2009-10-29

長い長い、カツ丼の話し

たいした距離でもないのに序ででもなければ立ち寄らない場所というのはあるものだ。そのひとつが日本橋人形町界隈。十五年ほど前までは数年間毎日通った場所でもある。今日はその序でがあった。今は消滅してしまった小さな事務所に毎日朝から晩まで居ったのだから、当然昼飯はその界隈で済ませた。人形町には名だたる食い物屋が軒を並べているんだ。

交差点の主ともいえる洋食のキラク、ビーフステーキ2700円は立派なお値段。見かけはほんの数坪の、通り過ぎそうなお店だが歴史は古いんだ。一時は行列が途切れることのなかった親子丼の玉姫。俺は正直、一度も喰ったことがないのだけれどね。すき焼きの今半だって筋ひとつ入った場所に構えている。ランチのお値段は、ほんの少しだがキラクよりお安いんだ。キラクより気楽よ、なんて。しかし、夜は恐ろしい値段に化けるのさ。甘酒横町まで足を延ばせば、よく行ったもんだよ、やきとり久助。見渡せば、どうやらその頃より気の利いたラーメン屋が増えたし、たこ焼きやなんかも進出している。とにかく、食べ物の豊富さでは負けていないんだ、この界隈。

しかし、今日のお目当てはそんな有名でもメジャーでも今風でも何でもない、ただの中華屋。その名も、玉龍亭。名前だけはご立派だが、掘留公園で遊ぶ園児達の声にかき消されてしまうほどの、小さな、それこそ何処にでもある中華屋さんだ。昼時にはダッサイネクタイしめたサラリーマンが雪崩れ込み、半チャーハンとラーメンなんかをかき込むような、そんな昼飯屋だ。黄色の庇に赤い明朝体で「玉龍亭」。どうしても、そこへ行きたくなった。

なにせ十五年も前、当時既に充分にお年を召された父ちゃん母ちゃんがやっていた店。ひょっとしたら、危なっかしい連中に追い立てられて店をたたんでしまっただろうか。それとも、お父ちゃんのほうは逝っちまったんじゃないだろうかと、胸をドキドキさせながら辿り着いた。辿り着いたら、昔のまんまにそこにあった。昔の通りダッサイネクタイが暖簾をくぐり抜けていく。ちょっとしたタイムスリップだ。こっちも今よりずっと若くてダッサイネクタイを気取って締めていたりしたっけ。

前置きが長くなったが、何を隠そうこの玉龍はカツ丼の名店なんだ。って、俺が勝手に決めつけているだけなんだけど。いや、当時同じ事務所に通ったヤツも未だに「玉龍のカツ丼が無性に食いたくなる」と言っていたことがあるから、まんざらでもないんだ、玉龍のカツ丼。トンと置かれた丼の中で、少し残った半熟がプルるんと揺れるあの感じ、たった今揚げたての湯気を立ててるカツそのものだって、端っこにカリッとした衣の歯ごたえが残る職人技で、たいした肉でもないのに若さが求める「肉」の食感をきちんと満たしてくれる歯ごたえもほどよかった。隠れファンは確かに存在するんだ。今日は、その「無性に」が俺に訪れたわけだ。いやいや嘘はいけませんぜ、旦那さん。実は何日も前から楽しみにしていたくせに。そ、そうなんだ。iPhoneのスケジューラーに、わざわざ「カツ丼」なんて入力までして、打合せの相手に昼を誘われた時の用心に、「いや、今日は予定が立て込んでましてね」なんて白々しい台詞まで用意して、おまけに練習までして、向かったわけなのさ。

