2007-06-11

三つの魂

この週末はスポーツの話題が目に付いた。新人、超ベテラン、若くして現役を退いたアスリートたち。

F1のカナダGPで、今年マクラーレンからエントリーした英国人の黒人ドライバー、ルイス・ハミルトンが、PPスタートでそのままフィニッシュした。黒人ドライバーが優勝したのも初めてならば、ルーキーが6戦目での優勝というのも1996年ジャック・ビルヌーブが4戦目で優勝して以来の快挙だ。

モータースポーツには金がかかる。昨今、アジア・中東の富豪が金の力でさほど実力もないドライバーにシートをあてがった例は幾つかあるが、マクラーレンのような欧州の名門F1チームが若い頃から目をつけ養成し、実力で這いあがってきたハミルトンのような例はこれまでない。有色人種という意味でだ。勿論、目をつけられるまでは家族がその費用を捻出していたわけだから、ハミルトン家は裕福な家庭に違いない。

しかし、金があれば這いあがれるわけではないのも欧州を中心に繁栄するモータースポーツの世界。まして、英国のように「クラス」が存在する国では、たとえ金があろうともクラスに属さない人間が易々と良い車を手に入れられるわけではない。実力の拮抗する白人ドライバーがいれば良い道具や環境がそちらへ向ってしまうことも想像に難くない。我々がこの国で耳にしたときに思い浮かべることのできるレベルをはるかに超えた、差別というものが以前存在する。

いかほどのものであったろう。家族の苦労、本人の苦労。そしてまた、彼をプロモーとしようと決断した人間が周囲を説得する際の苦労。結果が出なかったときの本人を含めた関係者の苦労。このままハミルトンが年間チャンピオンになれば、いやたとえ二番手、三番手で終わったとしても、シーズン中盤からは彼が話題の中心となり、これまでの軌跡が華々しくそして美しく語られることだろう。

F1の世界での禁句は、「金の話」と「昨日のこと」けっして泥や汗にまみれ、あいた傷口が膿んで醜い傷跡になったハミルトンの陰が披露されることはない。チャンピオンやそれに次ぐヒーローは、光り輝くスターとして奉り上げなければならないのだ。ハミルトンの夢、そして彼を新たなスターとして伝説化しようとするF1界の夢はまだ始まったばかりだ。

今日早朝のゲームを前に、深夜桑田を取り上げた番組が放映されていた。そのなかで桑田は涙を見せた。昇格が決まった桑田に背番号18が用意されたことを耳にした瞬間だ。桑田は、39歳。りっぱなオジサンである。そして20年間巨人に在籍した一流の投手である。しかしこの数年間、正しく言えば右肘を負傷して以来、桑田がそれ以前のようにまぶしい輝きを見せることはなかった。

桑田は現在の松坂と同様に高校生ルーキーとして華々しい活躍を見せ、西武に入団した清原との両輪で当時のプロ野球を大いに沸かせた。真に実力を伴った期待の星だった。そして以降数年に渡り彼の活躍はまばゆい光りを放ちつづけた。1994年、槙原、斎藤、桑田の当時の三本柱を投入した中日との優勝を決める最終戦は日本中のファンの目をくぎ付けにし、今も語り継がれている。桑田は最も強く最も頼もしい名実ともに日本球界のエースだった。

人気実力ともピークにある翌95年、彼はピッチャーフライを補球するためファールグラウンドでダイビングキャッチを試みた際、右肘に致命的な負傷を負った。アメリカで手術を受け、長いリハビリの末復帰した。しかし、以前のような輝きを取り戻すことはなかった。

どれほどの精神力だったろう。選手生命を断たれても不思議でないほどの大怪我に直面し、保証のない手術や果てしのないリハビリを支えた本人の忍耐と夫人の支援。藤田・長島・原と続いた常勝を義務付けられた指揮官達の支援。そこからくるプレッシャー。桑田が背負っていたのは巨人のエースナンバー18だった。たとえエースナンバーを着けていようが、輝きを失ったプレーヤーからは当然ファンの眼差しも遠ざかってゆく。本人が折れてしまえばそこで、ジ・エンドだった。

