2011-09-08

ロッキーの三十年

シリーズ第一作が上映されたころ映画通を自認していた高校生の私は、先に映画館に足を運んだ同級生の意外な程の高評価に焦りを覚え、遅れをとってはならぬとロッキー上映館へ走った(記憶がある)。はじめはB級映画監督に無名俳優の低予算ボクシング映画というだけで、この作品を見下していたわけだ。ところが、このロッキーという映画、見てびっくり実に良くできていた。そして何と30年の歳月を経て、善くも悪くも「変わらぬアメリカ」を象徴する味わい深い作品となった。

高校生となり映画館通いを始めた私は、名画座でリバイバル上映され始めた所謂「アメリカンニューシネマ」と呼ばれる作品に傾倒していた。「今更、アメリカンドリームでもスポ根でもあるまい」とロッキーに対しては斜に構えていたのだ。実は第一作のロッキーは、日本公開の一年以上前に大橋巨泉が深夜番組イレブンPMで紹介されていた。映画紹介の曜日には殊更熱心にこの番組を見ていた私は、そのためストーリーや制作に纏わる諸々のネタを公開当時既に持っていた。「面白そうだな」というのがその時の印象で、数十年を経て未だ覚えているのだからその印象は相当なものだったはずなのだ。

ロッキーが制作される直前のアメリカは、ウォーターゲート事件により現役大統領が史上はじめて辞任に追い込まれ、ベトナム戦争の傷は未だ癒えず、そのための財政悪化と第四次中東戦争影響下でのオイルショックなど、政治的経済的に苦況に立っていた時期である。また、ベトナムのボートピープルの受け入れも加わった移民政策により有色人種やラテン系アメリカ人の増加、比例して増加する逆差別やプアホワイトの問題で米国人には非常に大きなストレスが蓄積していた。当時もう一般的なアメリカ市民は明日など信じていなかったかもしれない。が故に、アメリカの底辺に属する人々はロッキーのような物語を待っていた。日本の片田舎の頭でっかちな映画少年以外は。

一足先に病んだアメリカを自虐的に時にシニカルに描いたアメリカンニューシネマ作品の数々は、世の中に目を向け始めた当時の私の知的好奇心を満たす強力な情報源であると同時に世界を理解する指南書だった。アメリカンニューシネマの斜に構えたメッセージはとてもインテリに感じられた。「今更・・・」にはそんな背景があった。しかしどっこいロッキーは、頭でっかちで豆腐のように柔な私の脳みそをストレートなエネルギーでぐしゃりと押し潰す。「特別な存在でなくても何かになれる。アメリカンドリームは未だに存在するのだ」という真っ直ぐなメッセージが、シンプルなストーリーで語られる。捻りもなければどんでん返しもない。直球の剛速球。所詮映画なのだと心を静めようとしても、そこは高校生、あっという間に脳天を割られてしまった。良い大学=その後の良い人生と信じられていた当時の日本でそんなことを語るのは小田実ぐらいだった。

後に渡米して知ることになるのだが、アメリカ人はどれ程国が乱れたり弱ったりしても決してアメリカンドリームを失わない。アメリカンドリームはアメリカのアイデンティティのひとつなのだ。それを標榜するが故、人々は未だに成功を求めてアメリカを目指す。アメリカは基本的に移民の国だから、誰でも初めはゼロから出発する。それが当然なのだ。現在のように学生ローンの債務額が一般クレジットカードの債務額の合計を上回るような時代であっても、上位数パーセントの人間を除けば学位があろうがなかろうが、皆ゼロからスタートする。ゼロからスタートした者の中からまた新たな成功者が生まれる。スティーブ・ジョブスもその一人、レディーガガだってそうなのだ。名も知れぬ無数の夢追い人たちが、日本の少年と同様に、いや比較にならない程強烈にあの時代このロッキーという映画に脳天をぶん殴られたのだ。

自身アメリカンドリームを体現したスタローンは、以降のロッキーシリーズを自作自演する。それもまた成功した者として勝ち得た権利だ。2作目3作目は、所謂シークエルと呼ばれる作品で、最初のヒット作の基本テーマや骨子を変えずに物語だけをアレンジしていく。「頑張れば何でもできる。ドリームは終わらない」そう訴え続けた。しかしシークエルの多くはオリジナルを超えることはできないのが常で、ロッキーシリーズもご多分に漏れず酷い作品になった。4作目はさすがに知恵を絞りソ連のアフガン侵攻で高まった東西緊張をモチーフとして利用したものの、長いミュージックビデオを見せられているに等しい内容で更に低俗な作品となった。結局ロッキーは、殺されたアポロの復讐を果したに過ぎずドリームを追いかけることを止めてしまったかのようだった。