「へい、いらっしゃい」
昔のまんまだ。六人掛けが一つと、四人がけテーブルが二つ。時間が早いからテーブルは全部空いているのに、カウンターは満席。何故だかみんなカウンターから着くのがこの店の特徴だ。奧の14インチテレビでは、野茂のメジャーでの活躍もセナの事故死も知ったけ。年老いたはずの父ちゃん母ちゃんは、あれから一日も月日が過ぎていないかのように同じ姿形と元気でいっぱいだ。父ちゃんは、注文を復唱する時も挨拶をする時も、背中を丸めた格好で始終身体を揺らしながら中華鍋を振っていた。まるでカンフーサッカーのやけに頭突きの凄いオッさんみたいな風貌だ。額から汗が噴き出ている。カウンターの席に着くと、その元気と一緒に昼飯が腹を満たしてくれたんだ。

俺は正直十五年ぶりの、今となっては一見さんだから、大人しくテーブルに着いたよ。一人ぽつんとね。それで、これも昔と変わらぬプラスチックのメニュー立てを摘み上げた。やけに、スカスカなんだ、そのメニュー。老眼の次は、かすみ目か? いや、当時は裏も表も、麺類から飯類から、もやし炒めだ、ニラレバだ、酢豚だってあるんだぜと、ビッシリと両面を埋めていたメニューは、今や本当にスカスカなんだ。これでもかって程のボリュームが堪らなかったカツカレーも見あたらない。そんな物はどうだっていいんだ、今日はカツ丼よ。って、そのカツ丼の「カ」の字が見つからない。

そんなはずは無いんだよ。玉龍はカツ丼なんだ。カツ丼のない玉龍なんか、荒野のないアメリカ大陸みたいなもんだ。
「あのぉ、カツ丼は?」
「何年も前に止めちゃったのよ」と、元気いっぱいの母ちゃんは、そう言いながら何だか嬉しそうにしている。そんな顔で見つめないでおくれよ。俺はその時、一昼夜かけたグレイハウンドのバス旅の果てにフラれた少年のような情けない表情で母ちゃんを見返していた(に違いない)。

十五年の歳月を経て漸く辿り着いた日本橋堀留町の隠れカツ丼名店玉龍亭で、俺はカツ丼にフラれた。「こんなに長いこと放ったらかしで、どうしてもっと早く迎えに来てくれなかったのよ」という声が何処かでこだまする。どうすればよかったって言うんだ! 

カウンターに並んだ背中は、忙しなく右手を動かしエクスタシーに身悶えしながらワンタン麺やら湯麺やらチャーハンをかき込んでいる。そうだよ。フラれた時だって空は青かったさ。その空に向かって「あばよ」と言って、俺はまた旅を続けたんだ。
「広東麺ください」
「はーい、広東麺。広東麺入ったよ」と父ちゃんは悪びれもせず母ちゃんに注文を伝えている。父ちゃんは自分で請けていながら、必ずそうやって母ちゃんに伝える。何年も何年も、仲良くやり続けている。二人でこの小さな店を元気いっぱい生きている。母ちゃん似の、容姿より心よってタイプの娘さんも、今では立派なお母さんになっているに違いない。俺だって立派かどうかは別にして親にもなった。思えば、随分と月日は経ったのだ。

バブルが弾けてもなお、横文字のタイトルや人より少しだけ高額なギャラに踊らされてチャラチャラ途を驀進していた俺たちに関係なく、ずっとずっとこうして地道にこの店を続けてきた父ちゃんと母ちゃんは、今でもこうして二人仲良くダッサイネクタイ達に熱々の昼飯と元気を分け与えている。俺も広東麺で汗だくになった。次の目的地へのエネルギー補給が完了した。

勘定に立つと母ちゃんは、「カツ丼ごめんね。昔のお客さんだね」とニコニコの目つきで言ってきた。「十五年ぶりです」
「あら、このお客さん、十五年ぶりだって。ちょっと、ねえ」と小さな店いっぱいに響き渡る元気な声で父ちゃんに叫んだ。店の客が何事だとばかりに振り返る。俺は恥ずかしくなって、小さな声で「元気でね」と言って背中を向けた。あやうく声が詰まりそうだったよ。

