「もう本編が始まっているかもしれない」と息堰切って飛び込んだ劇場が違っていた。テアトル系の劇場の毎水曜は1000円で入場できるので諦めるわけにはいかないと、さほど興味はなかったがそのまま鑑賞することにした「ブラックダイアモンド」。予想に反して骨太だった。のっけにミーハーな感想を述べれば、ジェニファー・コネリーの魅力的なこと。
実話ということではないようだが、世界でたった4社のシンジケートが牛耳る世界を題材にしているだけあって、ベビーな話だった。舞台は1990年代後半、アフリカ西部の小国シエラレオネ。平和に暮らしている人々が、先進国の「贅沢」のために犠牲となって殺されいく。ダイヤを商売のタネにしている人々にとっては戦略的であっても、そんなものとはかけ離れた日常を余儀なくされる彼の地の人達にとっては迷惑千万。悲惨な状況に訳もなく巻きこまれてしまう。分かっているつもりではいても、映像でつきつけられれば感情も高まる。憤りを覚えた。
基本的に白人が黒人を痛めつける話ではあるのだが、主人公の白人ディカプリオもローデシア(だったか何処だったか)で生まれ、内戦で両親を失った難民という役どころ。傭兵となりそこでしこまれたダイヤの知識で現在は密輸売人に成り果てている。その辺りが台詞で明かされるのは手間を省いた気がしないでもないが、テーマは重く主人公がハッピーエンドとはならない結末で社会派作品の面目を保った。ただし、そこはハリウッド、最終的に彼は善人として描かれ最期を遂げる。
それにしてもこんなお話、映画でもなければお目にかかることはない。日本海を隔てただけの北朝鮮については、同胞に直接的な被害者がいる故、報道も充分とは言えないまでもそれなりに情報化される。しかし、ダイヤモンドの産地の政治情勢やその民の惨状などについては皆無である。からして、改めて己の無知と無関心とに業を煮やす。人が訳なく殺されているのだ。しかも同じ土地の民の手によって。理不尽に洗脳された子供達の手も加えられて。
目を背けたくなるほどのシーンも幾つかあって、監督の意気込みもやや空回り間もある。ブラピとアンジョリーナを意識したかのような主役二人に、それなりの場面を用意せざるを得ず陳腐な流れもあることはある。しかし、それはあっさり受け流し、本来的に提示された主題を心に留めるべきであると感じた。勿論深く勉強する必要はないだろう。しかし、人として一瞬でも意識すべきことだと考える。
映画のことを話そうとする時のイライラは、筋書きや具体的なシーンの描写を省いて感情を伝えたいと考えてしまうこと。所詮無理なのだから、そんなことは試みなければよいのだが。
映画の最後に、「かくある状況が世界に知れ渡るに至り、紛争地域からのダイヤの輸入を制限する規制ができた」とある。また、その後に続けられたスーパーインポーズには「紛争はなくなっていないが」という文章が添えられた。密売者が善人として命を失い、当事者のアフリカ人がいわば悪事に荷担しながらも白人権力者達の前で惨状を訴えた、映画という完結したエンタテイメントはその一文で汚され無意味なものとなった。社会派を気取ったのか、はたまた配給側の要求か、それともオスカーを狙ったディカプリオの要望だったのか?
もうひとつ、ダイヤモンドは宝飾品としてよりも産業用として売買される量が遙かに多い。「給料の三ヶ月分」は、ダイヤモンド会社のマーケティングによって作り出された根も葉もない広告文にしか過ぎないが、「研磨剤やドリル」を批判するより確かにインパクトは強い。しかし、この映画について書かれたブログ等を読めば、「この映画を見たあとにダイヤを買うか買わないかは・・・」のような軽薄なコメントばかりが目につくのは寂しい。スノッブな連中の金ドブ的な消費の対象などより、一般人が日常的に使用する製品類の加工の多くが、血塗られたダイヤモンドによって成立しているのだという認識もほしい。
それにしてもジェニファー・コネリーの色っぽいこと。はるか昔に、かのデビット・ボウイが妙な魔術師みたいなものに扮した「ラビリンス」に10歳ほどで出演したときは、世界で最も美しい「少女」と評された彼女、今や実生活においても母となり本物の女になって本来の美しさに更なる磨きがかかった。演技云々は話題にしないとしても、比類なき女の魅力はこのフィルムにおいても文句のつけようがない。「ロケッティア」で見せた、まだ少女性の残る造詣の美しさだけの女から、見事に脱皮してただ垂涎の的となった。今後はアンジョリーナ・ジョリーとの票争いに拍車がかかること受けあいだ。
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