2009-03-18

対韓国戦 -- WBC第2ラウンド

WBC第二ラウンド対韓国戦を観ながら。

イチローは替えられないのだろうか。ついでに、小笠原と福留も替えられないのだろうか。
この三人は、明らかに調子が悪い。

たった今、5回の表の攻撃で日本は1点を返した。ノーアウト一、二塁のチャンスで岩村がショートゴロ。1アウト一、三塁で登場したイチローはセカンドゴロ。この間に三塁ランナーがホームへ返り得点した。それ以外は、東京ドームで完封されたホン・ジュングにまたしても押さえ込まれている。

この試合に限らないが、イチローの前で下位打線がしばしばチャンスを作る。一番イチローはそれを活かせない。そんなシーンがここまで続いている。イチローは2打点を記録しているとはいえ、二つとも内野ゴロの間に三塁ランナーが生還したもの。打率は既に2割を切っている。全く活躍できていない。ことごとく期待を裏切っている。

テレビの解説を続けている清原もイチローを批判することはしない。しかし、大事をとって休んでいる中島に対し、「この試合、大事をとってる場合じゃないですよね」と痛烈な一言を発した。調子の上がらないイチローにこのまま出場させている場合なのだろうかと首を傾げる。

イチローを批判するわけではないが、イチローのためのWBCがあるとは思わない。同様に、フォアボールを選ぶことでしか繋げることのできない小笠原、塁にランナーが居ない時にしかヒットが打てない福留も同様だ。原監督は、コンディションがベストの選手を選んでいるはずだ。とすれば、韓国に勝てない日本は優勝ができないチームということだ。何らかの策を講ずべきだろう。

昨晩、NHKのザ・プロフェッショナルに出演したサッカー日本代表の中澤は、「人を幸せにするのがプロフェッショナルだ」と言った。38歳で未だに挑戦を続ける辰吉丈一郎は、タイで行った19歳相手の試合でTKO負けを喰らい試合中の記憶をなくしていながら、「このまま終われんやろ」と吐いた。

今回のWBCは、「二連覇を目指せるのはニッポンだけ」という宣伝文句にあおられ、当然優勝するものだという雰囲気が漂う。しかし、戦前イチローは、「守るのではなく、取りにいく」と確かに言った。その言葉を聞いて我々はホットした。慢心はない。泥だらけでも厭らしくても、ニッポンは勝ちに行く。そう信じて国中が沸き立っているのだ。

だったら、そうすべきだ。韓国は間違いなく強い。そして、今日またホン・ジュングにしてやられた。日本の投手陣は、強さ安定感ともどの国にも引けをとらない。メジャーリーガー三人を下位の打線に並べる勇気が原監督にはあった。絶不調の一番バッターを替える、巨人の主軸打者や、今ひとつ乗り切れないメジャーリーガーの打順をいじるぐらいのことはできるだろう。やるべきだ。

試合が進んで6回ウラ、韓国の攻撃に入った。ダルビッシュは初回3点を失った以降、吹っ切れたのか抜群のピッチングで後続を断った。マウンドには、韓国が苦手とするアンダースローの渡辺が立っている。二死一、二塁のピンチを迎えた。

2009-03-17

会いたい少女

一度、生の彼女に出会ってみたいと思っている。
その時自分の口からどんな声が出るのかが想像できないのだよ。




それにしてもフランス人というやつは、狂気の人々です。
それがとても魅力的に思えます。

2009-03-13

お父さんのパンツ


三男坊の靴下の踵が擦り切れて穴があいていたことがあった。上二人のお下がりだから通常の二倍か三倍履き古されていては穴もあくだろうと納得しながら、なんだか不憫に思われた。かといってお父さんは、自ら新しい靴下を探してやろうなどと思わない。男は中身なんだとお父さんは信じている。三男坊はパンツまでもゴムが伸びきっている。

正直、子供の下着や靴下がどこで買えるかなど知らないし、これまで友人や知人に「お子さんの靴下はいつも何処で買ってます?」なんて尋ねたこともない。勿論、訊かれたこともない。そのくせ新宿に降りる度、ビクトリアに立ち寄っては子供用のスポーツ用具を眺めていたりする。親子グローブセットを見つけた時には、迷わず買った。「どうしたの、突然」と、母親は当然訝しがる。下着や靴下は買ってきたこともないくせにと思っているかどうかは知らないが、下着や靴下に比べたらはるかに値が張る。のか? パンツや靴下については値段も知らない。

果たしてお父さんはそれらに本当に無関心なのか?

