2008-03-21

新東京タワー

新東京タワーの名称が、6つに絞られてしまったようだ。
「東京EDOタワー」「東京スカイツリー」「みらいタワー」「ゆめみやぐら」「ライジングイーストタワー」「ライジングタワー」
「新東京タワー」という名称は、登録商標の問題で使用できないとあった。

しかし、新東京タワーの名称は、どう考えても「新東京タワー」しかないだろう。買えばいいのに。東京人は、そのあたりに意地を張るべきだ。そういうところにはお金を使うべきだ。エッフェル塔を眺めれば、パリはエッフェルさんに負けてしまったのだなあと、ため息がでる。東京はよかったなあと、またため息が出る。

その登録商標とやらが、実際にどの程度の問題なのかは知らないが、いまさら「EDO」なんて意味が分からないし、「スカイ」だとか「ツリー」だとか「みらい」や「ゆめ」なんて、それこそ先の時代の人たちから「頭が悪かったんじゃないの」と酷評されるのがオチだろう。妙な横文字にせず、「東京」と名付けたから皆がこれほど愛せたのに。安直なアイディアに落ち着かせたりしたら、新名所どころか平成の恥だぞ。

絶対「新東京タワー」だ。そう思うだろう。

ちなみに、1945年の今日3月21日には、大本営が硫黄島玉砕を発表した。

2008-03-04

ワーカーズハイ

今年も2ヶ月が過ぎた。時間の経過はこれほどにゆっくりとしたものであっったろうか。

年明け直ぐに最初の仕事にとりかかり、首都圏のあちらこちらを回る。実労時間は短いものだが、終止気を張りつめている必要がある。一語も聞き漏らすわけにはいかない。相手が無責任に吐き出す言葉の中から意味のある言葉だけを抽出し、ちょっとしたニュアンスの変化に裏を読む。笑顔を絶やさず相槌を打ちながら、手元では異常な速さでペンが走る。予定の時間が経過し、「では私はそろそろ別の会議がまっておりますので」と相手が席を立つ。どっと力が抜ける。緊張と解放を繰り返すとエンドルフィンが体中に分泌されているのがわかる。ランナーズハイなどと同様、一種のトランス状態に襲われる。しかし連日では流石に疲れる。よかった連休だ。

連休を明けて直ぐ、約10日間別の案件で缶詰にされる。文字通り缶詰で、小さな部屋で対象者と二人きり。まるで刑事と被疑者のようだ。刑事は終止笑みを浮かべていなければならない。ただでさえ緊張状態にある被疑者が、供述を拒まないようにするためだ。「さあ、怖くはないよ。正直にいってごらん」休みなく吐き出される質問に対象者はへとへとだ。しかし、確たる証拠を掴むまで彼を解放するわけにはいかない。ビデオを通して模様の監視を続けるデカ長や他の刑事達も苛立ちを隠せない。しかし、相手はもう限界だ。「しようがない、最後の質問に答えたら、今日のところは解放してやろう」相手の目に安堵の色が浮かぶ。そこを空かさず「言っておくがな、適当な答えに騙されるような俺じゃないからな」相手が頷く。5分後彼はカツドン代を手にし、背中を丸めて立ち去る。こちらを振り返る者は誰一人いない。

2月に入ると、また別の案件でIT企業への潜入を試みる。手強い相手にはこちらも徒党を組んで相対する。しかし、敵も然る者なかなか尻尾を出さない。手を換え品を換え、何とか急所を突こうとするが上手く行かない。結局、目的を達することなく退散することになった。「現地へ乗り込もう」寄せ集めではあってもプロの集団。リーダーの一声で、半数の人間が成田へ向かう。準備期間は殆ど無いに等しい。暗号のような難解な文章に機内で目を通しながらこの先一週間のミッションを把握する。

最初の渡航地では観光客になりすまし、人の流れに身を隠して目的の地へ辿り着く。一転ビジネスマンモードに切り替えると、手振り身振りを大袈裟に、リアクションも出来るだけ派手に振る舞いながら胸を張って人を掻き分ける。最初のアポイント先。単独で先行した斥候が既に10件に及ぶ予定を組んでいる。我々後発の部隊が定められた時刻と場所に現れ、見下した態度で情報を収集する。未だ日本市場の幻想係数は高く、偽造した名刺とそれなりの基礎情報を与えれば、相手は這いつくばるように希少な情報を差し出す。「何卒おねげえしますだ、お代官様」予想以上の収穫に部隊一同にうっすら笑みさえ浮かんでいる。しかし、次なる地で待ち受ける相手はレベルが異なる。心しなければならない。

