顔見知りの猫がいる。おそらく飼い猫だろう。毛並みがよい。猫には詳しくないが、犬でも猫でも野良にみられる張りつめた目つきがない。どこかしら余裕さえ感じられる。どうせ、四谷の道楽猫に違いない。
朝、子供たちを怒鳴りながら尻を叩いて家を出ようとしていると背中に視線を感じる。行き止まりの路地の塀の上に横たわって、首だけ持ちあげてこちらを眺めている。昼時に食事に戻る途中、人様の玄関の石段に寝そべって、ゴロリと頭を転がしたまま目だけ開いて通り過ぎるのを眺めている。「なんだ、あいつか」と欠伸までしている。窓から身体を乗り出してタバコの煙を吐き出していると、目線のすぐ先を通り過ぎていく。一瞬速度をゆるめてこちらを確認し、プイと顔を逸らせてスタスタと去っていく。
猫は基本的に苦手だ。だが同時に羨ましくもある。人を見透かすようにジロリと見つめるあの目が苦手だ。あんな風に人様の顔を覗き込むなんてのは、よほど相手を舐めているのか、本心から心を配っているのかのどちらかだ。そのくせどちらにしても相手に悪感情を抱かせることがない。それどころか、ちょっと気が引けたりする。「いつもご心配をおかけしまして恐縮です」なんて。
夜の街へ忍びだそうとするときなど、どういう訳か扉を閉めて振り返った瞬間に鉢合わせしたりする。「また、お出かけ?」「余計なお世話、放っておいて」「ほどほどに」なんてかんじで視線を逸らされたりすると、なんだか出だしで蹴躓いた気になる。そんな晩には決まってもう一度会ったりする。「遅くまでご苦労なことで」「オマエさんの知った事じゃないよ」「ええ、こちらも毎度毎度、知りたくて会ってるわけじゃあないんですが」
大人しく家に居ても顔が合う。二階の窓から顔だけ突き出して、シュボッとタバコに火を点けていると、路地の端のほうでピタリと動きを止めている。勿論身動きせずにこちらの様子をうかがっている。今度はこっちが先手を取る。
「おや、どちらへ」
「へん、何ら関わりの無いことで」
「まあ、それはそうですが。ところでどちらへ」
「今日は月夜で足下も明るいし、ちょっとその辺をブラつくだけで」
「最近は野良も増えていますから、いえ、犬の話ですがね」
「イヤなこと言いやがる。どうぞお気遣いなさらずに」
フンと向き直って抜き足差し足で進んでいく。フウッと大きく吐き出すと、「まだ居るのか」と一瞥を送って、抜き足差し足。
どうも、やっぱり気が合いそうにも思えないが、どうしても羨ましい、あの抜き足差し足。
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