また近しい人間が死んだ。病気を患い高齢でもあったので、死そのものに悲しみを感じることはなかった。死が特別なものであるとは考えない。死は、耐用年数を終えた、もしくは障害を負った肉体が不全な状態を経過したのちに機能停止するという至極自然な現象であると考えることにしている。
死に対する客観的な捉え方に比較すれば、私の場合、生の不可思議さに対する興奮と興味はどうしようもなく、ひたすら感情的に奇跡などと口走りがちである。生命はどのようにしてできあがるのか。謎であり故に奇跡である。故に最も貴重である。
生命を構成するに必要な物質は解明されている。しかし、それを集めただけでは決して生命は誕生しない。物質が生命たるには、非常にシビアな条件に加え何らかの「力」を必要とする。稲妻が走って奇妙な機械が光を放っても、フランケンシュタインの怪物に命が宿ることはない。稲妻のパワーはおそろしく強力であろうと考えるが、その程度では電気回路をショートさせることはできても、一度死んだ脳を蘇らせることはできないし、生きた細胞からクローンを作ることもできない。
命を扱う科学は、予め命を宿した細胞や臓器を扱うのが常識である。クローンも臓器や皮膚の移植も生きたものしか使えない。言い方を換えれば、命を宿したものであれば、稲妻パワーなどを使用しなくとも新たな命や命にとって必要な機能を再生することができる。どんなパワーが宿っているのだ。
命は多くの場合、男(雄)と女(雌)がそれぞれ一個づつの細胞を提供し、互いがくっついて一つのものとなった時に生まれる。興味深いのは、ES細胞を使えば身体のどの細胞も作れるといいながら、そこから新たな個体が自然に形作られることはないのに、卵子と精子がくっつけば、基本的にはたった一個の細胞から全ての細胞が生み出され完全に自立した個体を作る。たとえ新たな生命を生み出すに至らなくても細胞そのものには既に命が宿っている。本当に不思議だ。やはり奇跡だ。
DNAが遺伝子が、・・・。そんなことを口走る輩も居るだろうが、ではいったいそれらは何だ。遺伝子であれば干からびたものでも使用可能なのか?DNAは螺旋構造であれば、自己複製できなくても役に立つのか?それらは、それらで生きている状態の時のみ意味がある。DNAや遺伝子そのものにもやはり命が宿っていることになる。(理論的には、琥珀に閉じこめられた蚊から、その蚊が吸った恐竜の血に含まれた遺伝子を取り出して、爬虫類の卵に移植すると恐竜の遺伝子をもった爬虫類が生まれる可能性があるらしいが、映画ジュラシックパーク以外には未だ実現はしていない。ロサンジェルスには、死亡した人間を急速冷凍保存 -- 急速冷凍でないと意味がないらしい -- して、後の進んだ時代がやって来た時に蘇生させる会社があるが、いまだ進んだ時代はやってきていない)
精子と卵子が受精して、できちゃったものといえども、本当に最後まで育つとは限らない。私自身は経験できないが、そんなことも経験した。何がそうさせるのか?おそらく健全な成長に必要な条件が整わなかったからだ。飲酒もナシ喫煙もナシ、ストレスはそれなりにあったと思うが、精神科を要する程ではなかった。何故なんだ?
