シドニー・ポラックは、映画に関心のある人なら知らなければならない映画人の一人だ。※印で「ある年代以上の」と加えてもいい。とにかく、百数十年しかない映画の歴史の第一線に四十年以上も関わった人だ。
今年日本で公開されたジョージ・クルーニー主演のフィクサーでは、製作に携わった以外に出演もしており渋い演技をこなしていた。役者さんとしてもいい味があった。ジョージ・クルーニーの内股歩きに落胆したせいではないだろうが、個人的には映画そのものに好感はもてなかったな。正直ポラックが関わる映画は、ここ何年もそんな感想を持つ作品が多かった。
少年時代は、68年の「俺たちに明日はない」から「ゴッド・ファーザー」までの数年間に製作された「アメリカン・ニュー・シネマ」に分類される作品の数々に魅せられていた。公開から数年後に、二本、三本立てで再上映されたものを見ていた。3、400円で一日中映画館に籠もっていた。※「アメリカン・ニュー・シネマ」というのは日本人が勝手に命名、分類しているだけだけどね。
その二、三本立ての一本にポラックが監督した「追憶」があったわけで、当時トップスターだったイケメン代表ロバート・レッドフォードと醜子代表のバーバラ・ストライサンドがタッグを組んで作り上げた大人の恋愛世界なんかにいたく感動したものだった。
ポラックは、「泳ぐ人」というバート・ランカスターというこれまた渋いオジサンが、他人の家のプールを泳ぎ継いで自宅へ帰るという天晴れな企画の映画を監督し(1968年)、前述の「アメリカン・ニュー・シネマ」を語る上で欠かせない作品を残した監督として位置づけられている。
「泳ぐ人」の翌年にも、テレビでしか観たことはないが、「ひとりぼっちの青春」(1968)というマイケル・サザランとジェーン・フォンダがダンスマラソンで賞金を稼ごうとするカップルの物語を監督しており、反社会的な作品を作るホープの一人と目されていたことは間違いない。個人的には、こんな物語に共感して映画にのめって入った気がする。グイと刺さる作品を作ってくれていたんだ。
余談だが、このあたりのジェーンフォンダは、ヴォーグのモデルをやっていたかと思えば、「バーバレラ」というふざけた作品(個人的には大好き)にマーロン・ブランドと競演したり(1967)、翌々年「コールガール」という問題作に出たりして、今で言えば土屋アンナみたいにイケイケだった。コールガールでオスカー女優になったかと思えば、ベトナム反戦運動が困じてニクソン大統領のブラックリストに載ったりもしている。
そして、ポラック自身がハリウッド的に成熟し、社会の捩れもまた複雑化していくと、最強だったロバート・レッドフォードとのコンビもいまひとつ、新たな挑戦であったろうアメリカン・ニュー・シネマ時代のヒーローの一人アル・パチーノとのコラボもいまさん程度で時代から取り残されたような印象を受け、やはりアメリカン・ニュー・シネマ時代のヒーローの一人、ダスティン・ホフマンとのコンビで挑戦した「トッツィー」で、再びドル箱監督に復帰した。これは、ポラック自身の状況に留まらずダスティン・ホフマンも同様に先が見えなくなっていた時期だった。野球で言えば野村マジックのような感じに、私には見えた。だから、というわけではないのだが、いややっぱりそのせいか、全くつまらない映画に思えた。二人とも終わったなという気がしていた。
しかし、先に亡くなったロバート・ワイズ監督同様、ただ者じゃないんだな、こういう人たちは。
製作に廻ったポラックは、以降気の利いた作品を生み出していくんだ。権威が示す評価は別にして個人的には、ミシェル・ファイファーが凄く魅力的だった「恋のゆくえ」、ミスキャストが功を奏した感じの「推定無罪」、きっとポラックもこの作品に関わりたくて仕方がなかったゼメキス監督の「永遠(とわ)に美しく」、少年トム・クルーズを役の上で脱皮させた「法律事務所」、一生その名を覚えることはないだろうグウィネス・パルトロー主演の「スライディングドアー」などを生み出していった。流石だよ。やっぱり映画人なんだ。映画のために生きているから、簡単に諦めたりしないんだよ。
それでだ。2003年、売れっ子三人を配して製作した「コールドマウンテン」。いい映画だと思ったさ。しかし、しかしだ、これをポラックが作るのか?という思いもあったよ。ワイズの場合、彼は最後まで同じ魂を持っていたと作品で感じさせてくれた。偉いなあ、凄いなあと、純粋に。ポラックは「コールドマウンテン」でなければいけなかったのか。其処へ行きたかったのかと。
DVDの背ラベルを目に手を延ばしては止めてしまう「こわれゆく世界の中で」。「フィクサー」は飛行機で見た。途中で居眠りもしてしまった。もちろんポラックは既にメガホンを置いた人だ。監督に大きな責任がある。辛いな。
いい時は崇めておいて、気に入らなくなればこき下ろす。俺も勝手だなあ。
