな」という返答。「探してみます」という言葉に期待を託してはみたが、携えてきた鍵の数々はどれも問題を解決してはくれなかった。「蝶番を外してみたら」と妻。ものは試しでさっそく取りかかるも、蝶番のピンは外せてもドアの厚みがそれ以上の進展を阻む。出張のサービスに頼むしかないかと半ば諦めかけたとき、大家さんは背の低い脚立を壁に立てかけていた。開け放たれた二階の窓までは、せいぜい4メートル程度の高さしかない。しかし脚立の端まで登ったとしても、ようやく腕を延ばして5センチほどの窓の縁にぶら下がるのがやっと。すっかり髪の毛を失ってしまったとはいえ、ブルース・ウィリスなら躊躇無く脚立を駆け登っていくだろう。未だ隆々とした上腕二頭筋が彼の身体を難なく持ちあげ、事も無げに窓からの進入を果たすことができるはずだ。

「私が行こうか?」と横で妻。「馬鹿なことを言うんじゃない」と脚立にしがみつき段を登り始めた。「押さえておいてくれ」とやや上ずり気味の声で後方支援を要請する。三段目で脚立が僅かに傾く。「お、押さえてくれって!」と声がひっくり返る。なんとか上まで辿り着いたが、ほぼ垂直に近い脚立の最上段に立ち上がることはできなかった。「やっぱり、コ、ワ、イ」

「台か何かで嵩上げすれば何とかなるかも」と大家さんの表情がパッと明らむ。言い終えると間もなく、風呂場の桟のようなものを携えていそいそとやってきた。「机か椅子は・・」との言葉に黙って頷き従っていた。食卓の椅子を二脚向かい合わせに並べ、桟を渡して土台をつくる。脚立の最上段に立ち上がることができるように、壁から充分な距離を取り傾きを大きくした。覚悟を決めて脚立を掴み、一段目に足をかけるとぐらりと傾いた。振り向いて声を出そうとした寸前、「大丈夫、押さえているから」と間髪を入れず妻が発する。下を見るなと自分に言い聞かせ、目指す二階の窓目掛けて兎に角腕を延ばし段を登る。

最上段まで辿り着いたが僅かに高さが足りず、数十センチは身体を持ちあげなければ窓から中に入り込むことはできない。しかし、躊躇したところで後戻りはできない。四つの目が俺の一挙手一投足を見つめているのだ。ここが男の尊厳を維持できるかどうか、天下分け目の天王山だ。足裏で梯子の段の感触を確かめながら、無用な力みを抑えるために一つ大きく息を吸い込んだ。そして次の瞬間、大臀筋、内転筋、大腿二頭筋、腹筋、脊柱起立筋、それに下腿三頭筋に神経を集中させ、不安定な脚立の段を蹴った。僅かに余分なパワーが脚立を傾け、俺の身体は斜めに数十センチ持ち上がった。目指す窓枠は目論んだとおりの位置には近づかず、左方に過ぎ去ろうとしている。咄嗟に延ばした左手がそれ以上遠ざかるのをなんとか食い止めたが、俺は片腕一本で二階の窓から宙づりになった。「キャーッ!」妻の甲高い叫び声が耳に届く。「落ち着くんだ」五十も近いとはいえ、ヤツと違って髪の毛だってフサフサだ。こんなところでへこたれているわけにはいかない。俺はあらん限りの力を込めて、左腕の筋肉を収縮させる。少しづつ身体が持ち上がり、もう少しで右手を枠にかけることができそうだ。そう思ったとき、ズルッと音がしてトタンで覆われた窓枠が傾いだ。俺の身体はバランスを失い、くの字に曲げられていた左腕が真っ直ぐに延びきった。「キャーッ!」再び妻の声が耳に届く。上腕二頭筋に乳酸が蓄積されるのが感じられる。「来るなら来い!」と自虐的な笑みを浮かべ、再び腕の筋肉の収縮を試みる。その間も身体は右に左に揺れ続け、これから待ち構える困難な状況への想像を刺激した。楽しかった日々の記憶が脳裏を過ぎ去っていく。しくじるわけにはいかないが、仮にそうなった場合は当面の生活には困らない充分な保険金も支払われるはずだ。しかし、そんなことより最後の力を振り絞ることに全神経を集中させよう。それが俺がこの世に生を受けた証のはずだ。立つんだ!身体の揺れを空いた右腕でおさえながら、左腕だけで俺は再び上昇し始めた。窓枠が鼻先まで近づき、網戸を引き開けた。もう直だ。もうじき我が家に安寧が戻ってくる。男の責務を果たすことができる。子供たちの笑顔、妻の安堵の表情、大家さんの尊敬の眼差しが、平穏な生活の訪れを告げることになる。両手でしっかりと窓枠を握りしめ、ぐいと身体を持ちあげた。上半身が窓の内側に折れ曲がり、片足を滑り込ませて俺は室内に着地した。施錠されていたドアを開けると、不安顔だった三人の顔に笑みが戻り、「パパァー」と抱きついてきた。階下では目を潤ませた妻が尊敬の眼差しで俺を見上げている。

