2008-03-04

ワーカーズハイ

今年も2ヶ月が過ぎた。時間の経過はこれほどにゆっくりとしたものであっったろうか。

年明け直ぐに最初の仕事にとりかかり、首都圏のあちらこちらを回る。実労時間は短いものだが、終止気を張りつめている必要がある。一語も聞き漏らすわけにはいかない。相手が無責任に吐き出す言葉の中から意味のある言葉だけを抽出し、ちょっとしたニュアンスの変化に裏を読む。笑顔を絶やさず相槌を打ちながら、手元では異常な速さでペンが走る。予定の時間が経過し、「では私はそろそろ別の会議がまっておりますので」と相手が席を立つ。どっと力が抜ける。緊張と解放を繰り返すとエンドルフィンが体中に分泌されているのがわかる。ランナーズハイなどと同様、一種のトランス状態に襲われる。しかし連日では流石に疲れる。よかった連休だ。

連休を明けて直ぐ、約10日間別の案件で缶詰にされる。文字通り缶詰で、小さな部屋で対象者と二人きり。まるで刑事と被疑者のようだ。刑事は終止笑みを浮かべていなければならない。ただでさえ緊張状態にある被疑者が、供述を拒まないようにするためだ。「さあ、怖くはないよ。正直にいってごらん」休みなく吐き出される質問に対象者はへとへとだ。しかし、確たる証拠を掴むまで彼を解放するわけにはいかない。ビデオを通して模様の監視を続けるデカ長や他の刑事達も苛立ちを隠せない。しかし、相手はもう限界だ。「しようがない、最後の質問に答えたら、今日のところは解放してやろう」相手の目に安堵の色が浮かぶ。そこを空かさず「言っておくがな、適当な答えに騙されるような俺じゃないからな」相手が頷く。5分後彼はカツドン代を手にし、背中を丸めて立ち去る。こちらを振り返る者は誰一人いない。

2月に入ると、また別の案件でIT企業への潜入を試みる。手強い相手にはこちらも徒党を組んで相対する。しかし、敵も然る者なかなか尻尾を出さない。手を換え品を換え、何とか急所を突こうとするが上手く行かない。結局、目的を達することなく退散することになった。「現地へ乗り込もう」寄せ集めではあってもプロの集団。リーダーの一声で、半数の人間が成田へ向かう。準備期間は殆ど無いに等しい。暗号のような難解な文章に機内で目を通しながらこの先一週間のミッションを把握する。

最初の渡航地では観光客になりすまし、人の流れに身を隠して目的の地へ辿り着く。一転ビジネスマンモードに切り替えると、手振り身振りを大袈裟に、リアクションも出来るだけ派手に振る舞いながら胸を張って人を掻き分ける。最初のアポイント先。単独で先行した斥候が既に10件に及ぶ予定を組んでいる。我々後発の部隊が定められた時刻と場所に現れ、見下した態度で情報を収集する。未だ日本市場の幻想係数は高く、偽造した名刺とそれなりの基礎情報を与えれば、相手は這いつくばるように希少な情報を差し出す。「何卒おねげえしますだ、お代官様」予想以上の収穫に部隊一同にうっすら笑みさえ浮かんでいる。しかし、次なる地で待ち受ける相手はレベルが異なる。心しなければならない。

日本からと同様に、各々が別々の便で次の目的地に飛ぶ。集合時刻、全員が旅行者になりすました身なりでおち合う。人通りを避け路地を分け入る。一軒の鄙びたビストロを発見しドアをくぐる。客は我々だけのようだ。主人は年老いたフランス人。他に従業員の姿も見あたらない。隅のテーブルに着き早速翌日の行動について打合せを始めた。安全が確保されている状態といえども細心の注意は怠らない。一つの文章を単一の言語で完了してはならない。英語、日本語、イタリア語やその他の言語を織り交ぜて話す。
料理が運ばれるたびに会話が途切れる。訝しげな主人に愛想笑いを返し、一口頬張る。悪くない。次には仕事を抜きに訪れてもよいだろう。料理を平らげると同時に打合せを終了する。時刻は深夜を回っていた。立ち去る間際に店のサインに視線を送ると、タイユバンとあった。

翌日、我々は古式豊かなスパイ小道具を身に着け相手先を訪れた。最新の電子機器は携帯電話を含め全て没収される。万年筆に仕込んだフィルム式の超小型カメラ、メガネのフレームに組み込んだ超小型のテープレコーダーなどなどを分担して持ち込む。全ての言葉に大袈裟に相槌を打つ。相手は、未開の土着人を見るような目つきで我々を眺め、なんでも来いと大風呂敷を広げる。思わず口からこぼれる機密情報。全ての会話が記録されている。目的は達した。

その翌日、既に全員が機内に居る。仮眠をとる者は誰もいない。帰国後この部隊の一部は、別の目的地へ向けタッチアンドゴーだ。私にも次なる使命が待っている。

数日後、新幹線の車中にいる。都内で別件の尋問を済ませ、場所を大阪に移して同様の取り調べに入る。少しばかり疲労を覚える。他人のことなどお構いなしの同行者は、一つ覚えのように「お好み焼き」を繰り返し口にしている。海外の仕事と異なり、国内では食事に不都合がない。しかし反面、組む者の質にばらつきが生じ本来無用な神経を遣う。だが俺はプロとして仕事を請け負う。泣き言はない。ただ、与えられた役割をこなす。

ようやく2月が終わった。じきに半世紀を迎える肉体は少々辛さを感じ始めているが、おそらくこの仕事から当分は足が洗えない。

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