表現する人にはそれを受ける覚悟が要るし、ポラックにはあったからここまでやってきた。生涯忘れ去られることなく、仕事をする度に誰かの口に上る資格があった人、そんな仕事を残してきた人。
そして今日の訃報。人生に多くの記憶を作ってくれた人。冥福を祈りたい。
■ポラックが関わった作品の一部■
泳ぐ人 1968監督
ひとりぼっちの青春 1969監督
追憶 1973監督(主演ロバート・レッドフォード)
ザ・ヤクザ 1974監督/製作(ロバート・ミッチャム、高倉健)
コンドル 1975監督(主演ロバート・レッドフォード)
ボビー・デアフィールド 1977監督(主演アル・パチーノ)
トッツィー 1982監督(主演ダスティン・ホフマン)
愛と哀しみの果て 1985監督/製作(メリル・ストリープ、ロバート・レッドフォード 7部門でオスカー獲得)
恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ 1989制作総指揮
(主演ボー&ジェフ・ブリジス兄弟、ミシェル・ファイファー)
推定無罪 1990年製作(主演ハリソン・フォード)
永遠(とわ)に美しく 1992出演(監督ロバート・ゼメキス)
ザ・ファーム/法律事務所 1993監督/製作(主演トム・クルーズ)
スライディングドア 1997製作(主演グウィネス・パルトロー)(セブン1995)で注目され
コールドマウンテン 2003製作(主演ジュード・ロウ、ニコール・キッドマン、レニー・ゼルウィガーその他豪華共演者)
こわれゆく世界の中で 2006製作(主演ジュード・ロウ、ジュリエット・ビノシュ)
フィクサー 2008製作・出演(主演ジョージ・クルーニー)
2008-05-12
命短し恋せよ乙女
また近しい人間が死んだ。病気を患い高齢でもあったので、死そのものに悲しみを感じることはなかった。死が特別なものであるとは考えない。死は、耐用年数を終えた、もしくは障害を負った肉体が不全な状態を経過したのちに機能停止するという至極自然な現象であると考えることにしている。
死に対する客観的な捉え方に比較すれば、私の場合、生の不可思議さに対する興奮と興味はどうしようもなく、ひたすら感情的に奇跡などと口走りがちである。生命はどのようにしてできあがるのか。謎であり故に奇跡である。故に最も貴重である。
生命を構成するに必要な物質は解明されている。しかし、それを集めただけでは決して生命は誕生しない。物質が生命たるには、非常にシビアな条件に加え何らかの「力」を必要とする。稲妻が走って奇妙な機械が光を放っても、フランケンシュタインの怪物に命が宿ることはない。稲妻のパワーはおそろしく強力であろうと考えるが、その程度では電気回路をショートさせることはできても、一度死んだ脳を蘇らせることはできないし、生きた細胞からクローンを作ることもできない。
命を扱う科学は、予め命を宿した細胞や臓器を扱うのが常識である。クローンも臓器や皮膚の移植も生きたものしか使えない。言い方を換えれば、命を宿したものであれば、稲妻パワーなどを使用しなくとも新たな命や命にとって必要な機能を再生することができる。どんなパワーが宿っているのだ。
命は多くの場合、男(雄)と女(雌)がそれぞれ一個づつの細胞を提供し、互いがくっついて一つのものとなった時に生まれる。興味深いのは、ES細胞を使えば身体のどの細胞も作れるといいながら、そこから新たな個体が自然に形作られることはないのに、卵子と精子がくっつけば、基本的にはたった一個の細胞から全ての細胞が生み出され完全に自立した個体を作る。たとえ新たな生命を生み出すに至らなくても細胞そのものには既に命が宿っている。本当に不思議だ。やはり奇跡だ。
DNAが遺伝子が、・・・。そんなことを口走る輩も居るだろうが、ではいったいそれらは何だ。遺伝子であれば干からびたものでも使用可能なのか?DNAは螺旋構造であれば、自己複製できなくても役に立つのか?それらは、それらで生きている状態の時のみ意味がある。DNAや遺伝子そのものにもやはり命が宿っていることになる。(理論的には、琥珀に閉じこめられた蚊から、その蚊が吸った恐竜の血に含まれた遺伝子を取り出して、爬虫類の卵に移植すると恐竜の遺伝子をもった爬虫類が生まれる可能性があるらしいが、映画ジュラシックパーク以外には未だ実現はしていない。ロサンジェルスには、死亡した人間を急速冷凍保存 -- 急速冷凍でないと意味がないらしい -- して、後の進んだ時代がやって来た時に蘇生させる会社があるが、いまだ進んだ時代はやってきていない)
精子と卵子が受精して、できちゃったものといえども、本当に最後まで育つとは限らない。私自身は経験できないが、そんなことも経験した。何がそうさせるのか?おそらく健全な成長に必要な条件が整わなかったからだ。飲酒もナシ喫煙もナシ、ストレスはそれなりにあったと思うが、精神科を要する程ではなかった。何故なんだ?