しかし、「20歳のときに思った」と本人の口から発せられたその夢は、20年の長く苦労の多いプロ野球選手人生を通して絶えることなく抱きつづけられた。皮肉にも今年メジャー昇格を決める3月27日のオープン戦で、桑田は再び大きな試練に遭遇する。右肘を痛めたときと同様にファールグラウンドへ走りこんだとき、こともあろうか審判と接触。右足首を負傷した。「これで終わったかと思った」しかし、桑田はそれでも諦めることなく、フィールドに戻ってきた。そして今日、晴れてメジャーのプレーヤーとしてマウンドに立った。桑田の夢は、そう簡単に諦められそうにない。

一年前から、「氏」を添えられて報道されるようになった中田がフィールドを駆けまわっていた。ともにプレーするのは、ジダン、フィーゴといった世界の一流たち。フィーゴが主催したチャリティーマッチに招待され45分間プレーした。

トレードマークでもあった金や銀に染められた短髪ではなく、ペルージャ移籍当時を思いださせる長めの髪の毛をしていた。前半控えに回った中田の表情からは現役当時の鋭さが消え、どこか戸惑いを感じさせるようでもあった。旅人として世界中をまわる中田からは以前のような闘争心が失われてしまったのであろうか。当然だろう。彼はいま何処へも向かってはいない。

中学生だった中田は、当時既にメディアから注目され、そのニキビ面の童顔は臆することもなく海外でのプレーを口にしていた。そこから約5年の間に各クラスの代表を経てJリーグ入りし、ほぼ同時にA代表入りも果たした。そして、二十数年振りのオリンピックに日本を導き、イタリアへと渡った。ペルージャの活躍で名門ローマへ迎えられ、日本人では初めてのスクデット獲得メンバーにもなった。プレーヤーとしての絶頂期を迎えた。

どこまで登り詰めるのかとの期待を受けて、出場機会の少ないローマを去りパルマへ。しかし、その後の中田は起用法の問題で機能せず、最後はプレミアリーグへ移籍したが再び渡伊時の輝きを見せることはなかった。そして、2006年WCでのプレーを最後に現役を引退した。プロサッカープレーヤーとして彼が抱いた夢がどのようなものであったかは知りえないが、決して満たされた晩年ではなかった。

その後の彼は、一部企業の経済的な価値を理由に露出される以外、メディアへ登場することもなくなった。中田は約10年の現役時代に100億円におよぶ収入を得たと報道された。30歳の青年は現在経済力を頼りに、次の夢を模索する旅を続けている。

年上の現役や引退した花形プレーヤー達と再会し、中田は何を思ったであろうか。引退した後もサッカーを通じて世界に存在するジダンを目にし、またサッカープレーヤーとしての恩恵を社会に還元するため世界中のスタープレーヤーを呼び寄せたフィーゴに触れ、中田は新たな夢の一端が見えただろうか。一個人を超えた存在であることを認識する彼らとの友好は彼にどんな意識を植えつけたのだろうか。

旅の意味は目的地を探すことではない。目的地を持たなければ、それは彷徨。一度定めた目的地を目指し、様々な困難を超え、喜びを感じることが旅だ。また、定めたつもりの目的が異なると知れば、あらたな目的地に向って歩みを進める。そして若さはそこに躊躇を生まない。歩きつづける、それが旅を意味あるものにする。そして人は死ぬまで旅を続ける。夢を見つづける。

2007-06-06

エーべーか

「エーベーか(欧米か)」二歳半になる三男坊の近ごろお気に入りのフレーズだ。叱りつけると睨み付けるようにこの言葉を返してくる。「それは、オマエだろうが」とこちらも返してやる。互いに意味は通じていないが何となく納得する。

朝の新幹線で仙台へ向かった。車中でチェックしたメールに友人の米国人からのものがまぎれていた。1ヵ月前から仕事のため仙台に滞在しているはず。久しぶりに顔を合わせてみるのもよいだろう。そんなことを思いながら読み進めば、「フロリダから」とある。どうやら仕事を辞めて帰国したやうだ。「自身の選択ではなかったが」と続けられていた。