日本からと同様に、各々が別々の便で次の目的地に飛ぶ。集合時刻、全員が旅行者になりすました身なりでおち合う。人通りを避け路地を分け入る。一軒の鄙びたビストロを発見しドアをくぐる。客は我々だけのようだ。主人は年老いたフランス人。他に従業員の姿も見あたらない。隅のテーブルに着き早速翌日の行動について打合せを始めた。安全が確保されている状態といえども細心の注意は怠らない。一つの文章を単一の言語で完了してはならない。英語、日本語、イタリア語やその他の言語を織り交ぜて話す。
料理が運ばれるたびに会話が途切れる。訝しげな主人に愛想笑いを返し、一口頬張る。悪くない。次には仕事を抜きに訪れてもよいだろう。料理を平らげると同時に打合せを終了する。時刻は深夜を回っていた。立ち去る間際に店のサインに視線を送ると、タイユバンとあった。

翌日、我々は古式豊かなスパイ小道具を身に着け相手先を訪れた。最新の電子機器は携帯電話を含め全て没収される。万年筆に仕込んだフィルム式の超小型カメラ、メガネのフレームに組み込んだ超小型のテープレコーダーなどなどを分担して持ち込む。全ての言葉に大袈裟に相槌を打つ。相手は、未開の土着人を見るような目つきで我々を眺め、なんでも来いと大風呂敷を広げる。思わず口からこぼれる機密情報。全ての会話が記録されている。目的は達した。

その翌日、既に全員が機内に居る。仮眠をとる者は誰もいない。帰国後この部隊の一部は、別の目的地へ向けタッチアンドゴーだ。私にも次なる使命が待っている。

数日後、新幹線の車中にいる。都内で別件の尋問を済ませ、場所を大阪に移して同様の取り調べに入る。少しばかり疲労を覚える。他人のことなどお構いなしの同行者は、一つ覚えのように「お好み焼き」を繰り返し口にしている。海外の仕事と異なり、国内では食事に不都合がない。しかし反面、組む者の質にばらつきが生じ本来無用な神経を遣う。だが俺はプロとして仕事を請け負う。泣き言はない。ただ、与えられた役割をこなす。

ようやく2月が終わった。じきに半世紀を迎える肉体は少々辛さを感じ始めているが、おそらくこの仕事から当分は足が洗えない。

2008-01-02

新年にイチロー、の目に涙

「ファンを圧倒し、選手を圧倒し、圧倒的な結果を残す」NHKの番組で、イチローが口にしたプロフェッショナルというものの定義だ。この言葉を実践しているのは誰かと問われれば、誰でもが真っ先にイチローの名を挙げるだろう。イチローは、自分の定義するプロフェッショナルを自らが実践している一流中の一流だ。34歳とはいえ、数々の修羅場をくぐり抜けてきたことは想像に難くない。

今年イチローは、プレッシャーから逃れることをせずそれに立ち向かって自らを超える、と覚悟を決めたという。200本を目前にすると毎年のように襲いかかる重圧に精神が変調をきたし、体調まで狂わすことさえあると本人が認める。これまではその重圧から逃げてきた。なんとか重圧から逃げおうせて、これまで200本を達成してきたというのだ。あのイチローがだ。どれほどの重圧だというのだ。凡庸な男に想像は不可能だ。

加えて今年はもうひとつ、メジャー通算3度目の首位打獲得のためのそれが加わった。相手のMagglio Ordonezにしてみれば、イチロー相手の競争に勝ったとなれば単に首位打者という以外にもうひとつの勲章が加わるほどの意味がある。勝ちたい。一方イチローは、昨年メジャーで3度目の最多安打を記録していながら首位打者のタイトルを逃している(http://mlb.yahoo.co.jp/japanese/profile/?id=1861840)。こちらも此処まで来たからには是非ものにしたい。

シーズン終盤に差し掛かり益々記録を伸ばしたオルドネスに対し、イチローは差を縮めることができず、戦いは最終戦までもつれ込んだ。結果、イチローは争いに敗れ、試合中にもかかわらずフィールド上で何度も涙を拭うシーンがテレビスクリーンに映されていた。
「今年は野球を心から楽しむことが出来ましたか?」というインタビュアーの質問に、「それが見え始めた」とイチローは答えている。また、「目に見えないものが重要、目に見えないものだから超えるのがたいへん」とも口にした。目に見えないものを超えようと必死の努力をした先に、首位打者獲得という目にも鮮やかな目標が見えていた。競争に敗れたイチローは涙を流すほどに感極まり、その結果、大好きな野球を子供の頃と同様に楽しむことのできる感覚を取り戻しつつある。

