年商5000億のヤオハン元社長和田一夫夫人だったきみ子さんは、会社の倒産と共に一文無しになった。莫大な借金まで抱え、「それでも残りの人生を主人と一緒に生きようというのが、私の選択でした」と語った。
人は皆、日々選択をしながら生きている。選択をするというのは結果を受け入れるということだ。
右に行こうか左にしようか、朝鮭定食にしようかクォーターパウンダーセットにしようか、顔にしようか胸にしようか。毎日毎日人は選択する。左の方が近いはずだが急な坂道が続く、魚より肉の方が満腹感が得られるがメタボが気になる、胸は大きい方が楽しいけれど脳みそまで脂肪では適わないと、都度リスクを畏れながらも結局選択する。そうして手にしたものだけが結果となる。
今生きているこの瞬間、みな何かを選択している。予測通りに運ぶ事もあれば、運ばない事もある。それでも選択しなければ進む事も退く事もできない。だからきみ子さんも選択した。
初めは前掛けを着けたご主人と一緒に八百屋の店先に立つ事を選択した。慎ましい生活の中にも生きる望みを捨てなかったのだろう。やがて企業として成長するにつれ社長夫人として在ることを選択した。香港の街中をロールスロイスの後部座席から眺める生活も選択した。絶頂を感じていたかもしれない。そして破綻した。全てを失いどん底を見たかもしれない。
現在、和田夫妻は年金を頼りにきみ子さんが運転する軽四輪でスーパーへ買い物へ出向く。未だに夢を失わないご主人の背中に微笑みかけながら、「一緒に生きていく」ことを選択した。きっと悔いはあるだろう。しかし彼女はこれまでの人生を受け入れている。未だに選択する事を畏れていないのがその証拠だ。
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「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。
経験を積めば誰でも賢くなると考えるのは間違いだ。経験は人に結果をもたらす、その結果は人に教訓をもたらす、故に人は経験によって賢くなる、というのは間違いだ。
日本がバブルの後遺症からようやく抜け出したかどうかという時期に、海の向こうではサブプライムローンが金融の世界に好景気をもたらした。国土の狭い日本の場合とは異なり、広大な土地がある米国の選択だから大丈夫。
同じ轍を踏んでないかぁ? 人は、それがどんな教訓となるかに気づかない限り、有益な知恵を得る事は出来ない。結局、経験は何某かの結果を生むという唯一点だけが真実だ。
人は皆後悔したくはない。可能な限りリスクを回避したいと望み、経験を基にリスク軽減のための選択を行う。リスクを伴わない結果であれば、必ず満足が得られるはずだ。しかし、その「限りなくリスクの小さな」商品がもたらした結果はどのようなものであったろうか?
経験が乏しくても、代わりに歴史が知恵を授けると考えるのも間違いだ。一度の短い人生で得ることができる以上の知識を書物やインターネットは与えてくれるから、歴史を知る事はより優れた知恵を得る事になる、というのは間違いだ。
「日本のバブル崩壊のメカニズムについては完全に原因を解明し、今回は限りなくリスクをヘッジできる商品を選択したから、大丈夫」と日本のバブル期には学生であったろう金融のエリート達は胸を張っていた、のだろう。
怖さを知らないんじゃないかぁ? 歴史から学ぼうとすれば想像力が必要だ。しかし、これまでも歴史を学んだ創造的な人々が、必ずしも期待した通りの未来を得たわけではない。期待した未来を切り開く知恵を得たわけではない。結局、想像力は可能性を生むという唯一点だけが真実だ。
想像力の行き着く先が「見果てぬ夢」の類であれば、実現性を持つ前に夢の寿命が尽きてしまうから、想像力には突き詰めたリアリティーを以て望んだ。しかし、それが破綻し、富を持ち逃げした連中が去った後の世界のリアリティーは期待されたものだったのであろうか?
経験と想像力はセットではじめて意味をなす。凡庸な人間はまず経験を踏み結果を得、その上で賢者たらんとするならば結果がもたらした教訓を歴史的史実と照らし合わせてより高見へ至るための可能性を導き出す。経験は結果を生み、想像力は可能性を増やす。そして、そこから未来を選択する。
しかし、学び得た事柄が必ずしも好ましい未来を作るとは限らない。世界の人々が選択した結果が、こんな年の瀬の到来だと言うのだろうか。だとしたら、我々がこの間選択してきたこととは、いったい何であったのか。
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年に何度となく朝まで飲み明かした悪友と今年は一度も杯を交わすことなく過ぎてしまった。仕事納めが昨日ということで、今年初めて、そして最後の約束を交わしたのが一週間前。さて本日、相手の都合で本日にしたのだから、セッティングは向こうが行うであろうと連絡を待つが、いっこうに連絡が入る気配がない。
辛い一年を送っていたから腰が重いのだろうか。それとも、俺との宴に興を感じなくなったのであろうか。それとも、借金返済のため本当に首が回らなくなってしまったのであろうか。それとも、・・・。
痺れを切らしこちらから場所と時刻の指定メールを送信すると、暫くして返信があった。
なんでも、彼の所属する不動産屋が管理する物件で自殺未遂事件が起こり、後始末のため朝から駆けずり回っているらしい。メールの最後は、「悪いなあ」と結ばれていた。
これが、彼が選択した年末の状況であったろうか。
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今日この日、大晦日を前にして、これが自ら選択した一年の結果であることを受け入れる事ができるだろうか。未知の未来に畏れをなすことなく、新たな一年を選択する事ができるであろうか。和田きみ子さんのように。
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