命は、実は非常に脆く繊細なものなんだ。生きているから、それに気が付かないだけなんだ。命が周りにたくさん溢れているから、特別な気がしないだけなんだ。
命は特別だ。何よりも特別だ。特別なものだから重要だ。重要だから大切に扱わなければならない。大切に扱うためには、その大切さを知らなければならない。そしてそれは簡単なことだ。命には記憶が伴う。ある命があれば、必ずその命に纏わる記憶がある。別の命が与えてくれた記憶は特別の意味を持つ。誰かの記憶とは、実は自分が生きた証なんだ。それを考えさえすれば、命には摩訶不思議な特別なパワーが宿っているのだということを誰でも理解し得るはずだ。
一方、死を嘆くことは当然のことだ。死には痛みや感情が伴い、多くの場合それらの苦しみを払いのけるには長い月日と努力が必要だ。しかし、もっと大切なのはその命が生前に与えてくれた貴重な記憶をどう心の中に生かすかだ。だって、記憶を持つということは今自分の命が生きているということだから。そのことに気付いて、感謝することができたりしたら、命の特別さは人の中で完璧になる。
命身短し恋せよ乙女。映画「生きる」の冒頭シーンで志村喬が公園のブランコで歌っていたシーンが印象的だった。どう死ぬかを考えるということは、どう生きるかを考えることなんだ。まず生きることを考えるんだ。
命短し恋せよ乙女。
死に対する客観的な捉え方に比較すれば、私の場合、生の不可思議さに対する興奮と興味はどうしようもなく、ひたすら感情的に奇跡などと口走りがちである。生命はどのようにしてできあがるのか。謎であり故に奇跡である。故に最も貴重である。
生命を構成するに必要な物質は解明されている。しかし、それを集めただけでは決して生命は誕生しない。物質が生命たるには、非常にシビアな条件に加え何らかの「力」を必要とする。稲妻が走って奇妙な機械が光を放っても、フランケンシュタインの怪物に命が宿ることはない。稲妻のパワーはおそろしく強力であろうと考えるが、その程度では電気回路をショートさせることはできても、一度死んだ脳を蘇らせることはできないし、生きた細胞からクローンを作ることもできない。
命を扱う科学は、予め命を宿した細胞や臓器を扱うのが常識である。クローンも臓器や皮膚の移植も生きたものしか使えない。言い方を換えれば、命を宿したものであれば、稲妻パワーなどを使用しなくとも新たな命や命にとって必要な機能を再生することができる。どんなパワーが宿っているのだ。
命は多くの場合、男(雄)と女(雌)がそれぞれ一個づつの細胞を提供し、互いがくっついて一つのものとなった時に生まれる。興味深いのは、ES細胞を使えば身体のどの細胞も作れるといいながら、そこから新たな個体が自然に形作られることはないのに、卵子と精子がくっつけば、基本的にはたった一個の細胞から全ての細胞が生み出され完全に自立した個体を作る。たとえ新たな生命を生み出すに至らなくても細胞そのものには既に命が宿っている。本当に不思議だ。やはり奇跡だ。
DNAが遺伝子が、・・・。そんなことを口走る輩も居るだろうが、ではいったいそれらは何だ。遺伝子であれば干からびたものでも使用可能なのか?DNAは螺旋構造であれば、自己複製できなくても役に立つのか?それらは、それらで生きている状態の時のみ意味がある。DNAや遺伝子そのものにもやはり命が宿っていることになる。(理論的には、琥珀に閉じこめられた蚊から、その蚊が吸った恐竜の血に含まれた遺伝子を取り出して、爬虫類の卵に移植すると恐竜の遺伝子をもった爬虫類が生まれる可能性があるらしいが、映画ジュラシックパーク以外には未だ実現はしていない。ロサンジェルスには、死亡した人間を急速冷凍保存 -- 急速冷凍でないと意味がないらしい -- して、後の進んだ時代がやって来た時に蘇生させる会社があるが、いまだ進んだ時代はやってきていない)
精子と卵子が受精して、できちゃったものといえども、本当に最後まで育つとは限らない。私自身は経験できないが、そんなことも経験した。何がそうさせるのか?おそらく健全な成長に必要な条件が整わなかったからだ。飲酒もナシ喫煙もナシ、ストレスはそれなりにあったと思うが、精神科を要する程ではなかった。何故なんだ?