にもかかわらず、ロッキーシリーズ4作は興行的に成功している。理由はシンプルなものだ(と考える)。ロッキーは白人社会の中でも長く辛酸を舐めたイタリア系移民の子。スタローン自身、実生活では長い間不遇だった。スタローンの成功は現実で、化身がロッキーだ。移民やその子孫達で構成される多くのアメリカ市民にとって、スタローン(=ロッキー)のサクセスストーリーは底辺で喘ぐ多くのアメリカ人そのもののドリームとなった。ロッキーは、なるべくしてアメリカ社会のマイノリティの代表(=ヒーロー)となった。学歴もなく洒落たジョークが口にできるわけでもなく、イイとこの娘を嫁にするわけでもなく、まったくもって自分達の代表だったのだ。そんなヒーローには「勝ち続けてほしい」と思うのが洋の東西を問わず人情というもの。彼らは新たなシリーズ作が上映される度に映画館へ足を運んで自分達のヒーローを支えたのだ。

これがもし、スタローンが原作を持ち込んだ制作プロダクションの当初の思惑通り、ポール・ニューマンやロバート・レッドフォード、同じイタリア系でも既に大スターだったアル・パチーノが主役の座を担っていたらシリーズ化どころかオリジナル作品でさえこれほどのヒットに繋がったかどうかは分からない。ブ男で不器用そうで、見るからに苦労人であるスタローンの個性がこの映画の固定ファン層を生み出したことが、シリーズを支えたもうひとつの大きな理由であろう。周囲を見渡せばどこにでも居そうなチンピラアンちゃんであるスタローン。役作りで演じられ誇張され嫌みを匂わす「落ちこぼれ」とは異なる自然なダメさ。肉体を使うことによってしか社会に居場所を確保できない不器用さ。ゆえに自分の信念に真っ直ぐ向かい続ける愚直さ。スタローンの個性が醸し出す落ちこぼれ具合の何もかもが、年端のいかない子どもを含めたアメリカ市民の共感を得た。

乱暴な言い方になるが、アメリカ社会では、二種類の人間しかいない。成功した者と、未だそのチャンスを手にしていない者の二種類だ。JCペニーでショッピングカートを片付ける大学出のお兄さんも、危ない店の用心棒をして食いつないでいるボクサーも社会的なステータスとしては同じだ。片や気質の仕事で一方は危ない連中の手下という見た目の差はあっても、仕事が終わって屯するバーは同じ、そういう意味だ。だからおそらくロッキーは、一部の白人達にさえ支持された。1作目が制作されてから4作目までに約十年。ロッキーとともに成長した子供達の数はどれ程になるだろう。また、子供の手を引いてロッキーを見に映画館へ通った父親はどれ程だったであろう。親子はロッキーごっこに興じただろう。映画の思い出話をしただろう。おそらく多分に自らの苦労話と重ね合わせて。

本来打ち止めとなるはずだった5作目で、スタローンは自らメガフォンをとることを止め、オリジナルを監督したアビルドセンを招聘する。しかし結果は伴わなかった。アビルドセンが何故このオファーを請けたのかも疑問だが、より不可解なのはそれまでテーマとストーリーを捨ててしまったことだ。確かにベルリンの壁が崩壊し東西の緊張はなくなり、レーガノミクスにより豊かさを取り戻したかのようにも思えたこの時代。しかし、底辺から這い上がり豊かさを手に入れたのは、映画界のスターダムを上り詰めたスタローンだけだったのだ。一方、ロッキーを応援し続けた一般市民は格差の広がった社会の下層に留まっていた。ロッキーファンが求めていたのは、やっぱり豊になる夢だったのだ。

確かにこの時期アメリカ社会は荒れていた。親子や家族を見直そうという風潮もあった。だがそんな事は、ロッキーファンが実生活で日々直面している現実だ。お金を払って酔いたい話ではなかった。スタローンにしてみれば、興行的に成功はしていても作品として酷評され続けたシリーズを、最後の最後で良質なものに変えたかったに違いない。せっかく勝ち得た自作自演の権利を放棄してまで臨んだのだから当然だ。しかし、繰り返すがテーマが良くなかった。家庭崩壊の危機と破産。皆がそっぽを向くのは当然だった。実子を出演させたのも、弟子のトミー・ガンに苦労のなさそうな若者を選んだのも良くなかったのかもしれない。彼らは見るからに、普通の白人の家庭で育った若者だった。このシリーズに付き合ってきた多くのファンは、ロッキーが別人になってしまった気がしたに違いない。事実、シリーズ最低の興行成績だった。

そして15年後、誰もが期待せずロッキー・ザ・ファイナルが公開された。現代は、Rocky Balboa。つまりロッキー自身を語る映画だ。これまでロッキーは、成功を仰ぎ見る満たされない連中の代弁者だった。この映画では、成長し社会人となった息子へ語りかける手法を用いてロッキー自身が現代のアメリカ人に語りかけた。親の七光り(=学位や唯一の超大国市民である特権)で良い仕事に就いているのに満足を覚えられない息子(=アメリカ人)に対し、「我慢して闘い続けなければならない」「誰かのせいにするのは卑怯者のすることだ」とロッキーはしっ咤する。一方、自らも燃焼し切れていない夢追いの欲求を満たすために挑戦を決める。ロッキー(=スタローン)は未だ過去の英雄に成り下がったわけではないと。

