2012-07-31

ロンドンオリンピックの審判にサッカーの未来を案ずる

今回のオリンピックが始まって、ずっと審判の為体がつづいている。柔道然り、体操然り。いづれもが日本選手が当事者であったため心境穏やかざるものがある。しかし、かつては、抗議を受け入れない審判に腹を立てた韓国チームがそれ以降の試合をボイコットる事態が生じたほど、一度下された裁定が覆ることはなかった。審判は試合場において絶対の神であった、そんな時代は過ぎ去ったのだ。

試合や試技の判定や採点は最終的に人間が下すものである以上、過ちを逃れ得ない審判に絶対の権限を与えることは競技を成立させる上で必要最低限の条件であり、ひいてはオリンピックやサッカーW杯といった最高峰の世界競技会の威光や権威を支えるものであった。更にそこで生じる時として偏った判定は、勝者となることの価値、つまり勝者とはいかなる困難も乗り越えた者であることを裏付ける逆説的な背景であったはず。神は決して万人に対し公平ではないのだから。

ジュリと呼ばれる審判のための審判がやたらに試合をとめる柔道の進行は、テンションを断ち切られた選手にとって、試合継続ためのモチベーション維持に努力とエネルギーの浪費を要する、つまりは無駄な努力以外の何物でもない。事態の了解ができない観客にとっては唯苛立ちが募るばかり。人々はこのフレーズを口にする。オーマイゴッド!

ビデオの導入は逆らうことのできない時代の潮流というものであろうが、審判を審判するといった本末転倒なルール変更には、最終責任者を求めて止まない一神教の理論の限界を感じる。神の上に神を作らざるを得ないのだ。古代オリンピックの時代、それは数千数万の神が存在し、それらを人々が都合よく認めていた時代であったのは皮肉なことだ。

さて、性悪説に基づく人間管理方は既に幾度も話題にされているサッカーにおいても、ボールへの電子ディバイス埋め込みにはじまり様々な陳腐なアイデアによってゴール判定の精度向上へ向かっている。生身の選手達が、肩をぶつけ合い足を削り合い、血を流し合い凌ぎを削るゴールラインの攻防の結果を、無粋で不感症な電子音が告げる時代が来るのだろうか。お願いですからそんな馬鹿な制度は導入しないで下さい。偏った判定に怒り狂う相手方のチームをホクソ笑いながら、明らかに有利な状況にも関わらず苦杯を舐める腹立たしさを味わうのがサッカーというスポーツの醍醐味ですから。前言を覆すようだが、正直、際どいゴール判定の度にビデオ判定で試合が止められるW杯決勝戦など見たくもない。

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