命は、実は非常に脆く繊細なものなんだ。生きているから、それに気が付かないだけなんだ。命が周りにたくさん溢れているから、特別な気がしないだけなんだ。
命は特別だ。何よりも特別だ。特別なものだから重要だ。重要だから大切に扱わなければならない。大切に扱うためには、その大切さを知らなければならない。そしてそれは簡単なことだ。命には記憶が伴う。ある命があれば、必ずその命に纏わる記憶がある。別の命が与えてくれた記憶は特別の意味を持つ。誰かの記憶とは、実は自分が生きた証なんだ。それを考えさえすれば、命には摩訶不思議な特別なパワーが宿っているのだということを誰でも理解し得るはずだ。
一方、死を嘆くことは当然のことだ。死には痛みや感情が伴い、多くの場合それらの苦しみを払いのけるには長い月日と努力が必要だ。しかし、もっと大切なのはその命が生前に与えてくれた貴重な記憶をどう心の中に生かすかだ。だって、記憶を持つということは今自分の命が生きているということだから。そのことに気付いて、感謝することができたりしたら、命の特別さは人の中で完璧になる。
命身短し恋せよ乙女。映画「生きる」の冒頭シーンで志村喬が公園のブランコで歌っていたシーンが印象的だった。どう死ぬかを考えるということは、どう生きるかを考えることなんだ。まず生きることを考えるんだ。
命短し恋せよ乙女。
2008-05-09
”告発のとき”
敬虔なプロテスタント信者の息子として育った息子であったが、彼はイラク戦争という狂気に触れ、侵され蝕まれた。そこでできた無数の心の穴を埋める事ができず、やがてその穴から滲み出る己の狂気すらも制御できなくなり、ほんの些細なきっかけで肉体を暴走させる。一瞬ではあるがそれは快感として肉体の記憶に刻まれ、その刺激に陶酔し生の苦しみを忘れるようになる。心の喪失と捩れによって自らが作り出した麻薬物質が脳内を充たし、中毒し、そして墜ちていく。
彼は殺され、父親はその理由を解明した。
いい映画だ。みんなこういう映画を見るべきだ。
なお、前段は私が勝手に読んだ行間であり、具体的な描写があるわけではないので悪しからず。
それからもうひとつ、助演のシャーリーズ・セロンはいい女だぞ。
彼は殺され、父親はその理由を解明した。
いい映画だ。みんなこういう映画を見るべきだ。
なお、前段は私が勝手に読んだ行間であり、具体的な描写があるわけではないので悪しからず。
それからもうひとつ、助演のシャーリーズ・セロンはいい女だぞ。
2008-05-08
ではある
男と女が乗り込んできて目の前に立った。文庫本に目を落としていた視界に入ってきたのはまず女の足で、彼女の右足はその位置に着いた途端に靴を脱いだ。
二人とも両手でつり革にぶら下がるほど酔ってはいるのだが、男の言葉ははっきりしており、いや語尾に力をという意志が感じられ、一方女はと言えば脱いだ靴を踏み潰して頑張った右足で体重を支え、踵が外れかかった左足の踝は異常なほどに折れ曲がり、しかも電車の揺れに合わせてクネクネ踊り続けている。
左隣の女は俯いたまま何かに怯えるように体をビクつかせ、正面に深く座り込んだ女に至っては、もう膝を閉じる事さえできない。
丸ノ内線、終電一本前のありふれた風景ではある。
二人とも両手でつり革にぶら下がるほど酔ってはいるのだが、男の言葉ははっきりしており、いや語尾に力をという意志が感じられ、一方女はと言えば脱いだ靴を踏み潰して頑張った右足で体重を支え、踵が外れかかった左足の踝は異常なほどに折れ曲がり、しかも電車の揺れに合わせてクネクネ踊り続けている。
左隣の女は俯いたまま何かに怯えるように体をビクつかせ、正面に深く座り込んだ女に至っては、もう膝を閉じる事さえできない。
丸ノ内線、終電一本前のありふれた風景ではある。
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