蝋燭も並べられらいほどの齢を祝ってもらった上に、イタリア製の万年筆と新幹線図鑑と携帯電話充電器とシルバーの絶縁テープに加え秋刀魚までもらって帰宅した。二日連続分泌され続けた脳内麻薬のおかげか熟睡もできた。大量に煽ったアルコールも残っておらず朝はすっきり目が覚めた。
目が覚めると真っ先に秋刀魚の事が頭に浮かんだ。「築地で仕入れたんです」という店長の言葉が耳の奧に残っているような。とにかく早く食べたい。自ら秋刀魚を焼くなどおそらく二十年ぶりだ。窓をいっぱいに開け玄関の扉に靴を挟み込み、換気扇を回してコンロに火を点ける。焼き網が赤くなったところでジュッと秋刀魚を置く。プチプチと音を立てて皮が焼けていく。焦げた皮がまたいいんだ。しかし焦げすぎは禁物。火加減を調節して脂がしみ出てくるのを眺めていると、脳の片隅で「そういえば万年筆」と囁く声がする。視界では秋刀魚が嬉しそうに弾けている。こんな時は一点に集中することが肝心なのだ。二兎追う者・・・と言うではないか。菜箸で秋刀魚を持ち上げ焼け具合を確認する。うむ、良い感じだ。もう少しこのままで大丈夫。
耳元の囁きは大きくなり身体が堪えきれなくなる。万年筆の包みに向かって、「分かってるよ、今相手をしてやるからな」と呟くと、 横目で秋刀魚を確認し、卓袱台へ移動して包みを解く。洒落たマークが印刷された箱を開けると鮮やかなオレンジ色の万年筆が眩しい笑顔を向けてきた。カチッとキャップを抜き取り、クルクルとお尻をネジってカートリッジを差し込んだ。何か注意書きのようなものが箱の隙間から顔を覗かせているが、なあに万年筆の扱いなら慣れている。今更何を。
ブシューッと大きな音がして万年筆より更に鮮やかな炎が目に飛び込む。いかん! 万年筆を卓袱台に置き秋刀魚のもとへとって返した。流石に築地物、脂ののりがよいのだ。盛んに弾ける脂に喉が反応して涎が出てくる。煙る秋刀魚をひっくり返そうと菜箸で摘むと、楽しみにしていた皮は焼き網にひっ付いてベロリと剥がれてしまった。まったく、だから言わぬことじゃない。万年筆は逃げも隠れもしないから今はとにかく秋刀魚に集中。しばし頭と尻尾にも火を通し、身の詰まった腹を再び火の上へ。用心のため更に火を弱めた。脂の弾け方に注意、注意。反対側の皮は死守しなければならない。なんたって、秋刀魚は焦げた皮が旨いのだから。
タバコに火でも点けようか。いやいやここは秋刀魚に集中しなければならない。同じ過ちを繰り返すことは赦されない。なんたって秋刀魚は皮が旨いのだから。自らを制するように腕組みをし、手持ちぶたさに頭を振ると万年筆が視界に入る。キャップを外したままだ。これはうっかりと卓袱台へ歩み寄り、キャップを摘んだ。愛らしいオレンジ色が微笑みかける。ちょっと書いてみるか。右手に持ち替えて、ペン先を紙に滑らせた。ペン先にインクが染みるまで暫く書き殴らねばならない。承知している。なんたって私は万年筆の扱いに慣れているのだ。紙の上には色のない浅い溝だけが連なっていく。クルクル連なっていく。それにしても時間が掛かりすぎる。尻を捻ってカートリッジのインクを確かめる。希に劣化したインクは堅くなってペン先へ流れていかない。何度か揺らしてみるがインクに問題はなさそうだ。仕方なく、再びペン先を走らせる。出ない。インクが出てこない。どうしたというのだ。せっかくのイタリア製万年筆。友人がわざわざ銀座まで足を運びあれこれ悩んで私にピッタリのオレンジを選んでくれた万年筆。されど、紙の上には無色の溝が刻まれていくだけ。
と、先ほどとは比べものにならないほど大きな音とともに再び鮮やかな炎が二〇センチほど立ち上った。しまった、またやってしまった。急ぎ駆け戻った時、秋刀魚は哀れにも焼けただれてしまっていた。菜箸で摘むと、ぼろりと腹の肉が崩れ落ち、僅かに残った皮が漸くのことでつなぎ止めている。大半の皮は先ほどと同様に焼き網に見事にくっつき、在りし日の秋刀魚の姿を留めている。火は見る間に焼き網の皮へも回り大袈裟に炎を上げ始めた。築地物がたっぷりと脂を滴らせたのだ。不自然な形に持ち上げた腕の先には、より不自然な姿に変わり果てた秋刀魚がぶら下がり、左手は頭上から皿を一枚引き抜こうとしている。こんな時にはチビが恨めしい。皿が思うように引き抜けない。力を込めると、右手にぶら下がった秋刀魚が真ん中から千切れそうにぶらりと揺れる。
漸くのことで皿の上に秋刀魚を落ち着かせた。サランラップを解いたときに見せていた、あの凛々しく背筋を伸ばした姿とは似てもにつかない無惨な黒こげの魚肉が転がっている。いつかみた光景。そうだ、二〇年前にも同じように原型を留めない秋刀魚を見た。この歳月は何の成長ももたらしてはくれなかったのだ。肩を落として卓袱台へ運ぶと、先ほどまで笑顔を振りまいていたイタリア制万年筆の姿が見えない。乱暴に秋刀魚の皿を置き跪いて卓袱台の下を覗き込むと、見事に命を取り戻した万年筆のペン先から青いインクが血のように滲んでいる。年中敷きっぱなしで薄汚れたホットカーペットの上に一円玉ほどの歪な青い染みが色濃く浮かんでいる。万年筆を摘み上げた右手を見つめると突如として自分への苛立ちが沸き上がり、同時に勢いよく身体を起こした。その拍子に卓袱台の角を肩が持ち上げ、秋刀魚の皿が滑り落ちていくのが視界に入る。俺の秋刀魚! 咄嗟に鷲掴んだ何物かで素早く秋刀魚の腹を掬い上げると、洒落たマークが印刷されたイタリア制万年筆のケースの中に無惨に焦げた魚肉が収まっていた。なんてことだ! 右手で直に秋刀魚を摘み上げ皿の上に戻した。カタリと音がして、再び万年筆が卓袱台から転がり落ちる。これは、堪らん。素早く右手で万年筆を受け止めた。築地物の秋刀魚の脂でてかる掌の中でオレンジ色の万年筆が微笑んだ。
3 件のコメント:
恐ろしい事です。
((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル
一度歯車が狂うと、まるでからくり人形のように一式歯車が回転しつくまで悪循環は止まりませんよね。www
人間の行動とは連鎖にて成り立っているのでしょうか。
あら、バ〜スデーだったんですね。
おめでとうごじゃりますーー!
カードでも送ればよかったー。
って、住所知らないんだった。
秋刀魚おいしそうだな〜。
結果、ふいにしてしまったようですが…
そして何ともお洒落な万年筆!
さすがイタリアですねー。
最近イタリア人のママと仲良くなったんですが、
赤ちゃんの名前がジャン・ルーカ。
ま〜〜〜じで〜〜〜。
と(英語で)ついつい言ってしまいましたよ。
回る因果は風車~って歌はなかったけ?
秋刀魚はちゃんと食べたよ。美味しかったですよ。もとは築地物だもの。
AURORAっていうブランドの万年筆だよ、カッコイイ。
ジャンル~カって、ローマ行ったらそこいらじゅうで聞こえてくるよ。
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