「仕事はお金のため。日本が好きなんだ」と口にしていた彼。その日本を諦めるどんな理由があったというのだろう。

「仙台には温泉はあるか?」と大の温泉好きに問われ、仙台の三大温泉地を地図にして手渡した。「これは問題にはならないか?」と背中いっぱいに彫り込まれた世界地図を指差す。ならばと「怪しい者ではない。日本文化をアピールするためにも、是非温泉に浸からせてやってほしい」と宿主に手紙を認めて持たせた。1ヵ月ほど前のことだ。

五月に入ってすぐ、仙台に移動した彼にメールを送った。「牛タンは美味いか?温泉は楽しんだか?」今日のメールはそれに対する返信だった。以前は間髪をおかず返信してくれていた。音沙汰のないのは無事の証拠というが、この間如何程のことが降り掛かったというのだろうか。

「負けるが勝ち」という言葉を教えたことがある。片方の眉をぴょんと持ち上げ、大変に興味深いと頷いていた。「しかし、私はアメリカ人。私の方法でいってもいいか?」と、絡んできた酔っ払いの腕をへし折っていた。

「AKIYUという処で温泉を楽しんだ」と事の経緯には一切触れないところは、さすがに欧米か。続けてあった「プライベートな風呂だったので、あの手紙を使う必要はなかった」という一文に、露天で一人湯槽に浸かり物思いに耽る彼の姿を思い浮べ哀愁を感じるのは「ニッポン」だからか。

長町という本来彼が務めているはずの駅に降り立つと、線路の高架脇の広大な敷地のなかに、ビッグハットと呼ばれるシルクドソレイユの巨大なテントが少し萎んだようにたたずんでいた。

2007-06-03

ブルース、俺も男だ

「パパ、鍵がかかっているよ」と、妻が二階で声を荒立てる。この家の一部屋だけ鍵のついた私の仕事部屋兼物置が、内側からロックされている。昼食を終え二階のもう一部屋で昼寝の体勢に入りかけた子供たちを睨み付けると、上の子から順番に「僕じゃないよ」と三度繰り返される(三番目はそれらしき音声という意味だが)。夫婦が顔を見合わせ互いが声に出さずに「誰に似たんだか」と呟く。

大家さんに連絡を入れるも、「あの部屋に鍵?記憶にないな」という返答。「探してみます」という言葉に期待を託してはみたが、携えてきた鍵の数々はどれも問題を解決してはくれなかった。「蝶番を外してみたら」と妻。ものは試しでさっそく取りかかるも、蝶番のピンは外せてもドアの厚みがそれ以上の進展を阻む。出張のサービスに頼むしかないかと半ば諦めかけたとき、大家さんは背の低い脚立を壁に立てかけていた。開け放たれた二階の窓までは、せいぜい4メートル程度の高さしかない。しかし脚立の端まで登ったとしても、ようやく腕を延ばして5センチほどの窓の縁にぶら下がるのがやっと。すっかり髪の毛を失ってしまったとはいえ、ブルース・ウィリスなら躊躇無く脚立を駆け登っていくだろう。未だ隆々とした上腕二頭筋が彼の身体を難なく持ちあげ、事も無げに窓からの進入を果たすことができるはずだ。

「私が行こうか?」と横で妻。「馬鹿なことを言うんじゃない」と脚立にしがみつき段を登り始めた。「押さえておいてくれ」とやや上ずり気味の声で後方支援を要請する。三段目で脚立が僅かに傾く。「お、押さえてくれって!」と声がひっくり返る。なんとか上まで辿り着いたが、ほぼ垂直に近い脚立の最上段に立ち上がることはできなかった。「やっぱり、コ、ワ、イ」

