長い時を経て開高と再会した。呆と彷徨っていた私の目に、古本屋のワゴンに山積みされた薄黄色くなったカバーの中から開高の人懐こい目が笑いかけていた。1990年に出版された、週刊プレイボーイ「男になるための教養講座」の特別編集版だ。
開高健は、格好の良いオヤジだった。もう随分昔の人だから比べるのもなんだが、今時のチョイワル著名人など足下にも及ばない男っぽさがあった。小説家だが小説なんか書かないでアマゾンでピラクルなんかを釣っていた。ベトナム戦争へ出かけて行ってるのに、酒と食い物の話しかしない。パリを歩けば雲古と万古にしか目がいかない。
村上龍が就任する前に偉い文学賞の審査員を長いことやっていた。そういえば、村上の週刊プレイボーイの連載は開高の後を継いだものだ(と思う)。偉い小説家なのに、のっけから下ネタ全開の「男講座」だった。だから、幼さが抜けきらない高校生や大学生、勿論とうに抜けきった連中も喫茶店でニヤニヤしながら夢中で読んだ。
説教臭い話しはあまりない。ニヤニヤしながらスッゲーと思っていた。しかし、その頃の若いモン達は若いモンで、「そんなのどうってこうとないさ」っていう素振りを装った。ニヤニヤで誤魔化していた。中には凄さが分からずに本当にニヤニヤしていたたけの馬鹿も当然いた。当然、馬鹿は馬鹿で何かは感じていたと思う。でも、それが何なのかを確かめるためには、時代が拙すぎた。術がなかった。だから、馬鹿なヤツは鵜呑みにして国を飛び出した。
一方で、植草甚一がいた。今にしてみればサブカルの元祖のような人で、彼も面白かった。単行で出版されたソフトカバーの植草シリーズには、馬鹿な若いモン達が嵌らずにいられないキラキラした話題が満載された。「カトマンズでLSDを一服」なんて来られたらもう堪らなかった。植草の文章は最も新しい情報だった。どんどん出てきた。しかし、情報でしかなかったのも事実だ。「スッゲー」そのものの情報だった。インターネットだった。
開高は、ニヤニヤの中にそれを籠めた。ほんのり漂うスッゲーの素を練り込んだ。だから覚えている。覚えているから考える。考えるから、悶々とする。悶々とするから動き出す。術なんて分からないからとにかく動いてみる。そうしてみんな殻を破っていった。お利口さんは無駄なことはしないから、きちんと別の殻の中に自分を嵌め込んだ。馬鹿はそんな器用な真似ができずにはみ出した。
バブルが過ぎて、開高は死んで、村上は二人とも教祖になって、老けただけの馬鹿は未だに馬鹿のままだ。「男になるための教養講座」に収録された「小さな死」というエッセイの最後の一行を引用して、この駄文を終えよう。
「といいながら小生は立ちもせず、死にもせず、ただ座っている」