命は、実は非常に脆く繊細なものなんだ。生きているから、それに気が付かないだけなんだ。命が周りにたくさん溢れているから、特別な気がしないだけなんだ。
命は特別だ。何よりも特別だ。特別なものだから重要だ。重要だから大切に扱わなければならない。大切に扱うためには、その大切さを知らなければならない。そしてそれは簡単なことだ。命には記憶が伴う。ある命があれば、必ずその命に纏わる記憶がある。別の命が与えてくれた記憶は特別の意味を持つ。誰かの記憶とは、実は自分が生きた証なんだ。それを考えさえすれば、命には摩訶不思議な特別なパワーが宿っているのだということを誰でも理解し得るはずだ。
一方、死を嘆くことは当然のことだ。死には痛みや感情が伴い、多くの場合それらの苦しみを払いのけるには長い月日と努力が必要だ。しかし、もっと大切なのはその命が生前に与えてくれた貴重な記憶をどう心の中に生かすかだ。だって、記憶を持つということは今自分の命が生きているということだから。そのことに気付いて、感謝することができたりしたら、命の特別さは人の中で完璧になる。
命身短し恋せよ乙女。映画「生きる」の冒頭シーンで志村喬が公園のブランコで歌っていたシーンが印象的だった。どう死ぬかを考えるということは、どう生きるかを考えることなんだ。まず生きることを考えるんだ。
命短し恋せよ乙女。
2008-05-09
”告発のとき”
敬虔なプロテスタント信者の息子として育った息子であったが、彼はイラク戦争という狂気に触れ、侵され蝕まれた。そこでできた無数の心の穴を埋める事ができず、やがてその穴から滲み出る己の狂気すらも制御できなくなり、ほんの些細なきっかけで肉体を暴走させる。一瞬ではあるがそれは快感として肉体の記憶に刻まれ、その刺激に陶酔し生の苦しみを忘れるようになる。心の喪失と捩れによって自らが作り出した麻薬物質が脳内を充たし、中毒し、そして墜ちていく。
彼は殺され、父親はその理由を解明した。
いい映画だ。みんなこういう映画を見るべきだ。
なお、前段は私が勝手に読んだ行間であり、具体的な描写があるわけではないので悪しからず。
それからもうひとつ、助演のシャーリーズ・セロンはいい女だぞ。
彼は殺され、父親はその理由を解明した。
いい映画だ。みんなこういう映画を見るべきだ。
なお、前段は私が勝手に読んだ行間であり、具体的な描写があるわけではないので悪しからず。
それからもうひとつ、助演のシャーリーズ・セロンはいい女だぞ。
2008-05-08
ではある
男と女が乗り込んできて目の前に立った。文庫本に目を落としていた視界に入ってきたのはまず女の足で、彼女の右足はその位置に着いた途端に靴を脱いだ。
二人とも両手でつり革にぶら下がるほど酔ってはいるのだが、男の言葉ははっきりしており、いや語尾に力をという意志が感じられ、一方女はと言えば脱いだ靴を踏み潰して頑張った右足で体重を支え、踵が外れかかった左足の踝は異常なほどに折れ曲がり、しかも電車の揺れに合わせてクネクネ踊り続けている。
左隣の女は俯いたまま何かに怯えるように体をビクつかせ、正面に深く座り込んだ女に至っては、もう膝を閉じる事さえできない。
丸ノ内線、終電一本前のありふれた風景ではある。
二人とも両手でつり革にぶら下がるほど酔ってはいるのだが、男の言葉ははっきりしており、いや語尾に力をという意志が感じられ、一方女はと言えば脱いだ靴を踏み潰して頑張った右足で体重を支え、踵が外れかかった左足の踝は異常なほどに折れ曲がり、しかも電車の揺れに合わせてクネクネ踊り続けている。
左隣の女は俯いたまま何かに怯えるように体をビクつかせ、正面に深く座り込んだ女に至っては、もう膝を閉じる事さえできない。
丸ノ内線、終電一本前のありふれた風景ではある。
2008-04-10
無題
コインランドリーで。
先に訪れていた老人が、洗濯し終わった衣類を乾燥機に放り込んでいる。仏頂面ではある。が、言うことを聴かなくなった体への苛立ちや、ついて行くことが難しくなった時勢への憤懣を露にするだけのよくいるタイプの年配者というわけでもない。来るべき時のために今の有り様を反芻するかのような眉間の皺。バタリと乾燥機を閉め、彼は一度その場を立ち去った。
長椅子に腰を下ろしてタバコに火を点け、途中まで読み進んだ池波正太郎を捲る。浅野内匠頭と吉良上野介。どちらかの過失というより、時を含めた巡り合わせであったのだ、と。
