「最近世界経済に対する興味が強くなったのですか?」という問いを投げかけられて「ん?」と思ってしまった。思った途端に私は話を止めた。関心があるのはこの国の明日についてだ。それはいつもそうだ。こんなオヤジとため口で杯を交わしてくれている君たち若い世代のことも、未だ小学生のわが子らのことも含めて、最重要関心事はこの国で移り変わっていく日々の事柄なのだ。だって、君たちや可愛い彼奴ら(息子達)が、いずれこの国を背負うのだから。この国の民としての誇りを担うのだから。萎び始めた俺たちだって、この国の状況を少しでも良い方向へ導くためには、我々が息を継ぐことができている最も重要な環境のひとつとしての世界経済へだって関心を持たないわけにはいかないだろう。
別に日本経済の現状を憂いているのではない。真意を伝えるのことの難しさを改めて感じたのだ。同じ内容を発しても立場や世代や職業その他によって受け取られ方は異なる。当たり前のことだし全てを相手の意のままに受け取るとのできる人間などいるはずもない。「人は見たいものだけを見、聴きたいことだけに耳を傾けているのだ」とはジュリアス・シーザーの言葉だ。彼の時代でもそうだったし、実質的に世界で最も権力を有した人間にしてもそうなのだ。伝えたい事と伝えられたと感じる事には常にギャップが生じる。これはキリストもムハメッドとブッダも同様に感じていたはずだ。
前出の質問者は、周囲の雰囲気が暗くなるのを嫌う。職業柄当然だし、性格的にも物事に執着するタイプではない。手っ取り早く結論を導き一旦終止符を打ちたがる。それはそれで悪いことではない。しかし、質問の端となった発言を「暗くなるから」ということで打ち切られれば、(打ち切られたわけではないのだが、そうした)こちらもすっきりできない。すっきりできなくとも良いが、彼に本来の意図が伝えられなかったことに忸怩たる思いが募る。嫌いな連中に罵声を浴びせるだけの無礼者だったとは思わないし、客の立場を利用して憤懣を吐き散らかそうというのでもなかった。「考えてみようよ」と伝えたかったのだ。たったそれだけ。むしろ生産的な意図だった。それが伝わらなかった。
ひょっとして彼はその時、説教を垂れられていると感じたのだろうか。仮にそうなら、こちらの非だ。勿論そんなつもりは全くなかったし、自身説教はするのもされるのも嫌いだ。誰かに説教されていると感じた途端、見えない煉瓦壁が瞬時に積み上げられ周囲を取り囲み、その中で目を閉じ耳と口を塞いだサルに変身していく自分がいる。説教は相手の自尊心を傷つける。活力や動機を生むどころか、せっかく進みかけている一歩を数十歩も後退させてしまう。だから、先の話が説教に聞こえていたのなら、それはこちらのコミュニケーションスキル不足およびコンテキスト構成能力の欠如が原因だ。
ほぼ同じ話を同年代にしたところ、こちらは驚くことに無反応だった。無反応と言ってよいほどリアクションがなかった。「ウム」と頷いて、ハイボールをぐっと煽っただけで続く言葉も質問もなかった。分かってくれたのか、諦めが進行したのかは定かでないが、やはり話を止めざるを得なかった。彼らは既に同じ年月だけ社会で闘ってきた連中だ。バブル崩壊以降のこの二十年も、「しんどい」「きつい」「もう無理」を何百回も吐きながら諦めることなく生きてきた連中だ。だから、こちらの意図などお見通しだ。「皆まで言うな」それがハイボールを傾けた時の無言のメッセージであった。彼は、一度は火の通りが不足だと店員に突き返した枝豆を一つちぎって口に放り込んで、次の話題に進んでいった。
「何時までも青臭いことを言いやがって」というのが彼の感想だったかもしれない。自尊心は傷ついたか。指折り数えて四十年を超える付き合いの相手が、この程度で傷はつくか?活力や動機を失うか、数十歩の後退をみるか。いや、おそらく彼は利のある内容だけを刻んで何処かにしまっておく。それ以外の膨大なブルシット(Bullshit!)は、店を出た途端にコンビニの燃えるゴミの箱に捨ててしまう。そしてすっかり忘れて眠りにつく。こちらも、それを知っているから安心して翌朝を迎えることができる。そうして数十年の「変わらぬ」付き合いが成立してきた。
ここまで進んで、何だ!俺の結論は年数のはなしだったか、ということに気がつき落胆した。仮に前出の質問者との付き合いが数十年にも及べば、先に記した危惧は無用で無意味だったということか。それではこのブログの結論がお粗末すぎる。きっと書き始めの意図は異なっていたはずだと一服して冷静さを取り戻す。
数年前に書いた物語の感想を思い出した。「いつもの説教臭さが感じられて、なんだかな」というのがあった。今では自分の道でキャリアを積み重ねるその女性も、学生だったその頃は毛の生えた少女のようであったから、親程も年の離れた者が創った物語などはその程度にしか理解できないのだろうとたかを括っていた。物語は、私自身がこれまで訪れた国々で耳にした寓話や言い伝えを詰め込んだもので、幾つかの経験を通して若者が少し大人に近づくといった内容のものだった。しかし今にして思えば、肝心の「大人に近づく」プロセスで喘ぎ脱皮する主人公の心の描写よりも、物珍しい諸国のエピソードを連ねただけの自慢話の押し売りにしか過ぎなかった。自尊心を傷つけたり活力を奪いはしなかっただろうが、メッセージは伝わらなかった。やはり何かが不足していた。技術や能力ではない、他の何かだ。
つい最近、韓国人の知人がやけに高揚して口を開いてきた。一念発起して北京へ移住するという。その日彼は辞表を提出してきたのだ。不安はあるが、ワクワクすると言っていた。数ヶ月に一度は戻ってくるから、その時は是非あなたの知恵をお借りしたいと社交辞令を口にした。「いや、私にできることなど」とこちらも謙遜したが、彼は彼で「私には必要な能力ですから」と返してきた。実は彼とは一度も仕事を共にしたことなどないし、交わした話しの内容に私のプロフェッションに関し何ら具体性を伴った情報を伝えた覚えもない。しかし一方、何故だか彼との話には、漠としていながらも互いの思いが込められていた。祖国や日本、仲間や旧友、互いの文化やその優劣。そして自らにとっての意義や思い。毎度そんな終わり方で杯を置いていたという記憶がある。その晩彼は、「きっと戻ります。その時は是非」と繰り返し口にし帰っていった。
数年前の物語には無くて、北京へ旅立つ知人との付き合いに在ったものは明白だ。ひょっとしたら、前出の質問者との会話にもそれは不足していたかもしれない。情熱だ。青臭いが情熱だ。人に伝えるべきは意図かもしれない。それを支援するのは会話の技術や能力かもしれない。しかし、伝達の目的を達成させるのは熱量だ。一過性のものではなく、何時触れても感じることのできる同じ種類の熱。「まだやっているんですか」と嘲笑気味の言葉を投げかけられても「はい、おかげさまで」と返すことのできる熱。決して失うことはないだろうと思わせる熱。染み着いた熱。
「熱中症にはお気を付け下さい」と繰り返されるこの夏だが、ときに太陽に顔を向けることが重要だ。エアコンの効いた部屋の中で思案に耽ってばかりいては自分の強さに気づかない。環境の厳しさを感じることはできない。それを乗り越える胆力が身につかない。肌身に受けた熱を感じて自分のものとし、それを伝えていくことが重要なのだ。繰り返せば、それは思想と化していく。やがて誇りとなる。それは人に伝わる。暑っつい(汗)
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