ジムキャリーが主演した、「トゥルーマン・ショー」という映画を思い出す。映画では、周囲の世界に小さな疑問を感じた主人公のトゥルーマンが、真実を知るため自分の属する世界から脱出しようと試みる。そんな彼を制止しようと、「摂理に従うのだ」と天の声が呼びかける。トルゥーマンの誕生から成長の過程をTV番組化して大成功したプロデューサーがコントロールタワーから彼の逃避行を監視していたのだ。彼が信じていた世界は、番組のためにつくられた虚構の世界で、両親やご近所、警官から政治家まで全てが「仕込み」の偽物。仕事が終わる、つまりその日の出番が終わると帰宅して本来の人生に戻るのだ。結末に関するネタバレはやめにしておくが、まるであの国のようである。
とても情けなくなる。彼らの歴史を尊敬し、過去の悲劇に同情し、現在の奮闘振りにエールを送る人々も大勢いるというのに、これだ。地上の人類の5分の1もの数を、そんな方法でコントロールできると未だに信じているのならば、彼らが残りの5分の4から正当な評価を得る事などあり得ない。
経済特区を訪れただけであれば、そこは自由経済圏であるとの実感を持つし、格差を容認する競争社会の側面を目撃するし、表面的には限りなく自由社会化したことを表象する。当地の人々もそのように振る舞っている。しかし、今回の報道の類に接する度に、10億の人間が全員、お上の指示に従って「開かれた国」の素振りを演じているだけなのかもしれないと肌が粟立つ。
考えてみれば、どおりであの国出身者は世界のあちらこちらにタウンを持つ。これまで自国を抜け出した人々の数は数億人を数えるのではないだろうか(統計的な数字はわからない)。彼らは、国外へ出る事によって本来の人生を見つけることができたのかもしれない。母国の親族や知人には、外の世界の生活や社会の状況も報せているにちがいない。あの国の人々だって、報道の全てが真実などとは考えまい。計り知れない力の存在を生まれた時から感じて生活しているからこそ、対外的な役を演じて生きることができるに違いない。
我々の親の世代にはこの国もそうであった、ということを思い出して、また肌が粟立った。