2011-04-08

オヤジの復活

オヤジというものの評価のし直しが必要だと感じている。東北大震災による被害が、膨大な犠牲者被災者のみならずあらゆる分野で日本全土全国民に及び始めてきた。加えて東電と政府によるこの1ヶ月に及ぶ失策により、国際的にこの国が孤立するのではないかという危惧を持つに至ったからだ。何も大袈裟なことではない、今後の人生や生活や身の回りの状況に対し、一個人として漠然とした不安を持っているというまでのことだ。それは、おそらく大多数の市井の人々が持つ不安と同様だ。だから、その不安解消のためには、愛憎ごっちゃの感情の矛先であった「オヤジ」なる存在が必要だと考えるのだ。

結論を記せば、この社会には腹を括る気のあるリーダーが必要だということだ。なんだ、そんなことかと思うだろうが、そんなことだ。信頼のおける国のリーダーが長いこと不在だったことは国際的にも周知の事実。しかし、東電をはじめとするこの国有数の大企業においても、巨大な影響力を行使するに相応しい人物がリーダーの座にあったとは言い難い。数年前にもトヨタの新社長に就任したばかりの創業者の孫が、アメリカ人のいちゃもんにも似た突き上げに涙を流す映像が配信された。同情はかったかもしれないが、従業員や関連企業は「この人で大丈夫なのか」と思ったに違いない。そうかと思えば、後継者を探しあぐねたソニーはアメリカ人を社長に据え、既に月日の経過した話ではあるがニッサンは経営そのものの仕方をフランス人に託してしまった。「本当にオレ達のこと考えてくれているのか」と思う従業員や関連会社は少なくないだろう。持論を公表した自衛隊の司令官は有無を言わさずクビにされた。「田母神さんの意見は議論した方がよいのではないか」と感じているのは自衛官ばかりではないはずだ。最近では県知事の椅子は県民のためより国政に近づくための踏み石として利用されるようになった。「ワールドカップは世界市場へ自分を高く売り込むためのステップ」と同じになってしまったというのか。そして、見渡した先に頼れるオヤジが果たしているのか。

民主主義社会と、親分(オヤジ)の存在しない社会は同意義ではない。民主主義社会とは自らの手で親分を育て担ぎ上げる社会だと思っている。自分の親分だから大事に育てたいし、自分達で担いだのだからそれには責任を持つというのが正しいありかたである。もっといえば、自分達に最も恩恵をもたらす親分であればそれでよい。農業の占める割合の多い県では、百姓の生活や価値観を理解しそれに向けた施策を講じてくれる知事をもてばよろしいし、それによって工業や商業が他と見劣りしても甘んじるべきである。クルマを作る会社であれば、クルマそのものの社会的価値を理解した人間が陣頭指揮を執るべきであるし、原発を運営する会社であればマスコミや政治家の接待上手な経営者よりも、原子炉の構造や放射性物質の影響に詳しい者を社長として持つべきである。各省庁の官僚もしかり、自衛隊もしかりである。つまり、それぞれの社会や企業や組織が、本来為すべき事の上においてそれぞれのオヤジを持つべきなのだ。当然それらオヤジ達の上には、爺様がいる。爺様が頷くことで、オヤジ達は納得しなければならない。何故なら、その爺様は偶々生き残ったから在るのではなく、今この時代に生き残っていて欲しいから命を永らえているからだ。そしてこの爺様はわれわれの中にも生きている(はずだ)。オヤジ達は互いに侃々諤々を経た後、爺様の前に跪く。

かつてのこの国がそうであったように、すべての分野で奇跡のような成長を遂げていた時期には、政治経済界はおろか文化面においてまでも、後のあらゆる可能性に対応すべく「ジェネラリスト」養成に躍起になったことは正解であったに違いない。私自身も当時はそう信じていたのであり、目指そうとしていた。可能性は無限に思えたのだから、わざわざオヤジになどなりたくはなかったし格好の良いお兄さんでいたかった。そのほうが、人生も社会も楽しく幸福に思えた。しかし、その可能性は既に二十年も前に萎んでしまったのであり、当時持て囃されたジェネラリスト達はなんら具体的な打開策を打ち出すことができずにいつのまにか新手のスペシャリスト達の手によって隅へ追いやられてしまったように見える。しかし、今度は「グローバリゼイション」なるインチキ臭い米国への利益誘導型ムーブメントの台頭により「マネージメント」だけに精通した(つまり既得権益者や株主の顔色を窺うことに長けた連中)が多くの組織を牛耳る社会になってしまった。既に強大な実行力を持っている官僚達が、たいした株(実力)も持っていないのに大きな顔をする民主党政権に従わないのは至極当然の現象である。賢い彼らは国民から直接的な評価を得る場には姿を現さないように努めながら密かに復活の日を夢見ていたに違いない。なぜなら、彼らもまたインチキ臭い新手のスペシャリスト世界推進の片棒を担いでいたからだ。現在、われわれの中に爺様は存在しているか?

