※非常に長文です。
この映画をどんな映画として鑑賞すべきなのかを、観終わってすぐに考えた。この作品に主要部門を与えたアカデミーは、何をメッセージしようとしたのかを考えた。もともとこの映画は「アカデミー賞受賞作品」という謳い文句などなくても、観るに値する映画だと想った。のほほんと暮らしている私のような人間にとっては尚更価値のある映画だ。爆発物処理なる任務があることは知っていても、それが実際にはどのような行為なのか。どれほどの危険を伴うものなのか。そういった未知なる状況へ思考を向かわせ、改めてあの戦争を考えてみるにはよい材料となる映画だ。しかし一方で、これは娯楽映画であり、暮らしも文化も思想も異なる世界中の数百万人が目にする可能性をもった作品だ。アカデミー賞受賞はさらにそれを後押するだろうが、制作者の意図が明確に伝わるか否かで、作品の良し悪しはきまる。その意味でこの映画を考えた。4月1日鑑賞料が割引されるにも関わらず私が行った映画館は空いていた。(その日、もう一本鑑賞した既に2ヶ月を越えるロングラン作品は満員だった)
主人公ジェームス二等軍曹は所謂紋切り型のヒーローではない。彼は、戦地での任務に対し能動的で、常に死と隣り合わせているにも関わらずその恐怖を他に見せることはない。戦友サンボーン軍曹の制止も気にとめず、勇猛果敢に爆弾の処理に向かう。ジェームスには、人命を守りたい、仲間を救いたいという人道的な意識を感じることはできるものの、一方で、彼の行為は兵士としての存在意義や行動規範、目的意識に対する理解や賛同から生じているものとは明らかに異なる。彼は任務や自身の行為に決して前向きなわけではないのだ。これは、ひょっとしたら一般的な米国市民がイラク戦争そのものに感じていた意義の希薄さと同様なのものではないだろうかと思った。ジェームスの視点は、戦地へ赴いた兵士自身というより米国内に留まって彼の地に思いを巡らせいている一般市民の代表というべきものなのかもしれない。つまり、制作者の視点は国内に留まっている。
現大統領も含め、アメリカ人全員が目的を失ってしまったイラクでの戦闘行為。生死の境を最も越えやすい爆発物処理班の兵士が、その境目に赴く動機は、しかも常人を遙かに超越した無神経さで爆発物へと彼を導くものとは何なのか。彼をそう変えてしまったものは何なのか。(それともそれは彼がもともと持ち合わせた性質なのか。だとすれば、異常人を扱った作品が描くべき異常性は遙かに乏しい) 彼が閉じこめなければ(ロックしなければ)ならない本当の痛み(ハート)は、戦友達のそれとどれほど異なるのか、際だったものなのか。それは、戦友にまた祖国に残した家族をどれ程までに傷つけるものなのか。誰でもが悲惨と認識する戦争を題材とした作品において、際だたせるべきテーマは何なのか。現実を知らない私のような人間が、この類の作品に期待するのは、そういったメッセージでありそれを補完しまた増幅させる描写だ。ショッキングである必要はないが、充分であってほしいと望んだ。
また、映画の後半で、ジェームスにとって爆発物処理という行為は、「誰でもが大人になるとともに失っていく興味の対象物のうち、唯一残った」だけの事なのだと描かれる。「爆発物処理は必要な仕事だ」彼は家族にたった一言そう発し、再び戦地へ赴く。果たしてこの結末にリアリティーを感じることはできるか。私のように米国外に住み従軍した誰をも知らずにいる者にとって、それは難しい。それが、今のアメリカの一般的な青年の心の中にある割り切れなさや将来に対する自信のなさだと説かれても、直ぐに理解できるものではない。仮にアメリカの市民、現実を知っている彼らが、この映画程度の描写で、現実の再認識と彼の地の兵士達への感情移入が可能なのだとすれば、それは即ち「皆まで言わずとも」という意味ではないか。それ程までに辛い現実なのだとしても、それ程までの辛さはアメリカ人にしか分からない。私のような人間にできるのは、分かった振りを装うことだけだ。制作者としてはそれでよかったのか。