大家さんへ礼を告げるため玄関へ戻ると、脚立をたたみながら彼はこう言った。「やってみると意外に簡単でしたな」「まあ、私にとってはこの程度のこと」屋根々々の間から僅かに見上げる都会の空が、今日はやけに清々しい青だった。

2007-06-01

寺山修司の「幸福論」に一瞬だけ思う藤原紀香の結婚

藤原紀香は、オリジナルの体型に戻されたバービー人形である。戦後アメリカが日本の少女たちのために持ち込んだオリジナルな体型のバービー人形は、不評だった。何故なら、人形の体つきが当時彼女たちの周囲を取り囲む日本人の女性のそれとはあまりにかけ離れたものだったからだ。バービー人形は、胸とお尻を縮小化することによって日本の少女たちに受け入れられた、という話が伝わっている。今、藤原紀香によってバービー人形はオリジナルの体型を取り戻すことができた。

先日テレビでライブ中継された披露宴での彼女は、これまで見慣れた藤原紀香となんら変わらぬ藤原紀香のように見えた。時折年齢なりの表情を見せてはいたが、あどけない顔の作りも、それとはアンバランスな日本人離れした体躯も、これまで何年にも渡りテレビに映し出されてきたもの以外ではなかった。一般人にとって結婚披露宴は、一世一代の晴れの舞台(のひとつ)である。おそらく私人藤原紀香にとってもそうであったに違いない。我々がテレビのスクリーンを通して眺めていた公人藤原紀香は、いつもと変わらぬ彼女であった。雛壇に添えられたオリジナルの体型のバービー人形であった。ただ、視聴者のほうがその姿にのぼりつめた幸福を感じようと必死になった。

彼女の婚約が報道された時、保育園の保母さんたちほぼ全員が、「紀香にはお姫様でいて欲しかった」と口にし、婚約相手の陣内は役不足であるとした。紀香は本来さらなる高みを望むに値すると。オリジナルの体型を手にしたバービー人形藤原紀香は、「お姫様」であったのだ。かつて舶来の人形としてしか存在しえなかった「お姫様」が、自分たちと同じ国土の何処からか、訛りのある言葉を話す一般人の娘として生まれ出てくる時代になったのだ。「お姫様」にしか与えられなかった最高の幸福が、ひょっとしたら自分にもやってくるかもしれない。だから、「紀香にはお姫様で居て欲しかった」、居てもらわなければならなかった。

寺山修司の「幸福論」という本を知人が差し出して、「読め」という。実に興味深い内容だ。とはいえ、寺山修司を理解するには彼に対する「慣れ」が必要だ。四苦八苦しながら、楽しむというか脳に汗をかく。小林秀雄の場合とは別の汗をかく。

「冗談(4)自立神経失調症に患った石堂淑朗*が医者に診察を受けに行ったら、医者が言ったことば。
『当分のあいだ、オナニーを止めて下さい。オナニーは、想像力をかきたてて神経障害に悪い影響をおよぼすでしょうから』
そこで石堂淑朗が、『夫婦生活は構わないのですか?』と訊くと『奥さんが美人ならば構いません。しかし、不美人ならばお止しになった方がよろしいでしょう』
『何故ですか?』と石堂がまた訊くと『奥さんが不美人ならば、映画女優か何かを想像しながらすることになる。その想像力が自立神経にひびくのです』
──自立神経失調症とは、いわば幸福になるための道具の故障というところか」<引用:幸福論>
*脚本家、評論家。大島渚、吉田喜重、篠田正浩、田村孟らと共に“松竹ヌーヴェルヴァーグ”と言われた60年代初頭の映画革新運動の中心的役割を果たした。<出典:wikipedia>

