「四月になれば」という歌がある。映画「卒業」の劇中歌として映画と同名のサントラ盤に収められていた。
四月になれば 彼女はやってくる
川の流れは勢いづき 雨でその強さを増してゆく
五月になれば 彼女はここに留まり
再び僕の腕で眠りに就く
と始まり、「六月、彼女は気分を変え、七月、彼女は別れを告げることなく彼のもとを去った」と続く。
劇中のカレとカノジョとは正反対に、この歌詞は、カノジョは「旅」でありカレは「巣」として描かいている。実際にこの歌が挿入されたシーンは、「カノジョ」の母親との不倫のシーンで、ダブルミーニングとして捕らえることもできたからなお興味深かった。
さて、今回考察してみたのは、カノジョがカレのもとへ再び戻ったそもそもの理由は何であったということだ。
まず、女性が、一度別れた男のもとに戻る理由はそもそも必要なのか。女はメスの本能から、絶えず一定の安全と安心とが必要なだけで、そのときリストに挙がった誰かであれば改めて吟味や躊躇は必要なく戻ることができるのではないか。歌では、カノジョは結局カレを去って行くのだから、なおのこと然したる理由など必要とせず気まぐれにも近い感情でカレを訪れただけだったのかもしれない。その方が自然なのかもしれない。しかし、男はそう考える訳にはいかない。
昔の恋人が懐かしくなったのか、カレの優しさにまた触れたくなったのか、以前の自分に戻ろうとした…のか。なにがしかの理由はあったであろうと考える。いや、考えたい。
まず考えるべきは、カノジョがカレと離れていたあいだ、カノジョにはどんな出来事があっただろうか、どんな男に出会ったのだろうかということだ。
初めは、大方の男がそうであるように愛想がよく耳に心地よい言葉を並べ立て、カノジョに気を配り決して苛立たせることなくカノジョを舞い上がらせた。カノジョも心地良さのあまりその男に心も躯も許してしまったことだろう。
しかし、恋というやつは愛へ昇華せぬかぎり必ず終わりを迎える。
食事のしかたが気に入らない、いつも自分の股間に手を持って行く、おならをよくする、嫌いな言い回しがある、あるスペルがどうしても読めない、貧乏を自慢する、自分の嫌いなブリトニー・スピアーズ(この時代にはまだ生まれてもいない)が大好き、コカコーラよりペプシが旨いことを長々と説明する…。
些細な諍いが亀裂を生み、その裂け目はやがて埋まりようもないほど大きなものとなり、二人の心は急速に冷めていく。お決まりの道筋である。
それでも暫く二人は一緒に留まったであろう。互いが本物の終わりを確信するに至るには時間がかかる。「好き」というシンプルな感情が相手を慕う気持ちに変わるまで、それに確信を持つまで心の距離を保ったまま熟すのを待っている時間と同じように。「好き」から始まる時間の流れは、互いの距離を縮める時間だから、物理の法則を持ち出すまでもなく過ぎ去るのが速い。少なくとも速いと感じる。苦しさは痛痒さに変わり、辛さは想いが本物であるがこそと自分に言い聞かせることができる。幸せを感じることができる。
それに対し、「終わり」を迎える時の流れには絶えずブレーキを踏むがごとくゆっくりと苛々したものとなる。望ましからぬ結論を自らに納得させなければならない。相手の言葉や態度から、わざわざ「終わり」を裏付ける要素を選び出し、結論を補強しなければならない。つまらなく苦しい、そして徒労としった上での理論武装。重くなるばかりで晴れやかさはない。速く過ぎ去ってほしいという思いが時の流れを遅くする。待っているのは不幸な瞬間だからだ。
蜜月の終わりの瞬間が曖昧であるのに対し、離別の瞬間が明確であるのは、この重々しく苦しい時間に苛まれることを拒否する意思が明確である必要があるためだ。意識しなければ止めたことにならないからだ。だから、人は失恋から何かを学んだと錯覚する。
最終的に、どちらかが動きようのない鉄板の結論を得たと確信した瞬間、それまでの二人の関係性は、海中へ沈み込む氷河の突端のような勢いと速さで崩れ去る。一度沈んだ氷塊は二度と浮上することなく海底へ落ちていく。「なかったことにしましょう」
ここで歌のカノジョは、カレを選択し何かを求めた。何だったか。例に挙げたような類いの男との失恋であれば、理由はなんでもよい。もう少しマシな男が自分を幸せにしてくれる。思い込みでも何でもない、それは正解だ。しかし、その場合カノジョが再びカレを袖にする理由が希薄になる。幸せな家庭を作ればよいではないか。では、何であったのか?