一〇分程して先の老人が戻る。前と同様仏頂面で乾燥機から衣類を取り出し、備え付けの衣類台の上で手早くたたむとまた無言で場を立ち去った。先は短い。ぐずぐずしている暇はないのだ。老体とはいえ、体の動きに切れはまだ残り、一陣の風のような印象。
気がつくと彼の持ち物らしい袋がテーブルに置き去りにされている。彼が去ったドアの方角に視線を送るが、その姿はすでに消えている。乳白色の薄いビニルに中身が透けて見える。処方薬のようだ。氏名に目を凝らすとそこには「大石力」とある。驚きを隠せずやおら開いたままの文庫に目を戻せば、まさに主税(ちから)の父、大石内蔵助の冒頭だった。
先に訪れていた老人が、洗濯し終わった衣類を乾燥機に放り込んでいる。仏頂面ではある。が、言うことを聴かなくなった体への苛立ちや、ついて行くことが難しくなった時勢への憤懣を露にするだけのよくいるタイプの年配者というわけでもない。来るべき時のために今の有り様を反芻するかのような眉間の皺。バタリと乾燥機を閉め、彼は一度その場を立ち去った。
長椅子に腰を下ろしてタバコに火を点け、途中まで読み進んだ池波正太郎を捲る。浅野内匠頭と吉良上野介。どちらかの過失というより、時を含めた巡り合わせであったのだ、と。
一〇分程して先の老人が戻る。前と同様仏頂面で乾燥機から衣類を取り出し、備え付けの衣類台の上で手早くたたむとまた無言で場を立ち去った。先は短い。ぐずぐずしている暇はないのだ。老体とはいえ、体の動きに切れはまだ残り、一陣の風のような印象。
気がつくと彼の持ち物らしい袋がテーブルに置き去りにされている。彼が去ったドアの方角に視線を送るが、その姿はすでに消えている。乳白色の薄いビニルに中身が透けて見える。処方薬のようだ。氏名に目を凝らすとそこには「大石力」とある。驚きを隠せずやおら開いたままの文庫に目を戻せば、まさに主税(ちから)の父、大石内蔵助の冒頭だった。
2008-03-21
新東京タワー
新東京タワーの名称が、6つに絞られてしまったようだ。
「東京EDOタワー」「東京スカイツリー」「みらいタワー」「ゆめみやぐら」「ライジングイーストタワー」「ライジングタワー」
「新東京タワー」という名称は、登録商標の問題で使用できないとあった。
しかし、新東京タワーの名称は、どう考えても「新東京タワー」しかないだろう。買えばいいのに。東京人は、そのあたりに意地を張るべきだ。そういうところにはお金を使うべきだ。エッフェル塔を眺めれば、パリはエッフェルさんに負けてしまったのだなあと、ため息がでる。東京はよかったなあと、またため息が出る。
その登録商標とやらが、実際にどの程度の問題なのかは知らないが、いまさら「EDO」なんて意味が分からないし、「スカイ」だとか「ツリー」だとか「みらい」や「ゆめ」なんて、それこそ先の時代の人たちから「頭が悪かったんじゃないの」と酷評されるのがオチだろう。妙な横文字にせず、「東京」と名付けたから皆がこれほど愛せたのに。安直なアイディアに落ち着かせたりしたら、新名所どころか平成の恥だぞ。
絶対「新東京タワー」だ。そう思うだろう。
ちなみに、1945年の今日3月21日には、大本営が硫黄島玉砕を発表した。
「東京EDOタワー」「東京スカイツリー」「みらいタワー」「ゆめみやぐら」「ライジングイーストタワー」「ライジングタワー」
「新東京タワー」という名称は、登録商標の問題で使用できないとあった。
しかし、新東京タワーの名称は、どう考えても「新東京タワー」しかないだろう。買えばいいのに。東京人は、そのあたりに意地を張るべきだ。そういうところにはお金を使うべきだ。エッフェル塔を眺めれば、パリはエッフェルさんに負けてしまったのだなあと、ため息がでる。東京はよかったなあと、またため息が出る。
その登録商標とやらが、実際にどの程度の問題なのかは知らないが、いまさら「EDO」なんて意味が分からないし、「スカイ」だとか「ツリー」だとか「みらい」や「ゆめ」なんて、それこそ先の時代の人たちから「頭が悪かったんじゃないの」と酷評されるのがオチだろう。妙な横文字にせず、「東京」と名付けたから皆がこれほど愛せたのに。安直なアイディアに落ち着かせたりしたら、新名所どころか平成の恥だぞ。
絶対「新東京タワー」だ。そう思うだろう。
