藤原紀香は、オリジナルの体型に戻されたバービー人形である。戦後アメリカが日本の少女たちのために持ち込んだオリジナルな体型のバービー人形は、不評だった。何故なら、人形の体つきが当時彼女たちの周囲を取り囲む日本人の女性のそれとはあまりにかけ離れたものだったからだ。バービー人形は、胸とお尻を縮小化することによって日本の少女たちに受け入れられた、という話が伝わっている。今、藤原紀香によってバービー人形はオリジナルの体型を取り戻すことができた。
先日テレビでライブ中継された披露宴での彼女は、これまで見慣れた藤原紀香となんら変わらぬ藤原紀香のように見えた。時折年齢なりの表情を見せてはいたが、あどけない顔の作りも、それとはアンバランスな日本人離れした体躯も、これまで何年にも渡りテレビに映し出されてきたもの以外ではなかった。一般人にとって結婚披露宴は、一世一代の晴れの舞台(のひとつ)である。おそらく私人藤原紀香にとってもそうであったに違いない。我々がテレビのスクリーンを通して眺めていた公人藤原紀香は、いつもと変わらぬ彼女であった。雛壇に添えられたオリジナルの体型のバービー人形であった。ただ、視聴者のほうがその姿にのぼりつめた幸福を感じようと必死になった。
彼女の婚約が報道された時、保育園の保母さんたちほぼ全員が、「紀香にはお姫様でいて欲しかった」と口にし、婚約相手の陣内は役不足であるとした。紀香は本来さらなる高みを望むに値すると。オリジナルの体型を手にしたバービー人形藤原紀香は、「お姫様」であったのだ。かつて舶来の人形としてしか存在しえなかった「お姫様」が、自分たちと同じ国土の何処からか、訛りのある言葉を話す一般人の娘として生まれ出てくる時代になったのだ。「お姫様」にしか与えられなかった最高の幸福が、ひょっとしたら自分にもやってくるかもしれない。だから、「紀香にはお姫様で居て欲しかった」、居てもらわなければならなかった。
寺山修司の「幸福論」という本を知人が差し出して、「読め」という。実に興味深い内容だ。とはいえ、寺山修司を理解するには彼に対する「慣れ」が必要だ。四苦八苦しながら、楽しむというか脳に汗をかく。小林秀雄の場合とは別の汗をかく。
「冗談(4)自立神経失調症に患った石堂淑朗*が医者に診察を受けに行ったら、医者が言ったことば。
『当分のあいだ、オナニーを止めて下さい。オナニーは、想像力をかきたてて神経障害に悪い影響をおよぼすでしょうから』
そこで石堂淑朗が、『夫婦生活は構わないのですか?』と訊くと『奥さんが美人ならば構いません。しかし、不美人ならばお止しになった方がよろしいでしょう』
『何故ですか?』と石堂がまた訊くと『奥さんが不美人ならば、映画女優か何かを想像しながらすることになる。その想像力が自立神経にひびくのです』
──自立神経失調症とは、いわば幸福になるための道具の故障というところか」<引用:幸福論>
*脚本家、評論家。大島渚、吉田喜重、篠田正浩、田村孟らと共に“松竹ヌーヴェルヴァーグ”と言われた60年代初頭の映画革新運動の中心的役割を果たした。<出典:wikipedia>
「想像力も、交換可能の魂のキャッチボールになり得たときには、「幸福論」の約束事になり得るのである。」<引用:幸福論>
自立神経失調症を患っていない人にとっては、陣内とは別人の、誰かもっと魅力的な男性に覆い被されている藤原紀香になっていく自分を想像するとき、「幸福」というものの中に居ることができるのだと寺山は説く。藤原紀香本人が、それを思って陣内をパートナーに選んだかどうかはわからないが、少なくとも我々男性は、自身をキムタク(古いか?)と思いこむことなくとも、藤原紀香に覆い被さることは可能だ。そして、目を開けて眼前にスッピンで喘ぐ相手の表情に「幸福」を感じることができない場合でも、再び目を閉じて神経を刺激してやれば、姫でも王子でも、理想とする「幸福」というものの中に一瞬間身を置くことができるのだと。
「幸福」は「故郷」のように遠くにありて想うものであると。
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