2009-10-20

神戸 夕闇に

19日夕暮れどき。仕事を片付け三ノ宮へ戻ると、明石焼のたちばなへ向かった。これも恒例となった。これまでは、賑やかな街並みとどこか余裕のある人々に触れたくて、散歩がてら元町の店まで足を伸ばしていた。疲れが癒される。今日は五時間に及ぶ移動のため、流石にその気力さえ失せてしまった。駅の目の前、阪神ビルの地下一階にある支店にやってきた。

神戸在住の知人に教えてもらってからだから、はや五年になる。年に一度か二度の客でしかないのだが、こちらはすっかり常連の気でいる。焼きのオバチャンから掛かる「一枚ですか?」の声に、ひょいと人差し指をたてただけで返したりする。その気になっている。

この店を紹介してくれた知人がいうには、「明石焼はオヤツ。ご飯はまたべつです」 大振りのフワフワの明石焼きが10個。しかも、この時刻(五時過ぎ)のものとしては、少々多すぎはしはいか。隣のテーブルに着いた女性二人はペチャクチャと四方山話に花を咲かせながら、ひとつまたひとつと口に放り込んでいる。所謂別腹なのだ。

ところで中年オヤジがこんな場所に一人というのも、と思う間もなくもう一人更なるオヤジが目の前のテーブルについた。ガタイもよろしく、私などよりよほどこの場に似つかわしくない。焼きのオバチャンの声に、やはり頷くだけで答えた。彼も常連なのだ。

オヤジ二人のテーブルを挟むように先ほどの女性達と奥のカップルの話が盛り上がり、負けじと焼きのオバチャンは板さん風の男性相手に携帯電話の話が止まらない。

「184(いやよ)て、頭に付ければ相手に番号はみえへんから」
「いやよってか」
「そう、いやよ」
「なんか、怖いわ」

オヤジ二人は黙黙と明石焼を口にはこぶ。ハフハフしながら、黙って食べる。我々べつに怖い人ではないのだけれど、何故か眉間に皺を寄せ、伏せ目がちの姿勢を保って浮気調査の探偵よろしく食べ続ける。彼の関心事は何だろう。こっちは夕飯の事が頭を過ぎり出した。神戸の街がとっぷりと闇に包まれた。

2009-10-19

無題

車掌が、発車時刻に狂いが生じた理由を駆け込み乗車客がいたためと弁解している。25分間に四度めだ。俺たちはきちんと仕事をしている。問題が起きるのはいつもお前たちのせいだ。
空は気持ちよく晴れている。3時間のあいだにたった6分の遅れを取り戻してくれれば、誰も気にも止めない。

隣に席した男は倍ほどの体格で、きちんと自分のスペースに収まっているにもかかわらず、圧力を感じさせる。脳がそう感じる。その圧力の有無を実証はできない。客観的なものではないからだ。しかし、論証はできるかもしれないと、脳は考える。論証とは自己の内部で為される行為だから必ずしも客観性を伴うわけではない。隣の座席から感じるだけの無言の圧力の有無などという、世界の回転にとっては実にどうでもよろしい論証だから、きっとできたところで至極主観的なものだ。要は、彼の登場が理由のない居心地の悪さを感じただけなのだ。人というものは、いや私は我が儘なのだ。

そんなことを考えているうちに、隣の男がポケットからタバコを取り出して火を点けた。見れば私と同じ銘柄だ。たいへんメジャーなそのブランドの商品のなかにあって、常に継子扱いされるアイテムだ。関西の出張ではいつも入手に苦労するほどのマイナーな商品だ。
男を見れば私と同じような髭も蓄えている。体の威圧感に対して、目尻には人懐こい笑みも浮かんでいる。まんざら厭な人物ではないのかもしれない。

肘掛から取り外された灰皿が、テーブルの上に置かれている。男はタバコを押し付け火を消すと、缶コーヒーを飲み干す前に寝息を立て始めた。そうなのだ、腰掛けているだけとは言っても電車の長旅は意外に疲れる。仕事の前にしばしの休養は有効だ。見ればしっかり腕組みをして、他人のスペースを侵さぬ配慮もある。