ジェームスはバットマンのようにダークダークでもなく、ランボーのように孤独孤独でもなく、ダーティーハリーのようにアンチ体制派でもない。しかし、それらのヒーローと同様に、ジェームスにもまた平和な世界に居場所は見つからない。ジェームスには、多くのヒーローに見られる圧倒的なダークサイドが見あたらない。悲しい程の愚直さが、呆れる程の割り切りの良さがジェームスには備わっていない。生身の人間だから? いや、そうは言えない。車のトランクいっぱいに詰め込まれた爆弾の処理を、死ぬ時は気分良く死にたいからと防護服を脱ぎ捨てて行うことなど普通の人間にはできはしない。そんなスーパーはジェームスなのに、夜はせいぜい同僚二人と大酒を飲んでふざけることしかしない。狂気がない。一切を捨て去れる弱さがない。恐怖を振り切るために現地の女性を暴行しようかなどとは考えもしない。これもまた現在のアメリカの青年の特徴と言えるものなのだろうか。それともアメリカ人は、「凄惨な現実などこれ以上見たくない」ということなのだろうか。漠とした顔のない「悪」と際限なく立ち向かわなければならないというだけで、充分じゃないか、と。
この物語はイラクに実際に従軍し爆発物処理に携わった兵士の実話に基づいているというようなことを耳にした。モデルとされた兵士は、「全然本当っぽくない」と言ったという話しも目にした。しかし、イラク、まして戦地というものから隔絶し、その状況についてはお手軽な報道映像を寄せ集めただけのニュース番組でしか知り得ない私のような人間にとっては、デフォルメされているとはいえ現況を知る一助となる描写が積み重ねられ興味深かったのも事実だ。しかし、本来それらの描写は、主人公(達)の苦悩を表現するための増幅装置としての役割を果たすべきものだ。過酷で悲惨極まりない状況下で苦悩するアメリカの青年達。ヘビーなテーマを扱った作品のはずだから、主人公達の感情は常軌を逸するほどズタズタにされ、人間性や自信の喪失、果ては自己の存在や国家の存在に対する懐疑や不信に繋がる、はず。しかし、彼らの感情の変化は、これまでにも制作されてきた中東地区の従軍兵士の物語と比較して際だったものではなかった。
彼らの苦悩(ハート)は何だろうか。ジェームスにとっての痛みは、前述の通り普通の人々が感ずる家族や子供といった幸福を受け入れることができないことだろうか。それとも、それを自覚したが故に、離婚したはずの妻が未だに彼のもとを去ろうとせず幼児と一緒に彼の帰宅を待っているという現実だろうか。仲良くなった現地の少年に似た子供が人間爆弾にされた際に抱いた怒りは、不完全燃焼のままどこかへしまい込まれてしまった。それが原因で負傷した新米のエルドリッジを見送った後も、人間爆弾にされたイラク人成人男性を謂わば見殺しにする冷静さを失うことはなかった。無事帰国を果たしたにも関わらず、物語の最後で、彼は自分を再認識しけじめを付けるように再び戦地へ赴く。輸送機からイラクの地に足を下ろしたジェームスの表情に悔恨は微塵もない。彼は居心地の良い場所へ戻ることができた。
同僚の黒人、サンボーン軍曹はジェームス同様勇猛果敢に任務へ向かうが、終始死への恐怖を露わにしていた。彼は死ぬことが怖いのだと認識している観客に対し、後半「俺が死んでもお袋以外に悲しむヤツはいない。子どもでもいれば」と、その根源が実は孤独であることを吐露する。除隊を目前にしての発言だ。戦地で負った傷が霧消するとは思えないが、それまでの戦友に対して吐くことのできなかった(であろう)本心を口にできたのだから、傷は間違いなく快方へ向かったはずだ。そして彼は無事に帰国した(はずだ)。PTSDを煩っているらしいもう一人の主人公、新米兵のエルドリッジは軍医によるメンタルケアを受けている。恐怖心を抑えきれず新米故の判断力の欠如から、「オマエが自分で考えろ」と何度となくサンボーン、ジェームズ両戦友から𠮟咤される。結局、肉体の負傷と引き替えに帰国を手にすることで、彼はそれ以上の心の傷を受けずに済むことになる。