先日、「パンツに穴が空いてても見えなきゃ気にしない」と冗談のつもりで言ったら、風呂場で脱ぎ捨てたパンツには本当に穴が空いていたので驚いた。しかし、そのパンツを棄てたかどうか覚えていない。今日は今日で、靴下のつま先が薄くなって地肌が見えそうになっていることに気がついた。そういえば洗濯の時、既に発見してたのだ。しかたがないので別のものに履き替えると、そちらも全く同じ場所が薄くなっていた。

知人二人と吞みに出かけた時、そこには小洒落た板敷きの掘りごたつが据えてあり三人とも「いいねえ」なんていいながら仕切りの部屋に通された。疲れた足を革靴から解放し、おまけにネクタイまで緩めて燗の酒を舐め舐め白いものが増えた互いの頭の話なんかで盛り上がっていた。やおら一人が片足を膝に載せると、もう一人が息を合わせるように反対側の足を放り出した。視界に入った二人のつま先が同じように薄くなっていた。

とにかく、お父さんは下着や靴下に無頓着だ。理由はない。しかし、子供達がサッカーボールを泥んこのまま放ったらかしていたら叱る。けっこう叱る。「ボールを作っている人は、一生懸命作っている。お前達に楽しく遊んでもらおうと思って心を込めて作っている。だから、遊ばせてくれてありがとうって、いつもきれいにしろ」二度と買ってやらないと脅したりもする。

別に、靴下やパンツを蔑ろにしているわけじゃない。ましてやその中身を放ったらかしでよいとは思っていない。もう子供に自慢するほど光り輝くボールでなくなっていても、100円ショップの歌舞伎揚げの横に吊されている代物なんかじゃなくて、もう少し気の利いたボール袋に包んでやるからなって思ったりする。今は力のなくなったこのバットだって、昔は四割の打率だったんだなんて思い出したりもする。

勝負下着なんて考えもしなかった時代に青春時代を過ごしてしまった俺らは、脱がせた下着のことなど覚えていない。無駄な時間はすっ飛ばして、さっさと稲妻シュートを決めたかった。しかし、今の持ち玉は変化球。緩急なんてつけられないからひたすら変化球。クリスチャンロナウドの無回転ボールなんて夢のまた夢。コロコロシュートが関の山。やっぱり色気のあるパンツの一枚も履いて、まずは目くらましから始めなければだめかしらん。とはいえ、今更パンツを吟味するなんて。

待てよ、・・・。
若い女のケツばっかり追いかけている彼奴は、ひょっとしたら勝負下着の二枚や三枚もっていたりするのかしらん。ずらっと並んだカラフルなパンツ売り場で、「今夜はこいつでキメテやるか」なんて、腕組みしてたりするのかい。

フン、男はやっぱり中身だ。お父さんだって決めてやる。
コロコロ~ッ、シュート。

2009-03-11

霞町物語

プリズンホテルもそうだった。
二巻目の途中で、「もういい、分かった」なんぞと口走ってぞんざいに単行本を鞄に放り込みはしたものの、書棚にしまい込むことなく最後まで読んだ。挙げ句に、「冬は僕が貸して上げます」なんて行きつけのボーイに言われたりしたものだから、一気呵成に春の巻まで読み終えた。