そしてこの震災と原発事故である。官僚組織は脈々と受け継がれる人的な資産を有している。良きオヤジが方々に在った時代の人間達だ。勿論現役の人的資産も数多有しているだろうが、かつて輝きを放った日本の成長を支えたオヤジ達の才覚を再活用する時がきたのである。ところが災いに遭遇した菅さんは、俺こそが親分であり今こそがそれを証明すべき時であると、使い慣れぬ脳みそと権力を謂わば悪用し始め、自分にとっての福に転じようとしている。この1ヶ月余りの失策と言おうか無策と言おうか、アメリカから強要されてようやく窒素を入れるなどという様をみていると益々そう思わざるを得ない。こんなときこそ「餅は餅屋だから各省庁のエリートさん方よろしくお願いします」と発すれば、事は速やかだったはずだ。経産省からは元佐賀大学学長の上村春男氏への打診がいったであろうし、外務省では米国やフランスに対する原発技術や人的な要請ができたはずだし、防衛省は当然米軍とタッグを組んだであろう。農水省がガイガーカウンターを揃えた可能性もあったであろうし、文科省は被災地の子供対策、厚労相は当然のように国境なき医師団と手を結んだはずである。首相はその権限を与え承認すればよかったのだし、更には非常事態宣言のもと福島原発をさっさと国の預かりとしてしまえばよかったのだ。「待った!をかけられているから手が下せない」阪神淡路大震災で批判を受けた一県知事と同様の非難を、国家の最終責任者が浴びせられているありさまだ。

そんなオヤジをわれわれ国民は担いでしまった。間接的であるなどと言い訳をすることは許されない。今、われわれは猛烈に反省しなければならない。私は猛烈に反省している。その片棒を担いでしまった事に対しては勿論、気づいていながらもその後個人としてできることをしてこなかった事実に対してである。悔しいが未曾有の国難ともいえる大惨事に際しようやく本気で認識するに至った。私の世代は、正しいオヤジを選択する目を持ち監視し続け、いざとなればそのオヤジと喧嘩してでも間違いを正すことにできる若い世代を育てなかった。嘘くさい幸福や美しさや洗練や屁理屈やちょいワルさなどに現をぬかし、若い世代と向き合う事をしてこなかった。おまけに、正しい情報がないと右往左往するばかりで、自らの目や耳を鍛え直すことを怠っている。三無主義などと揶揄された世代が私などより少し上にはあったが、こうして年を嵩ねれば実生活で無関心など装える事はないし、無気力で生き続けることはできない。社会に対する責任が小さいとも思わない。だが実際は、「底」といわれながらも豊かな経済状況や平穏な生活に、最も重要な爺様の姿を見失っていた。爺様が在るのだという事を若い世代に伝えて来なかった。

幸いにしてこの国は民主主義の様を呈している。沢山の我が儘オヤジが出現しても、担いでる者たちが間違いのない目を持っていれば暴走や狂走を制することができる。沢山の中には、いや沢山いればこそ冷静さを失わずにいるオヤジも必ず出現する。殊更現在は国際的にもオヤジの力量を発揮せざるを得ない。オヤジと慕ってくれる連中のために、国の内外を問わず侃々諤々やってくれるオヤジが必要だ。もう、空気を読んだり顔色を窺ったりするオヤジは必要ない。ましてや順番で回ってくるオヤジなど誰も従わない。一方、トモダチである米国は若いオバマを自分達のオヤジとして選出した。若さは厳しい現実を乗り切る上で重要なファクターかもしれない。しかし、その若いオバマでさえ就任演説の冒頭では、「先祖が支払った犠牲」、「先祖の理想」という言葉を用い、そしてこれまでアメリカ人は先祖の理想に忠実に、「ずっとやってきた。この世代のアメリカ人も同様にしなければならない」と語った。見習うべきオヤジ達がアメリカには存在したのだと語ったのだ。そしてそれらがアメリカ人一人ひとりの爺様だと語ったのだ。

われわれ日本国民には、国家の最終責任者を直接選出する術がない。しかし、そこへ至る過程に関与する術は持っている。間近に迫った都知事選は、われわれ都民にとって意志を反映させる絶好の機会であるし、また東北を除いて実施されている他の知事選や自治体の選挙も同様だ。公職選挙に限らず、様々な組織の理事や代表者の選出、果ては企業の経営者の選出にしても限界はあるにしてもそこに属する者達の意志反映を働きかけることが無駄になることはないはずだ。原発に関する政府発表に近い言い方になるが、この国においてリビやや周辺の国々のように暴動や革命といったかたちで国民の行動が爆発することにはならない。しかし、われわれ国民の不満や不安、そしてこの国の未来への恐れが臨界点に近づいていることは間違いないだろう。上杉隆のように「海洋汚染テロ国家に成り下がった」とは言わないまでも、この国から発信されるあらゆる者や人に厳しい視線が向けられることは必須だ。爆発もせず斜に構えることもせずどうすべきなのか。素直に襟を正さなければならない。臍に塩をしなければならない。一人一人が爺様の声に耳を傾け、自ら考え判断し、胸を張るオヤジにならなければならない。まずは、自分と自分の周りに対しオヤジで在らなければならない。

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