2010-03-11

イルカよ、イルカ

※大変長い文章ですので、そのつもりでお臨みください。

まず最初に、アカデミー賞受賞で一機に盛り上がってる和歌山県太地町のイルカ漁は明らかに営利を目的とした所謂漁であり、日本の文化ではないと私は思う。和歌山県太地町固有の行事であり、強いて言えばその地方の文化と呼べるものかもしれない。私個人は、映画も見てはいないしその文化についても詳しくはないので、映画で扱われている特定の事柄を云々することはできないし、それを文化としてみなすかどうかについても明確な意見はない。ただし、多くの日本人が共有する文化か否かと問われれば明確に、NOと答えるであろう。その上で、言及してみたい。

ザ・コーヴという映画にまつわる問題には、いくつか異なる次元の要素が含まれている。ひとつめは、何故に「イルカ」が特別扱いされるのかという点、次にイルカを食することが食文化か否かという点、三つ目にそれを流通させ金儲けをしているのはけしからんという点、最後にこの映画の撮影が無許可に近いものであり(盗み撮り)卑怯な手段のうえにたつプロパガンダであるという点。もっと他にもあるだろうが、とにかく複数の異なる話題が一緒くたに論じられている。実はそこが日本人という括りにおいては、最も問題なのではないかとも考える。これはまた別の話になるので触れない。

一つ目のイルカ特別扱いについては、イルカが非常に高度な知能を持つ生き物だというイメージから生じている感情的なものだと認識している。確かにイルカには、遭難した人間を救った話であるとか、船を導いて難所から救い出したとかという話しもある。シャチが調教師を誤って殺してしまったニュースを耳にしたばかりだが、イルカにおいてはそのような事もないようだ。また、腕白フリッパー世代の私にとっても、心情的には憎むことも無視することも他の知能にいて劣等な動物と同様にみなすことも難しい。つまり、どこまでそうかは別にしてイルカとは気持ちが通わせられそうだというイメージが、イルカに対する一種異様な情を生んでいるのであろうと考える。

しかし、一方イルカ程の知能を有するかどうかは分からないが、かなりの高等生物であることが知られているシャチについては、イルカのような同情が集まらない。どうしてか。シャチの大量虐殺が記録されていないため偶々そうなのかもしれないが、これまでシャチ寄りの世論というものを私は耳にしたことがない。ひょっとしたらシャチだって充分に人間と心を通わせるだけの能力は有しているのかもしれないし、むしろその気高さのために敢えて人間との距離を置いているのかもしれない。それならそれで見上げたものだし、本来的にはより尊敬に値するのではないか。しかし、シャチに対する情けはあまり一般的ではない。

また、高等な知能を有する動物という範疇に犬は入らないのか?犬はあらゆる動物の中で歴史的にも最も人間に近しい生き物であるはずだし、膨大な数になった犬の種類の多くは人間が改造して作り上げたものだ。酷いことをしてきたという事ならば、犬は最も人間に虐待されてきた生き物だ。そしてその種類の多くは、欧米で作り上げられた。鼻をそぎ落とされ、尻尾をちょん切られ、やせっぽちにされたり不細工にされたり、大凡人間に置き換えれば直視できないような仕打ちを受けてきた。彼の国では食するという事実もある。ところが、犬は未だに我々人間の最大の理解者のようだ。そんな非道さを盗み撮りして事実を映画化した人間はいない。私が知らないだけかもしれない。

犬を食したり改造したりするのは非常に小さな集団のことであるからという理由は、和歌山県太地町という(大変申し訳ないが)多くの日本人がその所在地さえ認識できない小さな地域での出来事が取りざたされた今回は通らない。つまりは、イルカという特定の動物に対する感情論が大きな部分を占めている。何を占めているのかといえば、実は映画作りにも実際のイルカ漁にも殆ど関わりのない私を含めた傍観者の苦悶の殆どを占めているのだ。イルカが特別かどうか。おそらく特別だ。肩入れするべきか。おそらくそうした方がよい。何故だ。そう洗脳されているからだ。我々は、イルカについて多くを知っているわけではない。他の動物についてだって、そうだ。毎年米国で3500万頭が殺される食肉用の牛たちが、殺されることについて何も感じていないわけではないのだ。単に、こちら側が割り切っているだけのことだ。イルカは特別だと我々が思っている。根拠となるのは、実はそのイメージだけなのだ。