老体(ちょうど私と同年代の設定だ)に鞭打ちトレーニングに向かうロッキーの目標は、スピードでもテクニックでもなく「メガトンパンチ」を蘇らせること。小細工無しの力勝負を宣言するのだ。ここに、映画人として成功はなし得たものの役者や監督としては酷評を浴び続けたスタローンの意地を見た気がする。CGを駆使して超人的な活躍をみせるスーパースーパースーパーヒーローが矢継ぎ早に登場する(ほとんどは、懐かしいアメコミのヒーロー達なのだが)昨今の映画界への反発だ。更に深読みすれば、頭でっかちで理屈や理論が先走り、時にアンフェアな闘いも言葉巧みに正当化してしまう、政治や経済のありかたへの批判もあったのではないだろうか。身体ひとつでのし上がったスタローンにしてみれば当然の叫びだったかもしれない。

彼は現役チャンピオンと死闘を繰り広げた末(=オリジナルと同じ設定)その結果をリングで待つことはせず息子と肩を組み控え室へと退いていく。死力を尽くしてやることをやったら、それで終い。結果は結果。批判も批評も耳に入れる必要はない。やることが重要なんだ。ロッキーは、そのメッセージが息子に充分に伝わったことが分かると、またそれまでの日常へ帰って行く。夢を完結できたのだ、もう燃やし残したものはない。映画の中でロッキーの息子は確かに父親のメッセージを受け取ったようだった。見た目に分かりやすい経済的な成功はけっして人間そのものを幸福にするわけではない。結局、本人がどう生きたいのかを決めなければならないのだと気づいたようにみえた。

ロッキー・ザ・ファイナルが公開された当時、アメリカは久々の好景気に沸いていた。ロッキーと共に生きた年代のアメリカ人に、この映画のメッセージはどのように届いただろうか。「真っ直ぐ闘え」 皮肉なことに、その後アメリカはリーマン破綻を引き金に金融危機を迎え、オリジナルのロッキーが制作された頃と同様の酷い有様となる。頭でっかちで、自ら仕掛けた小細工が仇となりアメリカの金融界は一時にっちもさっちも行かなくなった。しかし、間髪入れずに施された金融政策により原因を作った金融界の人々は何事もなかったようにバブリーな世界を取り戻した。一方で、効率的な金儲けのシステムに組み込まれなかった人々は、オリジナルのロッキー当時より更に悲惨な状況に追い込まれている。

普通の白人が明日の希望を抱けずに俯いていた70年代にロッキーは産声を上げた。ロッキーの愚直な生き方が、アメリカ人の魂を揺り動かし夢を持ち追い続けることの「正しさ」を思い出させた。80年代、再び成長力を取り戻したアメリカ人は、当時の日本人と同様にお金に走り、踊り狂って世の中をより複雑で扱いにくいものに変えた。ロッキーは、冷戦期の最後にちょっと強いアメリカそのものを演じたりしてみたが、東西の壁が取り払われると小さな家庭の問題を喚き散らすだけの、おおよそヒーローとはかけ離れた姿で消えていった。そして齢を重ね帰ってきた。本当の幸せが何なのか考えよう、それが分かったら信じて突き進もうというメッセージを残すために。

人種や文化、宗教の異なる数億人が暮らすアメリカは、国が誕生した頃からシンプルで理解しやすい成功象を提示してきた。それは、お金持ちになること。人物の出自や背景に関わらず、アイディアや才能や努力によって多額のお金を得た人間を成功者として賞賛してきた。そしてそれは数百年間変わることなくアメリカにおいて成功すること=ドリームとされてきたのだ。未だに増加し続ける外国からの移民も、目指すのは経済的な成功だ。だがアメリカ型の成功は大きなリスクも伴う。リーマンショックによって生じた多数の破産者が良い例であるように、今日の成功者が明日もその座に居座ることが保証されていないのだ。そしてアメリカ人は、そのリスクを受け入れ未だにアメリカンドリームを追い続けているのだ。

成功を手中にしたスタローン、おそらくレジェンドとして語り継がれるであろうスタローンが30年に渡って発し続けたメッセージ。最後に年老いたスタローンが残したメッセージは、アメリカに暮らす人々にどのように届いたであろうか。そして、偶然とはいえオリジナルのロッキー当時に思春期にあり、ファイナルでロッキーが迎えた年齢に達した私自身は、人生の後半に是が非でも成し遂げたいドリームなるものを果たして持ち続けているであろうか。この長文にお付き合い下さった皆様は、いったいいかがなものであろうか。