また近しい人間が死んだ。病気を患い高齢でもあったので、死そのものに悲しみを感じることはなかった。死が特別なものであるとは考えない。死は、耐用年数を終えた、もしくは障害を負った肉体が不全な状態を経過したのちに機能停止するという至極自然な現象であると考えることにしている。
死に対する客観的な捉え方に比較すれば、私の場合、生の不可思議さに対する興奮と興味はどうしようもなく、ひたすら感情的に奇跡などと口走りがちである。生命はどのようにしてできあがるのか。謎であり故に奇跡である。故に最も貴重である。
生命を構成するに必要な物質は解明されている。しかし、それを集めただけでは決して生命は誕生しない。物質が生命たるには、非常にシビアな条件に加え何らかの「力」を必要とする。稲妻が走って奇妙な機械が光を放っても、フランケンシュタインの怪物に命が宿ることはない。稲妻のパワーはおそろしく強力であろうと考えるが、その程度では電気回路をショートさせることはできても、一度死んだ脳を蘇らせることはできないし、生きた細胞からクローンを作ることもできない。
命を扱う科学は、予め命を宿した細胞や臓器を扱うのが常識である。クローンも臓器や皮膚の移植も生きたものしか使えない。言い方を換えれば、命を宿したものであれば、稲妻パワーなどを使用しなくとも新たな命や命にとって必要な機能を再生することができる。どんなパワーが宿っているのだ。
命は多くの場合、男(雄)と女(雌)がそれぞれ一個づつの細胞を提供し、互いがくっついて一つのものとなった時に生まれる。興味深いのは、ES細胞を使えば身体のどの細胞も作れるといいながら、そこから新たな個体が自然に形作られることはないのに、卵子と精子がくっつけば、基本的にはたった一個の細胞から全ての細胞が生み出され完全に自立した個体を作る。たとえ新たな生命を生み出すに至らなくても細胞そのものには既に命が宿っている。本当に不思議だ。やはり奇跡だ。
DNAが遺伝子が、・・・。そんなことを口走る輩も居るだろうが、ではいったいそれらは何だ。遺伝子であれば干からびたものでも使用可能なのか?DNAは螺旋構造であれば、自己複製できなくても役に立つのか?それらは、それらで生きている状態の時のみ意味がある。DNAや遺伝子そのものにもやはり命が宿っていることになる。(理論的には、琥珀に閉じこめられた蚊から、その蚊が吸った恐竜の血に含まれた遺伝子を取り出して、爬虫類の卵に移植すると恐竜の遺伝子をもった爬虫類が生まれる可能性があるらしいが、映画ジュラシックパーク以外には未だ実現はしていない。ロサンジェルスには、死亡した人間を急速冷凍保存 -- 急速冷凍でないと意味がないらしい -- して、後の進んだ時代がやって来た時に蘇生させる会社があるが、いまだ進んだ時代はやってきていない)
精子と卵子が受精して、できちゃったものといえども、本当に最後まで育つとは限らない。私自身は経験できないが、そんなことも経験した。何がそうさせるのか?おそらく健全な成長に必要な条件が整わなかったからだ。飲酒もナシ喫煙もナシ、ストレスはそれなりにあったと思うが、精神科を要する程ではなかった。何故なんだ?
命は、実は非常に脆く繊細なものなんだ。生きているから、それに気が付かないだけなんだ。命が周りにたくさん溢れているから、特別な気がしないだけなんだ。
命は特別だ。何よりも特別だ。特別なものだから重要だ。重要だから大切に扱わなければならない。大切に扱うためには、その大切さを知らなければならない。そしてそれは簡単なことだ。命には記憶が伴う。ある命があれば、必ずその命に纏わる記憶がある。別の命が与えてくれた記憶は特別の意味を持つ。誰かの記憶とは、実は自分が生きた証なんだ。それを考えさえすれば、命には摩訶不思議な特別なパワーが宿っているのだということを誰でも理解し得るはずだ。
一方、死を嘆くことは当然のことだ。死には痛みや感情が伴い、多くの場合それらの苦しみを払いのけるには長い月日と努力が必要だ。しかし、もっと大切なのはその命が生前に与えてくれた貴重な記憶をどう心の中に生かすかだ。だって、記憶を持つということは今自分の命が生きているということだから。そのことに気付いて、感謝することができたりしたら、命の特別さは人の中で完璧になる。
命身短し恋せよ乙女。映画「生きる」の冒頭シーンで志村喬が公園のブランコで歌っていたシーンが印象的だった。どう死ぬかを考えるということは、どう生きるかを考えることなんだ。まず生きることを考えるんだ。
命短し恋せよ乙女。
1 件のコメント:
新たな命の誕生は、精子と卵子が出会えば起こり得る当然の現象だと思っていたけれど、最近になってそれは、ずっとずっと複雑で稀なことだと思うようになりました。
自分が生を受けた奇跡、周りの人たちと出会った奇跡、と口にしてしまえばその辺にころがっている歌の歌詞にでもなってしまいそうですが、以前よりもこのことを身を持って実感することが多くなったなぁ・・・
”死を考えることは生を考えること”
この言葉がずどーんと心に落ちました。
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