ちなみに、1945年の今日3月21日には、大本営が硫黄島玉砕を発表した。
2008-03-04
ワーカーズハイ
今年も2ヶ月が過ぎた。時間の経過はこれほどにゆっくりとしたものであっったろうか。
年明け直ぐに最初の仕事にとりかかり、首都圏のあちらこちらを回る。実労時間は短いものだが、終止気を張りつめている必要がある。一語も聞き漏らすわけにはいかない。相手が無責任に吐き出す言葉の中から意味のある言葉だけを抽出し、ちょっとしたニュアンスの変化に裏を読む。笑顔を絶やさず相槌を打ちながら、手元では異常な速さでペンが走る。予定の時間が経過し、「では私はそろそろ別の会議がまっておりますので」と相手が席を立つ。どっと力が抜ける。緊張と解放を繰り返すとエンドルフィンが体中に分泌されているのがわかる。ランナーズハイなどと同様、一種のトランス状態に襲われる。しかし連日では流石に疲れる。よかった連休だ。
連休を明けて直ぐ、約10日間別の案件で缶詰にされる。文字通り缶詰で、小さな部屋で対象者と二人きり。まるで刑事と被疑者のようだ。刑事は終止笑みを浮かべていなければならない。ただでさえ緊張状態にある被疑者が、供述を拒まないようにするためだ。「さあ、怖くはないよ。正直にいってごらん」休みなく吐き出される質問に対象者はへとへとだ。しかし、確たる証拠を掴むまで彼を解放するわけにはいかない。ビデオを通して模様の監視を続けるデカ長や他の刑事達も苛立ちを隠せない。しかし、相手はもう限界だ。「しようがない、最後の質問に答えたら、今日のところは解放してやろう」相手の目に安堵の色が浮かぶ。そこを空かさず「言っておくがな、適当な答えに騙されるような俺じゃないからな」相手が頷く。5分後彼はカツドン代を手にし、背中を丸めて立ち去る。こちらを振り返る者は誰一人いない。
2月に入ると、また別の案件でIT企業への潜入を試みる。手強い相手にはこちらも徒党を組んで相対する。しかし、敵も然る者なかなか尻尾を出さない。手を換え品を換え、何とか急所を突こうとするが上手く行かない。結局、目的を達することなく退散することになった。「現地へ乗り込もう」寄せ集めではあってもプロの集団。リーダーの一声で、半数の人間が成田へ向かう。準備期間は殆ど無いに等しい。暗号のような難解な文章に機内で目を通しながらこの先一週間のミッションを把握する。
最初の渡航地では観光客になりすまし、人の流れに身を隠して目的の地へ辿り着く。一転ビジネスマンモードに切り替えると、手振り身振りを大袈裟に、リアクションも出来るだけ派手に振る舞いながら胸を張って人を掻き分ける。最初のアポイント先。単独で先行した斥候が既に10件に及ぶ予定を組んでいる。我々後発の部隊が定められた時刻と場所に現れ、見下した態度で情報を収集する。未だ日本市場の幻想係数は高く、偽造した名刺とそれなりの基礎情報を与えれば、相手は這いつくばるように希少な情報を差し出す。「何卒おねげえしますだ、お代官様」予想以上の収穫に部隊一同にうっすら笑みさえ浮かんでいる。しかし、次なる地で待ち受ける相手はレベルが異なる。心しなければならない。
日本からと同様に、各々が別々の便で次の目的地に飛ぶ。集合時刻、全員が旅行者になりすました身なりでおち合う。人通りを避け路地を分け入る。一軒の鄙びたビストロを発見しドアをくぐる。客は我々だけのようだ。主人は年老いたフランス人。他に従業員の姿も見あたらない。隅のテーブルに着き早速翌日の行動について打合せを始めた。安全が確保されている状態といえども細心の注意は怠らない。一つの文章を単一の言語で完了してはならない。英語、日本語、イタリア語やその他の言語を織り交ぜて話す。
料理が運ばれるたびに会話が途切れる。訝しげな主人に愛想笑いを返し、一口頬張る。悪くない。次には仕事を抜きに訪れてもよいだろう。料理を平らげると同時に打合せを終了する。時刻は深夜を回っていた。立ち去る間際に店のサインに視線を送ると、タイユバンとあった。
翌日、我々は古式豊かなスパイ小道具を身に着け相手先を訪れた。最新の電子機器は携帯電話を含め全て没収される。万年筆に仕込んだフィルム式の超小型カメラ、メガネのフレームに組み込んだ超小型のテープレコーダーなどなどを分担して持ち込む。全ての言葉に大袈裟に相槌を打つ。相手は、未開の土着人を見るような目つきで我々を眺め、なんでも来いと大風呂敷を広げる。思わず口からこぼれる機密情報。全ての会話が記録されている。目的は達した。