7年の間毎朝同じメニューを作り続ける妻の努力も含め、自分で定めたプログラムを一日も欠かすことなく正確に努力し続けているイチローは、生活のほとんど全てを野球のために捧げているように見える。先には光があるだろうと思うが、未だ目の前には真っ暗な闇があるばかりだと言う。だからこそ挑み続けられるのだ、と努力を怠らない。事実毎年のようにバッティングフォームの改造に取り組んでいるという。あのイチローでさえ、である。

数年前同様のテレビ番組の中で、どうしてそんなに努力できるのかという問いに対し「当たり前です。僕がいくら貰っていると思っているんですか」と答えたイチローは、以前にも増してファンへのサービスと野球界に対する誠意を自らの存在意義と掲げながらも、今年新たに野球を楽しむための覚悟を決めたと語ったのだ。

これを、名誉も金も充分に手にした成功者が残り少なくなってきた野球人生をいよいよ自分自身のために費やそうと考え始めたと見るか、天才と呼ばれる男が道を究めるために更なる高みへ上ろうとしていると捉えるかは各々が感じるままでよい。しかし、我々凡庸な人間のいったいどれ程が、人前で涙堪えることができぬほどの感情の高まりを覚える戦いを挑んでいるのかと自問すれば、思わず腹の奥で低い唸り声を発するのは私だけではないだろう。イチローは確かに34歳の青年であるが、この道16年のベテランでもあるのだ。

2007-12-30

今年に限った事ではないのだが、つい年末に思ってみたりすること

年末になると、あれやこれやこの一年の記憶を辿ってみたりする。少しばかり年齢が嵩んだせいか、何時の出来事だったかが不確かな記憶も多くなる。月日だけならまだしも、今年のことだったか去年だったか・・・。まだその端緒ににしか至らぬはずなのに、老いるとは嫌なものだと思ったりする。

記憶のメカニズムは解明されているというのに、忘却のそれは未だであると聞く。何を基準に、どういう仕組みで忘れるべき記憶を、脳が選択しているのかが分からないのだという。つまりはさっぱり分かっていない。記憶の仕組みを脳のそれに習ったコンピュータは、だから「消去」を自らが選択しなければならない。そのうち所有者の忘却パターン(そんなものがあればの話しだが)に合わせて、不要なファイルをパソコンが勝手に選別してドンドン消し去ってくれるようになるかもしれない。「ちょっと、待ってよ!それは消さなくていいのよ」という嘆きが職場に満ちる日が来るかもしれない。

話しを戻せば、どうしても思い出すことが出来ない事柄があるように、全く忘れる事の出来ない記憶がある。初恋への告白を前にした鼓動の大きさや、初めて立った異国で嗅いだ空気の臭い、家族が増えたときの胸のたかなりと減ったときの痛み。大凡誰でもが個々の人生の重要事件として認める出来事は、強い記憶として保持している。
しかし、たったひとつ、おそらくは地球上の人々ほぼ全員にとって最も重要なはずのある日のことを、ほぼ全員が覚えていない。それは自分が生まれた日のことだ。
説に拠れば、幼児期の一定期間は、母親の胎内での記憶から出産時のことまでを、誰でもがきちんと保持しているという。しかし、それらは他の手によって記録に残されることでもない限り、当の本人のなかからは消え去ってしまうのが普通だ。
反対に、この瞬間を一生涯忘れずに持ち続けている人々もまた存在する。当然のこと、母親だ。九ヶ月に及ぶ妊娠期間は、男には理解し得ない強固さで母親と子の一体感を育むに違いない。男親とて、直接肉体的な経験はできないにしろ、我が子の誕生の瞬間は深く刻まれている。往々にして男親にとって子の誕生の瞬間には時間差を伴う。ましてや一度助産婦さんの手を経ての接触であったりするから尚更だ。しかし、この僅かな時間差でさえ、強く深く刻まれる瞬間であったりする。「いいから、早くだかせろ!」みたいな。

自分がこの世に生まれ出るという最重要事件は、本人が保持することができず、別の者の記憶の中に生きている。皮肉なことだ。どんなにお誕生日会を重ねたところで、誰も「ところで、生まれた時ってどんな感じだった?」とか「生まれて直ぐ何がしたかった?」なんて訊かれることはないし、そんなこと考えてみることもない。そころが、「あなたの時は、陣痛が来なくって」とか「出張先から5分おきに電話したよ」とか、親は全くよく覚えている。