二つ目の、イルカを食する事が我々日本人の食文化の一つであると言い切れるかとい点については、YES and Noだ。逆説的だが、文化とはいつか消滅する可能性を持っている。文化だから法律で維持させようというのは既に文化ではない。文化は長い年月の間に継承している人間達の中で意味合いが変化していくもの。だからこそ、文化は熟成も衰退もする。それが本来の姿だ。かつて私が幼少期に鯨の肉は一般的な食物だった。婆ちゃんが煮てくれた甘辛い鯨の肉は、弁当のおかずの人気ランキングに入っていた。当たり前に食べていた。何時の頃からか、捕鯨規制が叫ばれるようになって鯨肉は食卓から消えていった。文化がたどる道を辿ったのだ。しかし現在、「この漁は和歌山県漁協から許可を得て行っている合法的なもので」などとコメントされるようならば、既に文化的な意味合いを大きく失っていると考える。

(※鯨とイルカには明確な区別が無く、一定の大きさ以下のものをイルカと呼ぶそうだ。だからイルカは鯨なのである。よって、鯨肉には当然イルカの肉も含まれる。誤表記ではない)

改めて、今日鯨肉を食することが日本人の食文化であるか。私はNOと答える。廃れてしまった文化を懐かしむことはある。しかし、今その存在にアプリシエイトできるかと問われれば、NOなのだ。多くの人々が日常的に鯨肉を食しなくなってから既に世代が代わる程の年月が経った今日、それを日本人の文化であると声を大にしていうことは難しい。誰も目にしないような伝統行事を継承してる場合もあるではないか。それは日本の文化とは呼ばないのかという声があるかもしれない。しかし、食文化というのは日常に根付いたものでなければ意味が通らない。食は毎日のことなのだ。米飯は週に何度も食べるし、味噌汁もそうであろう。食文化とはそういうことを差すと私は考える。その意味では、マグロは日本の代表的食文化の一つと言えると思う。

もっと言えば、欧州で規制の声が高まるマグロは、それよりずっと以前に資源確保の意味合いから養殖技術の開発が続けられている。欠かすものができない食材であると多くの日本人が考えるからこそこのような動きが起きる。国や役所も動く。鯨やイルカを養殖で、という話は終ぞ耳にしたことがない。技術の問題というのであれば、マグロも非常に高度な技術と知識が必要だ。やってみればイルカや鯨の養殖も可能なのかもしれない。養殖鯨や養殖イルカなら、たとえ太地町と同様の漁を行っても、「どうせそのために養殖しているのだから、牛と同じだよ」ということで、アカデミー賞どころかドキュメンタリー映画にさえならなかったかもしれない。

三つ目の点に差し掛かったが、仮に養殖イルカでもって現在の漁を行っていれば、ひょっとしたらスペインの闘牛のように見せ物として成立したかもしれない。「殺し方が残酷だ」という理由で闘牛を非難する人間がいるが、闘牛こそは、文化を営利化した象徴的な行為だと思っている。見せ物として金儲けを成立させた上で、殺された牛の肉は当然食卓に上るのだ。動物が生きるためには他の生き物を殺さなければならないと、分厚いステーキを前に子供達は教育されるという。それが、命の尊さを伝えることになるのだという。食にはこのような重要な役割があるなどと、今この国の親たちはどれ程認識しているだろうか。闘牛によって生産され続ける牛肉は、正に食文化の代表だ。これほど見事に、お金と食と教育の三位一体を果たした行事を文化と呼ばずしてなんと呼ぼう。だから、闘牛は連綿と継承されていくのだ。文化として。

話を戻せば、仮に養殖であっても、そうまでして日本人が鯨肉を食べ続けていれば、殺し方がどうであろうと、胸を張って「鯨は日本の食文化を代表するものである」と言えたことだろう。是非は論じていないので、念のために。

最後の盗み撮りという卑怯な方法で作られた映画云々については、正直言って話にならない。物事をフィルムであれビデオであれ文字であれメディアに収めるという行為は、事実を歪曲することとほとんど同意義だ。殊更ドキュメンタリー映画には、そのような側面がある。物事は立つ側により見えてくるものが異なるものだから、ドキュメントとはいえ、制作者は起承転結に関するアイディアをもって臨む。つまり、立ち位置を決めてからカメラを回す。だから、そのアイディアが今回のように被写体とされる側にとっては都合の悪いものであることはしばしば生じる。被写体が協力的でない場合でも、ドキュメンタリー映画などを制作しようとする者は諦めたりせず、盗み撮りだろうがなんだろうが目論みに合うように撮影を続ける。制作者としては当然のことなのだ。娯楽映画だって、トム・ハンクスの「天国と地獄」はバチカンとローマから許可を得ることができないまま撮影されたというはなしだ。盗み撮りだ。これも、是非は論じていない。

