「パパ、鍵がかかっているよ」と、妻が二階で声を荒立てる。この家の一部屋だけ鍵のついた私の仕事部屋兼物置が、内側からロックされている。昼食を終え二階のもう一部屋で昼寝の体勢に入りかけた子供たちを睨み付けると、上の子から順番に「僕じゃないよ」と三度繰り返される(三番目はそれらしき音声という意味だが)。夫婦が顔を見合わせ互いが声に出さずに「誰に似たんだか」と呟く。
大家さんに連絡を入れるも、「あの部屋に鍵?記憶にないな」という返答。「探してみます」という言葉に期待を託してはみたが、携えてきた鍵の数々はどれも問題を解決してはくれなかった。「蝶番を外してみたら」と妻。ものは試しでさっそく取りかかるも、蝶番のピンは外せてもドアの厚みがそれ以上の進展を阻む。出張のサービスに頼むしかないかと半ば諦めかけたとき、大家さんは背の低い脚立を壁に立てかけていた。開け放たれた二階の窓までは、せいぜい4メートル程度の高さしかない。しかし脚立の端まで登ったとしても、ようやく腕を延ばして5センチほどの窓の縁にぶら下がるのがやっと。すっかり髪の毛を失ってしまったとはいえ、ブルース・ウィリスなら躊躇無く脚立を駆け登っていくだろう。未だ隆々とした上腕二頭筋が彼の身体を難なく持ちあげ、事も無げに窓からの進入を果たすことができるはずだ。
「私が行こうか?」と横で妻。「馬鹿なことを言うんじゃない」と脚立にしがみつき段を登り始めた。「押さえておいてくれ」とやや上ずり気味の声で後方支援を要請する。三段目で脚立が僅かに傾く。「お、押さえてくれって!」と声がひっくり返る。なんとか上まで辿り着いたが、ほぼ垂直に近い脚立の最上段に立ち上がることはできなかった。「やっぱり、コ、ワ、イ」
「台か何かで嵩上げすれば何とかなるかも」と大家さんの表情がパッと明らむ。言い終えると間もなく、風呂場の桟のようなものを携えていそいそとやってきた。「机か椅子は・・」との言葉に黙って頷き従っていた。食卓の椅子を二脚向かい合わせに並べ、桟を渡して土台をつくる。脚立の最上段に立ち上がることができるように、壁から充分な距離を取り傾きを大きくした。覚悟を決めて脚立を掴み、一段目に足をかけるとぐらりと傾いた。振り向いて声を出そうとした寸前、「大丈夫、押さえているから」と間髪を入れず妻が発する。下を見るなと自分に言い聞かせ、目指す二階の窓目掛けて兎に角腕を延ばし段を登る。
最上段まで辿り着いたが僅かに高さが足りず、数十センチは身体を持ちあげなければ窓から中に入り込むことはできない。しかし、躊躇したところで後戻りはできない。四つの目が俺の一挙手一投足を見つめているのだ。ここが男の尊厳を維持できるかどうか、天下分け目の天王山だ。足裏で梯子の段の感触を確かめながら、無用な力みを抑えるために一つ大きく息を吸い込んだ。そして次の瞬間、大臀筋、内転筋、大腿二頭筋、腹筋、脊柱起立筋、それに下腿三頭筋に神経を集中させ、不安定な脚立の段を蹴った。僅かに余分なパワーが脚立を傾け、俺の身体は斜めに数十センチ持ち上がった。目指す窓枠は目論んだとおりの位置には近づかず、左方に過ぎ去ろうとしている。咄嗟に延ばした左手がそれ以上遠ざかるのをなんとか食い止めたが、俺は片腕一本で二階の窓から宙づりになった。「キャーッ!」妻の甲高い叫び声が耳に届く。「落ち着くんだ」五十も近いとはいえ、ヤツと違って髪の毛だってフサフサだ。こんなところでへこたれているわけにはいかない。俺はあらん限りの力を込めて、左腕の筋肉を収縮させる。少しづつ身体が持ち上がり、もう少しで右手を枠にかけることができそうだ。そう思ったとき、ズルッと音がしてトタンで覆われた窓枠が傾いだ。俺の身体はバランスを失い、くの字に曲げられていた左腕が真っ直ぐに延びきった。「キャーッ!」再び妻の声が耳に届く。上腕二頭筋に乳酸が蓄積されるのが感じられる。「来るなら来い!」と自虐的な笑みを浮かべ、再び腕の筋肉の収縮を試みる。その間も身体は右に左に揺れ続け、これから待ち構える困難な状況への想像を刺激した。楽しかった日々の記憶が脳裏を過ぎ去っていく。しくじるわけにはいかないが、仮にそうなった場合は当面の生活には困らない充分な保険金も支払われるはずだ。しかし、そんなことより最後の力を振り絞ることに全神経を集中させよう。それが俺がこの世に生を受けた証のはずだ。立つんだ!身体の揺れを空いた右腕でおさえながら、左腕だけで俺は再び上昇し始めた。窓枠が鼻先まで近づき、網戸を引き開けた。もう直だ。もうじき我が家に安寧が戻ってくる。男の責務を果たすことができる。子供たちの笑顔、妻の安堵の表情、大家さんの尊敬の眼差しが、平穏な生活の訪れを告げることになる。両手でしっかりと窓枠を握りしめ、ぐいと身体を持ちあげた。上半身が窓の内側に折れ曲がり、片足を滑り込ませて俺は室内に着地した。施錠されていたドアを開けると、不安顔だった三人の顔に笑みが戻り、「パパァー」と抱きついてきた。階下では目を潤ませた妻が尊敬の眼差しで俺を見上げている。
大家さんへ礼を告げるため玄関へ戻ると、脚立をたたみながら彼はこう言った。「やってみると意外に簡単でしたな」「まあ、私にとってはこの程度のこと」屋根々々の間から僅かに見上げる都会の空が、今日はやけに清々しい青だった。
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