更に皮肉なことに、大概唯一の記憶保持者である親は、大事な記憶のバックアップもとることなくその大事な記憶を一緒に抱えたまま先に逝く。親のおかげでこの世の中に存在していた自分自身の最も大事な記憶は、親の死とともに失われてしまう。

人生の折り返し地点は過ぎた。記憶容量の多少に関わらず、記憶すべき事象との遭遇は減ってくる。寂しいが現実だ。そのせいか、何時のことからか記憶の優先順位が変化した。記憶に留めようとする事柄のなかから、自身に纏わることが減り、代わって家族の出来事についてが圧倒的な勢いで増えてきた。父親としてしくじることが許されないはずのシャッターチャンスを忘れて家族の表情を凝視していたりする。まるで、その瞬間を自分のものだけに閉じこめておこうとでもするように、衰えかかった目力を最大限に活用して見つめている。

年末の白昼夢から覚めて、今年一年をかけて作ってきた記憶の整理に取りかかる。そしてふと気がつく。優先順位が高いはずの記憶を、一瞬でしかない貴重な想い出を、自らが作り出そうと奔走したことがどれだけ僅かであったかを。来年に持ち越す課題が去年のものと同じであることを。来年はもう今年と同じ記憶が作れるはずもないことを。

2007-10-20

とまどうペンギン

ホームの端に設置された喫煙コーナーの周囲には、早朝の新幹線のドアが開くのを待つ出張のサラリーマン達が越冬の皇帝ペンギンさながらに群れている。皇帝ペンギンほど愛らしくも微笑ましくも見えないのは、彼らの表情に生死を賭けた必死さも愛する者との再会を切望する哀愁の交じった幸福感も浮かんでいないことだ。命を賭して卵を守る父親の俯き加減の顔には、混迷した政局の打開に苦悩するこの国の政治的責任者よりはるかに切実な生命に対する責任の重さを伺うことができるし、わずかに肩が丸められていても決して揺るぐことのない背筋には挫折を繰り返しながらも諦めることを知らない孤独な地球環境学者の信念を彷彿させるものがある。

ホーム端の階段を登り終えた外国人観光客数名が、その場に立ち止まり笑みを浮かべた。その内の一人が昨日秋葉原で購入したばかりのパナソニック製のデジカメを引っ張り出し、シャッターボタンの位置を確認しながら狙いをつける。ツァイスのレンズが向けられた先には、毛並み悪い鼠色した動物の群が、集団の中央から狼煙のような煙をもうもうと立ち上らせている。今日一日をなんとかやり過ごすことのみを願う脆弱な精神と、一時ではあるにせよこの世で最も恐ろしげな顔を持つ配偶者から遠ざかることこそが現実的な唯一の幸福であるとの矮小な哲学を信望する、決して皇帝に登り詰めることのできない種族の生き物達。

外国人観光客は一度シャッターを切ったのち、カメラの角度を変えながら眼前の真実を一層リアルな記録に留めようと試行を続ける。彼はやがて我に返ってファインダーから目を遠ざけ、その試みが最新テクノロジーの粋を集めたこの機器に対し、また人生の貴重な時間と金を費やし訪れたこの国に対しての冒涜であるとでも悟ったのであろうか、一瞬口元を歪めて過ぎ去って行った。

私は、左手に書類の詰まった鞄とビニル袋の中で斜めに傾いだ鳥飯弁当をぶら下げ、二本目のタバコに火を灯しながらその一部始終を眺めてていた。

2007-06-11

三つの魂

この週末はスポーツの話題が目に付いた。新人、超ベテラン、若くして現役を退いたアスリートたち。

F1のカナダGPで、今年マクラーレンからエントリーした英国人の黒人ドライバー、ルイス・ハミルトンが、PPスタートでそのままフィニッシュした。黒人ドライバーが優勝したのも初めてならば、ルーキーが6戦目での優勝というのも1996年ジャック・ビルヌーブが4戦目で優勝して以来の快挙だ。

モータースポーツには金がかかる。昨今、アジア・中東の富豪が金の力でさほど実力もないドライバーにシートをあてがった例は幾つかあるが、マクラーレンのような欧州の名門F1チームが若い頃から目をつけ養成し、実力で這いあがってきたハミルトンのような例はこれまでない。有色人種という意味でだ。勿論、目をつけられるまでは家族がその費用を捻出していたわけだから、ハミルトン家は裕福な家庭に違いない。