それほど厭な人物でははさそうだ。言うほど圧力など感じもしない。私は乗車してから二本目のタバコに火を点けた。男の眠りを妨げぬように窓に向って煙を吐いた。

空は気持ちよく晴れ渡っている。あとは、列車が時刻どおりに到着してくれれば、きっといい日になるに違いない。

2009-10-14

ここは梅田地下

今日も仕事を終えて、新幹線までの時間を愉しもうとふらり。
梅田の地下街には、間違いなく故郷にあるあらゆる商店を足した数より多くの店が並んでいるのに、足が向くのはここだけなんだな。別に特長があるわけではないのに。

鳥の巣。
コの字のカウンターは、時間が早いせいで数える程しか客はいない。二月にいた大連出身の女性の顔も覚えていない。目の前には福建省出のふっくらしたお嬢が立つ。豚カツと烏賊とキスの串揚げを一本づつ。それと生中。
キャベツをタレに浸して頬張りはじめると、一つ空けた席の年配が福建省お嬢をたどたどしい中国語で食事に誘い始めた。離れたところから先輩のドッカの省出身者がチャチャを入れてくる。お嬢がすかさず、「ツパラ(お腹いっぱいなんです)」

コの字の角の向こうでは、サングラスの男とポニーテールの男が雇用拡大政策を論じている。反対側の二つ離れた席では、痩せこけた老人が一つづつ薬を口に運んでいる。アサヒの大瓶は半分を過ぎたところから減る気配がない。それを認めた日本人の年配ウエイトレスが言葉を掛ける。
私だけが無言でキスの串揚げを頬張っている。何故だか至福の時。ホント、何故なんだろう。ナンパオヤジは、「時間が」と言い残して立ち去った。政策論議は未だ続いている。クスリの老人は「帰る」と告げた後も水を舐めなめ居座っている。

2009-10-13

カミさんの○×◇やな

仕事が済んでホテルへの帰り道。遠回りして帰ろと、なんば南海駅へ向って地下道を進むと両手をポケットに突っ込んだ年配の男が一人、何事かを口ずさみながら目の前を歩いてゆく。所謂呟きオヤジ。
こっちも両耳をグルリ回転させて、呟きを聞いてやろうと彼の前面に回り込んだ。
「15日やな、×△□。カミさんの○×◇やな、×△□。ホッ、ホッ、ホッ」
結局、彼が何を呟いていたのかはよく分からなかった。しかし、新宿辺りを徘徊している呟きオヤジとは明らかに違う。ななんだか幸せそうだ。少なくとも彼は、政権への悪口や若もんへの嫉妬や生活苦を吐き出すだけの厭世論者ではない。なんてったって、「カミさん」の後で、ホッ、ホッ、ホッだもの。周囲が嫌悪する理由はないし、事実私は少しだけ癒されもした。ふと、ローマの下町を思い出したりもした。

ゆかりという名のお好み焼き屋へ入った。何故だろう、どうしてもホテルへ辿り着く前に何処かへ立ち寄りたくなったのだ。ミックス焼きが1050円は、安いのかどうか分からない。しかし、ホテルはもう目の前。周囲は吉牛と回転寿し。選択の余地はなかった。
かつて四ツ谷のキングと呼ばれたバーテンが二十歳の頃はきっとこうだったに違いないという風貌の男の子が、キングとは正反対のテキパキとした客捌きを見せている。お好み焼きは柔らかすぎる気がした。

明日、仕事が済んだら梅田の地下街にある串焼き屋へ寄ろう。今年二月に立ち寄った時に、「ワタシ、大連帰りたいよ」と寂しそうな顔を見せた彼女はまだいるだろうか。揚げすぎた串を突き出し、キスは好きかと愛想なく勧めてきた。嫌いじゃないさ、勿論。ただ最近は遠ざかっているんだが。
「大阪でいいところ、大連よりあったかいところよ。それだけよ」そう言って少し眉間に皺を寄せていた。
いや、それだけでいいじゃないか。東京に比べたら、ここは何もかもずっとあったかいよ。そう言う代わりに、もう一杯の麦酒をのんだっけ。