食材を買いに通りへ出た夏の日に、ぶらりと寄ったブックオフでまとめ買いしたなかに「霞町物語」はあった。
人気お笑いのシニカルな時評やピラミッドが暗示する太古のもっと前の文明、映画の巨匠のドキュメントにクラシックな警察もの、アップルのヤバイ時代と白州次郎の話しなんかをめくりきったら読むもんがなくなっていて、最後に打棄ってあったこの一冊に手を延ばした。
霞町なんていうぐらいだから、どうせノスタルジックなほろ酔いダンスだろう、なんて思っていたら案の定そうだった。こんな本はウンコのお供でちょうどよいと、一日一度便意が来るとテーブルの上から老眼鏡とセットで掴み取り、便座の上でページをめくった。この数日便座で過ごす時間が大きく伸びた。

上京したのは新宿ののっぽビルがまだ三本しかなかった時代だが、それとてこの物語の時代から十年以上は経過していた。いや、たった十年というべきだろうか。当時既に見ることのできなくなった大通りの都電の風景は別にして、霞町交差点から青山墓地にかけてはデニーズもまだないうらびれた通りだったし、その途中の米軍跡地には軍新聞のスターズ・アンド・ストライプスがちゃんとあった。ミスティーという名の店は知らないが代わりにレッドシューズも健在だった。六本木にしたって、ロアビルとホットドック屋があるだけだった。
私が霞町をぶらつくようになったのは二四、五だけれども、バブルのお陰かヤクザな商売のお陰かいずれにしても他人様の力で回った金が豊富な時代であったから、物語の主人公が親のすねをかじって闊歩していた一七、八の頃と似たような浮かれ具合だったに違いない。仲間内では霞町は霞町だったし、タクシーのウンちゃんだって「はい、霞町ですね」という具合で、西麻布でしか通じなくなったのが何時の頃なのかが思い出せない。
街の見た目は移ろいでも、記憶の流れには溜まりができて、生粋だろうが余所者だろうが溜まりに浸かれば同じ水の酸いも甘いも覚えていく。そんな記憶を呼び戻し物語に出てくる人物達を目蓋に思い浮かべれば、田舎モンの私とて今のモンより少しはましな東京人かしらん、などとケツを丸出し便座の上で悦に入る。

結局、ノスタルジックなほろ酔いダンスであることに間違いはなく、だからなんなのサ。だから、こんな本は便所の中でさっさと済ませ、次へ行こうと扉を開けるのが正道です。出すモノを出した爽快感と、妙な自信を取り戻して、背表紙を閉じることができた本でした。
浅田次郎は、上手いな。ひょっとしたら、俺でも適わないかもしれない。

2009-03-10

ポアンカレ予想・・・眺めながら

人が幸福を求める原動力は、好奇心だ。
好奇心を支えるのは想像力だ。
それも、限りない、いや、絶え間ない、いや、継続する、いや、跳ねる、・・・・。
絶え間なく継続し続ける飛び跳ねる想像力だ。
言ってみれば流体性想像力だ。
流体性想像力は、流体であるにも関わらず、時にジャンプする。
人間の場合はジャンプが必要だ。
アインシュタインもジャンプしたが、継続させる事ができたから流体の性質を失わなかった。
どうやらポアンカレ予想を解いたグレゴリー・ペレルマンは、時々ジャンプすることを忘れてしまったから自分を失ってしまった。だから、世界から自分を消した。
それはそうだ。人は器には閉じこめられていないが、存在に閉じこめられているので、時々解放されることが必要だ。それを、ここではジャンプと呼ぶ。
飛び上がって地面から離れ間は、少しだけ存在から解放されることができるのだ。
そうでなかったから、ペレルマンや彼には届かなかった何人かの数学者は破壊してしまった。
アインシュタインは、舌なんか出しながら時々ジャンプして理論を完結させることができた。もちろん、流体の性質も維持できたからだ。
アインシュタインやペレルマンは、言わば領域の頂点だが、決して頂点に立つことのない凡庸な我々にも流体性想像力が必要だ。
それがあれば、唯のアラフィーや、唯の格好付け爺や、唯の頑固オヤジや、唯の負け犬にならずに、きっと就活も婚活も、子や孫や配偶者や上司のあしらいも上手くいく。
つまり、・・・・。
だめだ。
もう少しだったが、ランディングを考え始めた。
まだ、漂いがたりない。