「想像力も、交換可能の魂のキャッチボールになり得たときには、「幸福論」の約束事になり得るのである。」<引用:幸福論>

自立神経失調症を患っていない人にとっては、陣内とは別人の、誰かもっと魅力的な男性に覆い被されている藤原紀香になっていく自分を想像するとき、「幸福」というものの中に居ることができるのだと寺山は説く。藤原紀香本人が、それを思って陣内をパートナーに選んだかどうかはわからないが、少なくとも我々男性は、自身をキムタク(古いか?)と思いこむことなくとも、藤原紀香に覆い被さることは可能だ。そして、目を開けて眼前にスッピンで喘ぐ相手の表情に「幸福」を感じることができない場合でも、再び目を閉じて神経を刺激してやれば、姫でも王子でも、理想とする「幸福」というものの中に一瞬間身を置くことができるのだと。

「幸福」は「故郷」のように遠くにありて想うものであると。

2007-05-23

ブラッド・ダイヤモンド

「もう本編が始まっているかもしれない」と息堰切って飛び込んだ劇場が違っていた。テアトル系の劇場の毎水曜は1000円で入場できるので諦めるわけにはいかないと、さほど興味はなかったがそのまま鑑賞することにした「ブラックダイアモンド」。予想に反して骨太だった。のっけにミーハーな感想を述べれば、ジェニファー・コネリーの魅力的なこと。

実話ということではないようだが、世界でたった4社のシンジケートが牛耳る世界を題材にしているだけあって、ベビーな話だった。舞台は1990年代後半、アフリカ西部の小国シエラレオネ。平和に暮らしている人々が、先進国の「贅沢」のために犠牲となって殺されいく。ダイヤを商売のタネにしている人々にとっては戦略的であっても、そんなものとはかけ離れた日常を余儀なくされる彼の地の人達にとっては迷惑千万。悲惨な状況に訳もなく巻きこまれてしまう。分かっているつもりではいても、映像でつきつけられれば感情も高まる。憤りを覚えた。

基本的に白人が黒人を痛めつける話ではあるのだが、主人公の白人ディカプリオもローデシア(だったか何処だったか)で生まれ、内戦で両親を失った難民という役どころ。傭兵となりそこでしこまれたダイヤの知識で現在は密輸売人に成り果てている。その辺りが台詞で明かされるのは手間を省いた気がしないでもないが、テーマは重く主人公がハッピーエンドとはならない結末で社会派作品の面目を保った。ただし、そこはハリウッド、最終的に彼は善人として描かれ最期を遂げる。

それにしてもこんなお話、映画でもなければお目にかかることはない。日本海を隔てただけの北朝鮮については、同胞に直接的な被害者がいる故、報道も充分とは言えないまでもそれなりに情報化される。しかし、ダイヤモンドの産地の政治情勢やその民の惨状などについては皆無である。からして、改めて己の無知と無関心とに業を煮やす。人が訳なく殺されているのだ。しかも同じ土地の民の手によって。理不尽に洗脳された子供達の手も加えられて。

目を背けたくなるほどのシーンも幾つかあって、監督の意気込みもやや空回り間もある。ブラピとアンジョリーナを意識したかのような主役二人に、それなりの場面を用意せざるを得ず陳腐な流れもあることはある。しかし、それはあっさり受け流し、本来的に提示された主題を心に留めるべきであると感じた。勿論深く勉強する必要はないだろう。しかし、人として一瞬でも意識すべきことだと考える。

映画のことを話そうとする時のイライラは、筋書きや具体的なシーンの描写を省いて感情を伝えたいと考えてしまうこと。所詮無理なのだから、そんなことは試みなければよいのだが。

映画の最後に、「かくある状況が世界に知れ渡るに至り、紛争地域からのダイヤの輸入を制限する規制ができた」とある。また、その後に続けられたスーパーインポーズには「紛争はなくなっていないが」という文章が添えられた。密売者が善人として命を失い、当事者のアフリカ人がいわば悪事に荷担しながらも白人権力者達の前で惨状を訴えた、映画という完結したエンタテイメントはその一文で汚され無意味なものとなった。社会派を気取ったのか、はたまた配給側の要求か、それともオスカーを狙ったディカプリオの要望だったのか?