しかし、金があれば這いあがれるわけではないのも欧州を中心に繁栄するモータースポーツの世界。まして、英国のように「クラス」が存在する国では、たとえ金があろうともクラスに属さない人間が易々と良い車を手に入れられるわけではない。実力の拮抗する白人ドライバーがいれば良い道具や環境がそちらへ向ってしまうことも想像に難くない。我々がこの国で耳にしたときに思い浮かべることのできるレベルをはるかに超えた、差別というものが以前存在する。

いかほどのものであったろう。家族の苦労、本人の苦労。そしてまた、彼をプロモーとしようと決断した人間が周囲を説得する際の苦労。結果が出なかったときの本人を含めた関係者の苦労。このままハミルトンが年間チャンピオンになれば、いやたとえ二番手、三番手で終わったとしても、シーズン中盤からは彼が話題の中心となり、これまでの軌跡が華々しくそして美しく語られることだろう。

F1の世界での禁句は、「金の話」と「昨日のこと」けっして泥や汗にまみれ、あいた傷口が膿んで醜い傷跡になったハミルトンの陰が披露されることはない。チャンピオンやそれに次ぐヒーローは、光り輝くスターとして奉り上げなければならないのだ。ハミルトンの夢、そして彼を新たなスターとして伝説化しようとするF1界の夢はまだ始まったばかりだ。

今日早朝のゲームを前に、深夜桑田を取り上げた番組が放映されていた。そのなかで桑田は涙を見せた。昇格が決まった桑田に背番号18が用意されたことを耳にした瞬間だ。桑田は、39歳。りっぱなオジサンである。そして20年間巨人に在籍した一流の投手である。しかしこの数年間、正しく言えば右肘を負傷して以来、桑田がそれ以前のようにまぶしい輝きを見せることはなかった。

桑田は現在の松坂と同様に高校生ルーキーとして華々しい活躍を見せ、西武に入団した清原との両輪で当時のプロ野球を大いに沸かせた。真に実力を伴った期待の星だった。そして以降数年に渡り彼の活躍はまばゆい光りを放ちつづけた。1994年、槙原、斎藤、桑田の当時の三本柱を投入した中日との優勝を決める最終戦は日本中のファンの目をくぎ付けにし、今も語り継がれている。桑田は最も強く最も頼もしい名実ともに日本球界のエースだった。

人気実力ともピークにある翌95年、彼はピッチャーフライを補球するためファールグラウンドでダイビングキャッチを試みた際、右肘に致命的な負傷を負った。アメリカで手術を受け、長いリハビリの末復帰した。しかし、以前のような輝きを取り戻すことはなかった。

どれほどの精神力だったろう。選手生命を断たれても不思議でないほどの大怪我に直面し、保証のない手術や果てしのないリハビリを支えた本人の忍耐と夫人の支援。藤田・長島・原と続いた常勝を義務付けられた指揮官達の支援。そこからくるプレッシャー。桑田が背負っていたのは巨人のエースナンバー18だった。たとえエースナンバーを着けていようが、輝きを失ったプレーヤーからは当然ファンの眼差しも遠ざかってゆく。本人が折れてしまえばそこで、ジ・エンドだった。

しかし、「20歳のときに思った」と本人の口から発せられたその夢は、20年の長く苦労の多いプロ野球選手人生を通して絶えることなく抱きつづけられた。皮肉にも今年メジャー昇格を決める3月27日のオープン戦で、桑田は再び大きな試練に遭遇する。右肘を痛めたときと同様にファールグラウンドへ走りこんだとき、こともあろうか審判と接触。右足首を負傷した。「これで終わったかと思った」しかし、桑田はそれでも諦めることなく、フィールドに戻ってきた。そして今日、晴れてメジャーのプレーヤーとしてマウンドに立った。桑田の夢は、そう簡単に諦められそうにない。

一年前から、「氏」を添えられて報道されるようになった中田がフィールドを駆けまわっていた。ともにプレーするのは、ジダン、フィーゴといった世界の一流たち。フィーゴが主催したチャリティーマッチに招待され45分間プレーした。

トレードマークでもあった金や銀に染められた短髪ではなく、ペルージャ移籍当時を思いださせる長めの髪の毛をしていた。前半控えに回った中田の表情からは現役当時の鋭さが消え、どこか戸惑いを感じさせるようでもあった。旅人として世界中をまわる中田からは以前のような闘争心が失われてしまったのであろうか。当然だろう。彼はいま何処へも向かってはいない。