「台か何かで嵩上げすれば何とかなるかも」と大家さんの表情がパッと明らむ。言い終えると間もなく、風呂場の桟のようなものを携えていそいそとやってきた。「机か椅子は・・」との言葉に黙って頷き従っていた。食卓の椅子を二脚向かい合わせに並べ、桟を渡して土台をつくる。脚立の最上段に立ち上がることができるように、壁から充分な距離を取り傾きを大きくした。覚悟を決めて脚立を掴み、一段目に足をかけるとぐらりと傾いた。振り向いて声を出そうとした寸前、「大丈夫、押さえているから」と間髪を入れず妻が発する。下を見るなと自分に言い聞かせ、目指す二階の窓目掛けて兎に角腕を延ばし段を登る。

最上段まで辿り着いたが僅かに高さが足りず、数十センチは身体を持ちあげなければ窓から中に入り込むことはできない。しかし、躊躇したところで後戻りはできない。四つの目が俺の一挙手一投足を見つめているのだ。ここが男の尊厳を維持できるかどうか、天下分け目の天王山だ。足裏で梯子の段の感触を確かめながら、無用な力みを抑えるために一つ大きく息を吸い込んだ。そして次の瞬間、大臀筋、内転筋、大腿二頭筋、腹筋、脊柱起立筋、それに下腿三頭筋に神経を集中させ、不安定な脚立の段を蹴った。僅かに余分なパワーが脚立を傾け、俺の身体は斜めに数十センチ持ち上がった。目指す窓枠は目論んだとおりの位置には近づかず、左方に過ぎ去ろうとしている。咄嗟に延ばした左手がそれ以上遠ざかるのをなんとか食い止めたが、俺は片腕一本で二階の窓から宙づりになった。「キャーッ!」妻の甲高い叫び声が耳に届く。「落ち着くんだ」五十も近いとはいえ、ヤツと違って髪の毛だってフサフサだ。こんなところでへこたれているわけにはいかない。俺はあらん限りの力を込めて、左腕の筋肉を収縮させる。少しづつ身体が持ち上がり、もう少しで右手を枠にかけることができそうだ。そう思ったとき、ズルッと音がしてトタンで覆われた窓枠が傾いだ。俺の身体はバランスを失い、くの字に曲げられていた左腕が真っ直ぐに延びきった。「キャーッ!」再び妻の声が耳に届く。上腕二頭筋に乳酸が蓄積されるのが感じられる。「来るなら来い!」と自虐的な笑みを浮かべ、再び腕の筋肉の収縮を試みる。その間も身体は右に左に揺れ続け、これから待ち構える困難な状況への想像を刺激した。楽しかった日々の記憶が脳裏を過ぎ去っていく。しくじるわけにはいかないが、仮にそうなった場合は当面の生活には困らない充分な保険金も支払われるはずだ。しかし、そんなことより最後の力を振り絞ることに全神経を集中させよう。それが俺がこの世に生を受けた証のはずだ。立つんだ!身体の揺れを空いた右腕でおさえながら、左腕だけで俺は再び上昇し始めた。窓枠が鼻先まで近づき、網戸を引き開けた。もう直だ。もうじき我が家に安寧が戻ってくる。男の責務を果たすことができる。子供たちの笑顔、妻の安堵の表情、大家さんの尊敬の眼差しが、平穏な生活の訪れを告げることになる。両手でしっかりと窓枠を握りしめ、ぐいと身体を持ちあげた。上半身が窓の内側に折れ曲がり、片足を滑り込ませて俺は室内に着地した。施錠されていたドアを開けると、不安顔だった三人の顔に笑みが戻り、「パパァー」と抱きついてきた。階下では目を潤ませた妻が尊敬の眼差しで俺を見上げている。

大家さんへ礼を告げるため玄関へ戻ると、脚立をたたみながら彼はこう言った。「やってみると意外に簡単でしたな」「まあ、私にとってはこの程度のこと」屋根々々の間から僅かに見上げる都会の空が、今日はやけに清々しい青だった。