もうひとつ、ダイヤモンドは宝飾品としてよりも産業用として売買される量が遙かに多い。「給料の三ヶ月分」は、ダイヤモンド会社のマーケティングによって作り出された根も葉もない広告文にしか過ぎないが、「研磨剤やドリル」を批判するより確かにインパクトは強い。しかし、この映画について書かれたブログ等を読めば、「この映画を見たあとにダイヤを買うか買わないかは・・・」のような軽薄なコメントばかりが目につくのは寂しい。スノッブな連中の金ドブ的な消費の対象などより、一般人が日常的に使用する製品類の加工の多くが、血塗られたダイヤモンドによって成立しているのだという認識もほしい。

それにしてもジェニファー・コネリーの色っぽいこと。はるか昔に、かのデビット・ボウイが妙な魔術師みたいなものに扮した「ラビリンス」に10歳ほどで出演したときは、世界で最も美しい「少女」と評された彼女、今や実生活においても母となり本物の女になって本来の美しさに更なる磨きがかかった。演技云々は話題にしないとしても、比類なき女の魅力はこのフィルムにおいても文句のつけようがない。「ロケッティア」で見せた、まだ少女性の残る造詣の美しさだけの女から、見事に脱皮してただ垂涎の的となった。今後はアンジョリーナ・ジョリーとの票争いに拍車がかかること受けあいだ。

2007-04-28

四谷の猫

顔見知りの猫がいる。おそらく飼い猫だろう。毛並みがよい。猫には詳しくないが、犬でも猫でも野良にみられる張りつめた目つきがない。どこかしら余裕さえ感じられる。どうせ、四谷の道楽猫に違いない。

朝、子供たちを怒鳴りながら尻を叩いて家を出ようとしていると背中に視線を感じる。行き止まりの路地の塀の上に横たわって、首だけ持ちあげてこちらを眺めている。昼時に食事に戻る途中、人様の玄関の石段に寝そべって、ゴロリと頭を転がしたまま目だけ開いて通り過ぎるのを眺めている。「なんだ、あいつか」と欠伸までしている。窓から身体を乗り出してタバコの煙を吐き出していると、目線のすぐ先を通り過ぎていく。一瞬速度をゆるめてこちらを確認し、プイと顔を逸らせてスタスタと去っていく。

猫は基本的に苦手だ。だが同時に羨ましくもある。人を見透かすようにジロリと見つめるあの目が苦手だ。あんな風に人様の顔を覗き込むなんてのは、よほど相手を舐めているのか、本心から心を配っているのかのどちらかだ。そのくせどちらにしても相手に悪感情を抱かせることがない。それどころか、ちょっと気が引けたりする。「いつもご心配をおかけしまして恐縮です」なんて。

夜の街へ忍びだそうとするときなど、どういう訳か扉を閉めて振り返った瞬間に鉢合わせしたりする。「また、お出かけ?」「余計なお世話、放っておいて」「ほどほどに」なんてかんじで視線を逸らされたりすると、なんだか出だしで蹴躓いた気になる。そんな晩には決まってもう一度会ったりする。「遅くまでご苦労なことで」「オマエさんの知った事じゃないよ」「ええ、こちらも毎度毎度、知りたくて会ってるわけじゃあないんですが」

大人しく家に居ても顔が合う。二階の窓から顔だけ突き出して、シュボッとタバコに火を点けていると、路地の端のほうでピタリと動きを止めている。勿論身動きせずにこちらの様子をうかがっている。今度はこっちが先手を取る。
「おや、どちらへ」
「へん、何ら関わりの無いことで」
「まあ、それはそうですが。ところでどちらへ」
「今日は月夜で足下も明るいし、ちょっとその辺をブラつくだけで」
「最近は野良も増えていますから、いえ、犬の話ですがね」
「イヤなこと言いやがる。どうぞお気遣いなさらずに」
フンと向き直って抜き足差し足で進んでいく。フウッと大きく吐き出すと、「まだ居るのか」と一瞥を送って、抜き足差し足。