中学生だった中田は、当時既にメディアから注目され、そのニキビ面の童顔は臆することもなく海外でのプレーを口にしていた。そこから約5年の間に各クラスの代表を経てJリーグ入りし、ほぼ同時にA代表入りも果たした。そして、二十数年振りのオリンピックに日本を導き、イタリアへと渡った。ペルージャの活躍で名門ローマへ迎えられ、日本人では初めてのスクデット獲得メンバーにもなった。プレーヤーとしての絶頂期を迎えた。

どこまで登り詰めるのかとの期待を受けて、出場機会の少ないローマを去りパルマへ。しかし、その後の中田は起用法の問題で機能せず、最後はプレミアリーグへ移籍したが再び渡伊時の輝きを見せることはなかった。そして、2006年WCでのプレーを最後に現役を引退した。プロサッカープレーヤーとして彼が抱いた夢がどのようなものであったかは知りえないが、決して満たされた晩年ではなかった。

その後の彼は、一部企業の経済的な価値を理由に露出される以外、メディアへ登場することもなくなった。中田は約10年の現役時代に100億円におよぶ収入を得たと報道された。30歳の青年は現在経済力を頼りに、次の夢を模索する旅を続けている。

年上の現役や引退した花形プレーヤー達と再会し、中田は何を思ったであろうか。引退した後もサッカーを通じて世界に存在するジダンを目にし、またサッカープレーヤーとしての恩恵を社会に還元するため世界中のスタープレーヤーを呼び寄せたフィーゴに触れ、中田は新たな夢の一端が見えただろうか。一個人を超えた存在であることを認識する彼らとの友好は彼にどんな意識を植えつけたのだろうか。

旅の意味は目的地を探すことではない。目的地を持たなければ、それは彷徨。一度定めた目的地を目指し、様々な困難を超え、喜びを感じることが旅だ。また、定めたつもりの目的が異なると知れば、あらたな目的地に向って歩みを進める。そして若さはそこに躊躇を生まない。歩きつづける、それが旅を意味あるものにする。そして人は死ぬまで旅を続ける。夢を見つづける。

2007-06-06

エーべーか

「エーベーか(欧米か)」二歳半になる三男坊の近ごろお気に入りのフレーズだ。叱りつけると睨み付けるようにこの言葉を返してくる。「それは、オマエだろうが」とこちらも返してやる。互いに意味は通じていないが何となく納得する。

朝の新幹線で仙台へ向かった。車中でチェックしたメールに友人の米国人からのものがまぎれていた。1ヵ月前から仕事のため仙台に滞在しているはず。久しぶりに顔を合わせてみるのもよいだろう。そんなことを思いながら読み進めば、「フロリダから」とある。どうやら仕事を辞めて帰国したやうだ。「自身の選択ではなかったが」と続けられていた。

「仕事はお金のため。日本が好きなんだ」と口にしていた彼。その日本を諦めるどんな理由があったというのだろう。

「仙台には温泉はあるか?」と大の温泉好きに問われ、仙台の三大温泉地を地図にして手渡した。「これは問題にはならないか?」と背中いっぱいに彫り込まれた世界地図を指差す。ならばと「怪しい者ではない。日本文化をアピールするためにも、是非温泉に浸からせてやってほしい」と宿主に手紙を認めて持たせた。1ヵ月ほど前のことだ。

五月に入ってすぐ、仙台に移動した彼にメールを送った。「牛タンは美味いか?温泉は楽しんだか?」今日のメールはそれに対する返信だった。以前は間髪をおかず返信してくれていた。音沙汰のないのは無事の証拠というが、この間如何程のことが降り掛かったというのだろうか。

「負けるが勝ち」という言葉を教えたことがある。片方の眉をぴょんと持ち上げ、大変に興味深いと頷いていた。「しかし、私はアメリカ人。私の方法でいってもいいか?」と、絡んできた酔っ払いの腕をへし折っていた。

「AKIYUという処で温泉を楽しんだ」と事の経緯には一切触れないところは、さすがに欧米か。続けてあった「プライベートな風呂だったので、あの手紙を使う必要はなかった」という一文に、露天で一人湯槽に浸かり物思いに耽る彼の姿を思い浮べ哀愁を感じるのは「ニッポン」だからか。

長町という本来彼が務めているはずの駅に降り立つと、線路の高架脇の広大な敷地のなかに、ビッグハットと呼ばれるシルクドソレイユの巨大なテントが少し萎んだようにたたずんでいた。