その翌日、既に全員が機内に居る。仮眠をとる者は誰もいない。帰国後この部隊の一部は、別の目的地へ向けタッチアンドゴーだ。私にも次なる使命が待っている。
数日後、新幹線の車中にいる。都内で別件の尋問を済ませ、場所を大阪に移して同様の取り調べに入る。少しばかり疲労を覚える。他人のことなどお構いなしの同行者は、一つ覚えのように「お好み焼き」を繰り返し口にしている。海外の仕事と異なり、国内では食事に不都合がない。しかし反面、組む者の質にばらつきが生じ本来無用な神経を遣う。だが俺はプロとして仕事を請け負う。泣き言はない。ただ、与えられた役割をこなす。
ようやく2月が終わった。じきに半世紀を迎える肉体は少々辛さを感じ始めているが、おそらくこの仕事から当分は足が洗えない。
年明け直ぐに最初の仕事にとりかかり、首都圏のあちらこちらを回る。実労時間は短いものだが、終止気を張りつめている必要がある。一語も聞き漏らすわけにはいかない。相手が無責任に吐き出す言葉の中から意味のある言葉だけを抽出し、ちょっとしたニュアンスの変化に裏を読む。笑顔を絶やさず相槌を打ちながら、手元では異常な速さでペンが走る。予定の時間が経過し、「では私はそろそろ別の会議がまっておりますので」と相手が席を立つ。どっと力が抜ける。緊張と解放を繰り返すとエンドルフィンが体中に分泌されているのがわかる。ランナーズハイなどと同様、一種のトランス状態に襲われる。しかし連日では流石に疲れる。よかった連休だ。
連休を明けて直ぐ、約10日間別の案件で缶詰にされる。文字通り缶詰で、小さな部屋で対象者と二人きり。まるで刑事と被疑者のようだ。刑事は終止笑みを浮かべていなければならない。ただでさえ緊張状態にある被疑者が、供述を拒まないようにするためだ。「さあ、怖くはないよ。正直にいってごらん」休みなく吐き出される質問に対象者はへとへとだ。しかし、確たる証拠を掴むまで彼を解放するわけにはいかない。ビデオを通して模様の監視を続けるデカ長や他の刑事達も苛立ちを隠せない。しかし、相手はもう限界だ。「しようがない、最後の質問に答えたら、今日のところは解放してやろう」相手の目に安堵の色が浮かぶ。そこを空かさず「言っておくがな、適当な答えに騙されるような俺じゃないからな」相手が頷く。5分後彼はカツドン代を手にし、背中を丸めて立ち去る。こちらを振り返る者は誰一人いない。
2月に入ると、また別の案件でIT企業への潜入を試みる。手強い相手にはこちらも徒党を組んで相対する。しかし、敵も然る者なかなか尻尾を出さない。手を換え品を換え、何とか急所を突こうとするが上手く行かない。結局、目的を達することなく退散することになった。「現地へ乗り込もう」寄せ集めではあってもプロの集団。リーダーの一声で、半数の人間が成田へ向かう。準備期間は殆ど無いに等しい。暗号のような難解な文章に機内で目を通しながらこの先一週間のミッションを把握する。
最初の渡航地では観光客になりすまし、人の流れに身を隠して目的の地へ辿り着く。一転ビジネスマンモードに切り替えると、手振り身振りを大袈裟に、リアクションも出来るだけ派手に振る舞いながら胸を張って人を掻き分ける。最初のアポイント先。単独で先行した斥候が既に10件に及ぶ予定を組んでいる。我々後発の部隊が定められた時刻と場所に現れ、見下した態度で情報を収集する。未だ日本市場の幻想係数は高く、偽造した名刺とそれなりの基礎情報を与えれば、相手は這いつくばるように希少な情報を差し出す。「何卒おねげえしますだ、お代官様」予想以上の収穫に部隊一同にうっすら笑みさえ浮かんでいる。しかし、次なる地で待ち受ける相手はレベルが異なる。心しなければならない。
日本からと同様に、各々が別々の便で次の目的地に飛ぶ。集合時刻、全員が旅行者になりすました身なりでおち合う。人通りを避け路地を分け入る。一軒の鄙びたビストロを発見しドアをくぐる。客は我々だけのようだ。主人は年老いたフランス人。他に従業員の姿も見あたらない。隅のテーブルに着き早速翌日の行動について打合せを始めた。安全が確保されている状態といえども細心の注意は怠らない。一つの文章を単一の言語で完了してはならない。英語、日本語、イタリア語やその他の言語を織り交ぜて話す。