どうも、やっぱり気が合いそうにも思えないが、どうしても羨ましい、あの抜き足差し足。

2007-04-24

四谷の昼

四谷には大きなオフィスビルというものがない。多くは数人、大きくても数十人規模の会社や事務所がひしめいている。正確には四谷と呼べるかどうか分からないが、最大のオフィスビルは防衛省だ。ここには数千人が働いている。出入りも相当多い。そんな人々が昼間一斉に這い出し食事に向かうと、小さな飲食店街はどこもいっぱいになってしまう。見附あたりで食事処が集中するのはみすじ通りで、多くは夜のお店なのだが昼のメニューも揃えているから皆がここにやってくる。日ごとに店を替え、腹を満たしている。

外堀通りからみすじ通りに入るとすぐに、洋食「エリーゼ」という小さな食堂がある。いつも列ができている。オムライスやハンバーグステーキといった定食のサンプルがショウケースに並んでいる。一年あまりも列が無くならないところをみると、きっと美味いに違いない。残念ながら未だに試したことがない。腕まくりしたネクタイ連中が前に並んだ客の後頭部を睨み付けているのを見ると、すぐに諦めてしまう。

通りの中程にSALSA CABANAというメキシカンの店がある。味にはそれほどインパクトがなかったけれど、三階建の屋上に設置されたガラス壁のペントハウスで食事ができる。天気のよい日など、エンチラーダをコロナで流し込むなんてのを昼間からやってしまいたくなる開放感が嬉しい。テキーラの種類も揃えているらしいが、それは遠慮した。先のほうにはGRIL CABANAというステーキハウスがオープンした。きっと姉妹店だろう。やっぱり儲かっていたんだな。

その対面あたりには信州生そば「政吉」という立ち食いの店がある。蕎麦がうまい。二つの大通りにも小諸蕎麦が二軒もある。そこいらの蕎麦屋より美味かったりする。値段も当然安い。要は四谷に美味い蕎麦屋が少ないということのだが、政吉は美味い。どうしてもという時には三丁目を越えてへぎ蕎麦の匠まで足を伸ばさなければならない。だから政吉は大事な蕎麦屋さんだ。

みすじ通りを終いまで行って、交差する道の向側にあるのが「俵屋」。普通の中華やさんだ。量がよい。定食メニューはどれも腹一杯になる。お得感がある。少し先には支那そばの「こうや」があるのだけれど、ここは美味いが濃いのでほんの希にしか行かない。火事の後には味も変わった気がする。

四谷はコーヒーショップも見逃せない。ドトールなんか三軒もある。うち二軒は新宿通をはさんで対面にある。少し手前にはサンマルクもある。二丁目まで行けばスタバもあるし、手前にはモリバコーヒーもできた。お気に入りは外堀通りのドトールだ。何と言っても二階からの景色がよい。窓外には一面外堀の緑が広がっている。ホットタイムが味わえる。

四谷の昼食時は短い。さっと盛り上がって、すっと終わる。みんな江戸っ子喰いだ。そんな中、我一人ドトールの二階に居座り時を貪っている。

2007-04-23

四谷の朝

四谷の朝は賑やかだ。JR中央線と総武線、営団の二路線が乗り入れる四谷駅のせいで、通勤の人々をはじめ大学や語学学校の学生、それに名門小学校の児童達が絶えず四谷見附交差点を埋め尽くす。幹線道の新宿通に外堀通りが交わるので、車も相当量である。

あまりイメージされていないが四谷は基本的に住宅地だ。だから前述の人々に加え、この街の住人も一緒に動き出す。二つの大通りを一歩内側に入り込めば、普通の小学校に通う児童に保育園へ子供を送る親たち、店支度をはじめたスーパーの店員や、タバコや飲料の自販機に商品を補充する老いた看板娘や息子達。年中半袖姿で走り回る宅配便のお兄さんやおじさん達も加わり、まさに江戸の中心地に恥じない活況がある。新宿通りに面した長期滞在型ホテルから早々に観光に繰り出す外国人が加われば、インテルナッツィオナーレなコスモポリスの様相を見せる。