2007-06-01

寺山修司の「幸福論」に一瞬だけ思う藤原紀香の結婚

藤原紀香は、オリジナルの体型に戻されたバービー人形である。戦後アメリカが日本の少女たちのために持ち込んだオリジナルな体型のバービー人形は、不評だった。何故なら、人形の体つきが当時彼女たちの周囲を取り囲む日本人の女性のそれとはあまりにかけ離れたものだったからだ。バービー人形は、胸とお尻を縮小化することによって日本の少女たちに受け入れられた、という話が伝わっている。今、藤原紀香によってバービー人形はオリジナルの体型を取り戻すことができた。

先日テレビでライブ中継された披露宴での彼女は、これまで見慣れた藤原紀香となんら変わらぬ藤原紀香のように見えた。時折年齢なりの表情を見せてはいたが、あどけない顔の作りも、それとはアンバランスな日本人離れした体躯も、これまで何年にも渡りテレビに映し出されてきたもの以外ではなかった。一般人にとって結婚披露宴は、一世一代の晴れの舞台(のひとつ)である。おそらく私人藤原紀香にとってもそうであったに違いない。我々がテレビのスクリーンを通して眺めていた公人藤原紀香は、いつもと変わらぬ彼女であった。雛壇に添えられたオリジナルの体型のバービー人形であった。ただ、視聴者のほうがその姿にのぼりつめた幸福を感じようと必死になった。

彼女の婚約が報道された時、保育園の保母さんたちほぼ全員が、「紀香にはお姫様でいて欲しかった」と口にし、婚約相手の陣内は役不足であるとした。紀香は本来さらなる高みを望むに値すると。オリジナルの体型を手にしたバービー人形藤原紀香は、「お姫様」であったのだ。かつて舶来の人形としてしか存在しえなかった「お姫様」が、自分たちと同じ国土の何処からか、訛りのある言葉を話す一般人の娘として生まれ出てくる時代になったのだ。「お姫様」にしか与えられなかった最高の幸福が、ひょっとしたら自分にもやってくるかもしれない。だから、「紀香にはお姫様で居て欲しかった」、居てもらわなければならなかった。

寺山修司の「幸福論」という本を知人が差し出して、「読め」という。実に興味深い内容だ。とはいえ、寺山修司を理解するには彼に対する「慣れ」が必要だ。四苦八苦しながら、楽しむというか脳に汗をかく。小林秀雄の場合とは別の汗をかく。

「冗談(4)自立神経失調症に患った石堂淑朗*が医者に診察を受けに行ったら、医者が言ったことば。
『当分のあいだ、オナニーを止めて下さい。オナニーは、想像力をかきたてて神経障害に悪い影響をおよぼすでしょうから』
そこで石堂淑朗が、『夫婦生活は構わないのですか?』と訊くと『奥さんが美人ならば構いません。しかし、不美人ならばお止しになった方がよろしいでしょう』
『何故ですか?』と石堂がまた訊くと『奥さんが不美人ならば、映画女優か何かを想像しながらすることになる。その想像力が自立神経にひびくのです』
──自立神経失調症とは、いわば幸福になるための道具の故障というところか」<引用:幸福論>
*脚本家、評論家。大島渚、吉田喜重、篠田正浩、田村孟らと共に“松竹ヌーヴェルヴァーグ”と言われた60年代初頭の映画革新運動の中心的役割を果たした。<出典:wikipedia>

「想像力も、交換可能の魂のキャッチボールになり得たときには、「幸福論」の約束事になり得るのである。」<引用:幸福論>

自立神経失調症を患っていない人にとっては、陣内とは別人の、誰かもっと魅力的な男性に覆い被されている藤原紀香になっていく自分を想像するとき、「幸福」というものの中に居ることができるのだと寺山は説く。藤原紀香本人が、それを思って陣内をパートナーに選んだかどうかはわからないが、少なくとも我々男性は、自身をキムタク(古いか?)と思いこむことなくとも、藤原紀香に覆い被さることは可能だ。そして、目を開けて眼前にスッピンで喘ぐ相手の表情に「幸福」を感じることができない場合でも、再び目を閉じて神経を刺激してやれば、姫でも王子でも、理想とする「幸福」というものの中に一瞬間身を置くことができるのだと。

「幸福」は「故郷」のように遠くにありて想うものであると。