三人とも、負傷はするが生きて帰国の途につくことができた。帰国によって戦地の傷が全て癒されるわけではなかろうが、ジェームスを除いた二人には、それ以上傷を閉じこめる(ロックする)必要はなくなったのだろう。二人の同僚の傷は、帰国と共に見事に消え去った。それにより、ジェームスの傷は際だったか。そもそも、彼にしか理解し得ない、いや理解さえできないかもしれない深く酷い傷が何であったのか。夫婦仲の問題、父親としての責任感の欠如、普通の市民としての生活への適応力の欠如、つまり居場所のなさという彼の苦悩を、それらが戦争が理由で生み出された特別なものなのだと、観客にしっかりと刻むことはできたのか。それにしても、それらが、これまでも描かれてきたイラク従軍兵士の心痛や苦悩といったものを越える何かであるとは感じられなかった。
兵士の心の痛み(ハート)の代わりに記憶された台詞がある。
「オマエの無茶のせいで、こんな目に」
新米エルドリッジが、腰の負傷のために帰国する際にジェームスに吐く台詞だ。私はこの台詞を向ける相手を、米国大統領に置き換えることでこの映画を納得することにした。
「腰骨が九つに砕けちまって、歩けるようになるまでには半年もかかりやがる」と嘆くエルドリッジに、「半年なら悪くないさ」とジェームスは答える。「歩けるようになるまで」を「除隊まで」に置き換えれば、まるで米国市民と大統領がやりあっている台詞みたいに感じる。「撤退まであと半年だ。それほど悪くはない」
残念だが、今年のアカデミー会員は、充分に感情移入が見込めるテーマを扱い、ある種深入りを避け、ただでさえ重みのある映像が淡々と積み重ねられたこの作品に主要な賞を与えることで、自らの威信を傷つけずに(様々な理由で)盛り上がりを期待できると踏んだのだのではないかしらと勘ぐってしまった。火器を持たない原住民に対し一方的な戦闘を開始した文明の民を扱った前夫監督作品の、歯に衣着せぬ描写が、現在も確実に死者の数を増やしているイラクに対するネガティブな感情を想起させ、唯でさえ明るい話題のない米国内の沈み込んだ雰囲気を増長させたくはない。そんなところが理由だったのかもしれない。結局のところ、アメリカ市民にだけ共感し理解してもらえればよし。他の国の人は、難しいことを考えずに、よくできた作品としてこの映画を楽しんでください。アメリカ国民は自浄を忘れてしまったわけではない。こういう作品を通してきちんと再認識の努力をしていますよ、って。今回はやや残念だ。
最後に、同じイラクへ従軍した普通の青年達自身を扱った「リダクテッド(REDACTED)」(ブライアン・デ・パルマ)という作品の鑑賞を薦めます。さらに、失踪したイラク帰還兵の息子を捜査する父親が、隠蔽された米軍の謎を解き明かす「告発のとき(IN THE VALLEY OF ELAH)」(http://ebjk-piccolino.blogspot.com/2008/05/blog-post_09.html)は、米国内の家族(=市民)の苦悩を描いている。両作品とも、作者が意図するメッセージは明確で、鑑賞後の観客を大いに苦しめる。同時に、アメリカが抱える苦悩というものを想像するための大きな助けになる。
私が知る、ベトナム戦争の苦い記憶に表情を歪めた80年代前半のアメリカの若者達がいま親となり、新たなそして同様に悲惨な状況へ自分の息子や娘達を送り込んでいることを考えれば、ハートロッカーを監督した50代のキャスリン・ビグローは正にその世代であり、リアルな苦悩を背負い、もしくは直面する者の一人として、私のようなものが他人事として求める数々を描写するのは辛かったのかもしれない。それ故、一歩手前でシーンを終えてしまうことを選んだのかもしれない。凄惨な状況を描ききることが回避されたことで、アメリカ市民の多くは溜飲を下げ納得に至ることができたのかもしれない。そこを見逃さなかったアカデミー賞だったのかもしれない。