お気に入りのコーヒーショップの二階から、外堀の樹々の変化を背景にそんな人々を眺めていると、この街に暮らす豊かさが身にしみる。都心だというのに目の前を覆い尽くす一面の新緑があり、時折その中を駆け抜ける黄色やオレンジ色の電車の姿もどこか長閑だ。片側三車線のゆったりした道には車が滞ることもなく、緑のトンネルを通過する人々も駆ける者がいるかと思えば一歩一歩を踏みしめながら行く者もある。ニューヨークやパリ、そして丸の内や新宿の朝のような完璧に制御されたリズムとは異なり、人と人とのあいだに充分な空間が存在しのんびりと今を生きる姿がある。

地名の由来であろう四つの谷が正確に何処を示すのかは定かではないが、最も高台に位置する見附の交差点からそれぞれの収り所に向かって、適度に人々が分散されて消えていく。景色がまったり動いている。それだけでも贅沢だ。

しかし、四谷の朝が最高に贅沢なのは、言わずもがな週末だ。駅の向こう側は過疎化が進んでネズミ一匹見あたらないが、未だちゃんとした住宅地の四谷では、人の数が減った分だけ広がった我が街が返ってくる。口笛なんか吹きながら歩いていく。自転車だって飛んでいく。犬も老人も駆けていく。子供の歓声が空に登っていく。豊かである。

2007-04-22

四谷の路地

四谷の路地は、古くから整備されているので真っ直ぐな道が多い。同時に、所々にクランクが存在する。「この先細くなっているため、通り抜けできません」なんて警告版が出ていたりする。無視して入ってきた車が、ノソノソとバックしながら大通りへ戻ろうとする場面に出くわす。付近の住民は、心なしか「田舎者め」と軽蔑の眼差しを送ったりする。

四谷見附から新宿方向に向かう大通りは、ご存じ新宿通りだが、甲州街道の始点。その昔、海から戦を仕掛けられた将軍が四谷門を通って退散するための道として整備された。だから大きくて、追っ手も追跡しやすかったに違いない。だから逃げる将軍の追っ手を撃退する目的で、四谷見附付近には鉄砲隊や忍者の住まいが置かれた。現在でも町名が変わらない四谷1丁目〜3丁目(伝馬町)、現在の三丁目辺りにあった忍町、伊賀町などという名まであったから、当時の住民のほとんどもそのことは認識していたはずだし、住民の多くは兵士や町民に身を変えた忍だった。因みに、有名な若葉のたい焼きがある場所は、あのお店を含めた数件分の区画が南伊賀町と呼ばれていた。

路地のクランクはその名残で、敵方の忍び撃退の方策の一つだった。闇に身を忍ばせ、敵方の忍者の列が細い路地を駆け抜けていく。クランクを通過すると、列の先頭と最後尾は互いを目視できない位置関係に立つことになる。その時、両側の家屋の板壁に空いた穴からソロリと吹き矢が突き出され、最後尾を行く忍者の背中目掛けて吹き放たれる。射られた忍者は、味方の存在を知らしめぬよう声も立てずにその場に倒れる。クランクの度にまた一人、そしてまた一人。後ろの異変に気が付いた頃、先頭を走っていた忍者は、残るは我一人ということに愕然とする。

都心への乗り入れに不慣れな運転手は、このカラクリを知らない。腕に自信のあるタクシーなんかは殊更だ。「細くなっている〜」なんて脅し文句にへこたれず堂々と進入した挙げ句が、バックで逆戻りとなる。行き過ぎたタクシーが数分後後退してきたのをチラリと見やりニヤリと微笑するのは老舗「若葉のたい焼き」のご主人。「若葉のたい焼き」かつては「見附のだんご屋」として知られていた。団子屋は、忍が偽装する町人の姿としてよく知られている。連綿と継承されてきた遺伝子が、「生きて戻れてよかったな」と無言で発している。