誰かのブログに、「太地町の人々は、どうせなら、撮影拒否などせずに手厚くもてなして、むしろ自分達にとって誇れる事柄なのだと主張すれば良かった」というような事が書かれてあったが、同感だ。後の祭りではあるが、よい考えだ。ドキュメンタリーの場合、撮影者と被写体の間には常に駆け引きがある。その駆け引きに負けてしまったのが今回の太地町だ。アカデミー賞までとられてしまったのだから完敗だ。こんなとき欧米には危機回避の発想があるから、これがアメリカや欧州の一部の国の町での話しなら、きっと町長さんは予算を遣ってコンサルタントを雇ったはずだ。違法行為もしくは事前協議違反が生じた場合、上映禁止措置やフィルムの差し押さえといった手を打てるように法律家も雇うかもしれない。本気で自分達の文化だと主張し守ろうとするならば、それぐらい必死でなければ世の中にはその何倍も狡賢い輩がいるのだ。決して太地町の人々を責めるつもりはない。ただ、残念なだけだ。世界に出て行くと日本のスポーツ団体は駆け引き下手でで損なクジを引かされる。そんなこととダブってしまった。

最後の最後に、知人が綴っていた「almost disgust me to think some japanese people feel proud of massacring dolphins cos it's our traditional culture.」というコメントに対して言及するならば、多くの日本人は、勿論太地の人々だって、たとえ伝統行事であろうとも動物の大量殺戮を快く思っている人はいないであろうと思う。我々はスクリーンの上に映し出された映像を見ているだけだ。実際に生き物を殺し血の中に浸かっているのは彼らなのだ。良い気分なわけがない。彼らはただ黙々と仕事をしている。是非ではない。連綿と続けられている彼らの仕事を今年もまたしている。自分の仕事に誇りを持つのは当然のことだ。そしてまた、眼前で死んでいく生き物たちへの惻隠の情もちゃんと持っている。哀れみ感謝している。だからこそその仕事に誇りを持ち続ける事ができるのだ。400年も続いているのだ。伝統というものは清濁を併せ持つ。

そして、あの映画によって日本人を惨く残酷な人間であると信じる世界中の人々は多くない。あの映画を利用してそのような気分を誘導しようとする輩はあるだろう。しかし、そういう連中は、この映画に限らず利用できるものを探しているし、方法を考え出すものだ。どこの国にだって、他の人間から見れば理不尽な行いの一つや二つはあるものだ。そう理解するはずだ。政府から「自分達の生活に必要な数だけ」とアザラシの猟を許可されているエスキモーは、アザラシの全てを活用する。肉は食べ、毛皮は物々交換する。彼らは、貨幣を持たない。貨幣など役に立たないからだ。エスキモーはアザラシを殺すことで生きている。生活している。そして、アザラシから全てを教わる。

彼らが、この映画を見たらなんとコメントするのだろうかと頭を巡らせた。きっと、何も言わないだろうと結論づけた。仮に、発したとしたら、「別に」だな。

1 件のコメント:

あいこぶらうん さんのコメント...

悪意のある映画と言う人もいるみたいだけど、
告発映画として、やることやってくれたと私は思います〜
日本に住んでいながら、イルカ漁の存在を知らなかった人も絶対いただろうし。
明らかに問題提起、国民の意識を高めるきっかけになったんじゃないでしょうか。
日本は本当に、出る杭は打たれる国だと思います。
許可が下りないからって取材を諦めていたら、真実が明るみにでることはないのでは?ドキュメンタリーは娯楽でなくてジャーナリズムだし。
もしトラの密猟や、熊の手を切断して漢方薬を作ってる所などを隠し撮りして告発したりしたらそれも卑怯だと呼ばれるのでしょうか?
ちょっと疑問です。私いち個人の意見ですが。
太地町は漁じゃなくてドルフィンツアーとかそういう観光産業に切り替えればいいのになと思います。
日本政府はこの町のような、地方の古い地場産業をおざなりにしてる気が。漁師さんは漁がなきゃ生きてけないですもんね。

そうそう、犬の話で思い出しました。
私の実家にはテリア犬がいて、子犬の頃に断尾したのですが、こちらではそういう犬を全く見かけません。
聞いてみたら、耳を格好よく整えたり、尾を切ったりというのは今ではイリーガルだそうです。
西洋はアニマル・ライツという概念が当たり前のように定着してますよね。
動物好きなのでこの国のそういう部分(だけ?!)いいなと思います。

長々と失礼をばいたしました〜