この歌のカノジョが、この歌のカレのもとへ戻った理由のもう一つの仮説は、その間カノジョには何も起こらなかったというものだ。
何も起こらない日々に、人々は人恋しさを増す。ダイエットのため食事制限する者が、とにかく食べ物を欲するのと同じだ。そしてダイエットと同様に、「そんなのヤメー」と一度決めてしまえば、何でもよいから(誰でもよいから)目の前に現れた食料(男)を貪る。この際我が儘は抑え込んで、とにかく食らいつく。
こんな女性を都合よく頂戴する、俗に言うスケコマシという輩もいる。スケコマシは、こういった女性の隙を見逃さない。そして、この類いは、イージーマネーとイージーラバーを引きずらない。終わったらポイ。カノジョに何も起こらなかったというのは、この類いのスケコマシにも遭遇しなかったということだ。カノジョの寂しさは極限にまで達する。そうなればごく自然に、一度通過した男のリストからそのとき適当と思しき名をピックアップすることは自然であろう。しかし、これでは先に挙げた後半の歌詞との繋がりを見いだしにくい。カノジョは、ほんの二ヶ月ほどでカレを再び去ってしまうのだから。「旅」を続ける決心をするのだから。
一度カノジョを横に置き、カレの存在も考察してみる。
男は基本的に一度恋した女を嫌いになることはできないから、袖にされた相手であっても余程苦い水を飲ませられたわけでなければ、再び受け入れることができる。もちろん、抵抗や躊躇はあるが、結局受け入れてしまう弱さから男は逃げることができない。
だが、ここで問題なのは、何故このカレがカノジョによってピックアップされたかということだ。何故カレでなければならなかったかということだ。カノジョの心中にあったものは何であったかということだ。カレについての説明は、この歌詞にはほとんどない。言い換えればどこにでもいる平凡で普通の男と解釈できる。平凡で普通の男が、何らかの体験のうえ舞い戻った女性に与えることができるもの。それはいったい何なのか?
カノジョがカレとのあいだに新たな何かを生み出そうとは考えにくい。その何かの可能性は、前回ある程度想像ができていたはずだからだ。
それでは、カノジョはカレを媒体に「男と女」に関する何かを取り戻そうと考えたのか。置き忘れた何かがあったのか。元カレとわざわざ顔を合わせ時間を共にすることでとり戻すことのできる何か。優しさに触れる感触か、そこに生まれる安心感といった癒やしの要素なのか、それとも逞しさや強靱さといった雄が持つプロテクション機能か、初めて感じた胸の高鳴りといった初心か?
カノジョが再びカレを去るのは、それが何であったにせよ、充分にそれを得たと感じたからだろう。次に続く旅に必要なエネルギー補給を完了したと思えたからだろう。ほんの一二ヶ月で充分にとり戻ることのできる何か。いったい何だろう。
カノジョははじめからカレを去ることを決めていた。別れを告げずに去るぐらいだから、その時のカノジョは非常に自己チュー、よく言えば完全に自立できている。少なくとも旅に臨む覚悟ができている。次に求めたものは何だったのだろう。それまでに得ることができなかったものなのか、それとも更なる深淵を追求する価値のある既に手にしていたもののひとつなのか。
結論を出すことができない。きっとこれからも出ないだろう。
あの時代、この時代。男と女のあいだには、いつも似たような物語が生み出される。そして結末はあっても、結論が語られることはない。男が常に女に選択され捨てられる存在であることは数万年ものあいだ変わらぬ事実であるけれど、その理由に一つとして納得できるものではなく、また納得したいとも思わない。男であることから逃げられない私は、女の事が知りたい。マーケティング的もしくは兵法的にはまず自らを知ることが肝要であるけれど、それはまた男と女のあいだを理解するほどに難儀なことでもある。永遠に分からないのかもしれない。
歌はこう締めくくられている。
八月、カノジョは死んでしまったに違いない
秋風が寒々と冷たく吹き
九月、かつて初々しかった恋は今、年老いた
男は所詮、こう結論づけるしかない。