料理が運ばれるたびに会話が途切れる。訝しげな主人に愛想笑いを返し、一口頬張る。悪くない。次には仕事を抜きに訪れてもよいだろう。料理を平らげると同時に打合せを終了する。時刻は深夜を回っていた。立ち去る間際に店のサインに視線を送ると、タイユバンとあった。
翌日、我々は古式豊かなスパイ小道具を身に着け相手先を訪れた。最新の電子機器は携帯電話を含め全て没収される。万年筆に仕込んだフィルム式の超小型カメラ、メガネのフレームに組み込んだ超小型のテープレコーダーなどなどを分担して持ち込む。全ての言葉に大袈裟に相槌を打つ。相手は、未開の土着人を見るような目つきで我々を眺め、なんでも来いと大風呂敷を広げる。思わず口からこぼれる機密情報。全ての会話が記録されている。目的は達した。
その翌日、既に全員が機内に居る。仮眠をとる者は誰もいない。帰国後この部隊の一部は、別の目的地へ向けタッチアンドゴーだ。私にも次なる使命が待っている。
数日後、新幹線の車中にいる。都内で別件の尋問を済ませ、場所を大阪に移して同様の取り調べに入る。少しばかり疲労を覚える。他人のことなどお構いなしの同行者は、一つ覚えのように「お好み焼き」を繰り返し口にしている。海外の仕事と異なり、国内では食事に不都合がない。しかし反面、組む者の質にばらつきが生じ本来無用な神経を遣う。だが俺はプロとして仕事を請け負う。泣き言はない。ただ、与えられた役割をこなす。
ようやく2月が終わった。じきに半世紀を迎える肉体は少々辛さを感じ始めているが、おそらくこの仕事から当分は足が洗えない。
2008-01-02
新年にイチロー、の目に涙
「ファンを圧倒し、選手を圧倒し、圧倒的な結果を残す」NHKの番組で、イチローが口にしたプロフェッショナルというものの定義だ。この言葉を実践しているのは誰かと問われれば、誰でもが真っ先にイチローの名を挙げるだろう。イチローは、自分の定義するプロフェッショナルを自らが実践している一流中の一流だ。34歳とはいえ、数々の修羅場をくぐり抜けてきたことは想像に難くない。
今年イチローは、プレッシャーから逃れることをせずそれに立ち向かって自らを超える、と覚悟を決めたという。200本を目前にすると毎年のように襲いかかる重圧に精神が変調をきたし、体調まで狂わすことさえあると本人が認める。これまではその重圧から逃げてきた。なんとか重圧から逃げおうせて、これまで200本を達成してきたというのだ。あのイチローがだ。どれほどの重圧だというのだ。凡庸な男に想像は不可能だ。
加えて今年はもうひとつ、メジャー通算3度目の首位打獲得のためのそれが加わった。相手のMagglio Ordonezにしてみれば、イチロー相手の競争に勝ったとなれば単に首位打者という以外にもうひとつの勲章が加わるほどの意味がある。勝ちたい。一方イチローは、昨年メジャーで3度目の最多安打を記録していながら首位打者のタイトルを逃している(http://mlb.yahoo.co.jp/japanese/profile/?id=1861840)。こちらも此処まで来たからには是非ものにしたい。
シーズン終盤に差し掛かり益々記録を伸ばしたオルドネスに対し、イチローは差を縮めることができず、戦いは最終戦までもつれ込んだ。結果、イチローは争いに敗れ、試合中にもかかわらずフィールド上で何度も涙を拭うシーンがテレビスクリーンに映されていた。
「今年は野球を心から楽しむことが出来ましたか?」というインタビュアーの質問に、「それが見え始めた」とイチローは答えている。また、「目に見えないものが重要、目に見えないものだから超えるのがたいへん」とも口にした。目に見えないものを超えようと必死の努力をした先に、首位打者獲得という目にも鮮やかな目標が見えていた。競争に敗れたイチローは涙を流すほどに感極まり、その結果、大好きな野球を子供の頃と同様に楽しむことのできる感覚を取り戻しつつある。
7年の間毎朝同じメニューを作り続ける妻の努力も含め、自分で定めたプログラムを一日も欠かすことなく正確に努力し続けているイチローは、生活のほとんど全てを野球のために捧げているように見える。先には光があるだろうと思うが、未だ目の前には真っ暗な闇があるばかりだと言う。だからこそ挑み続けられるのだ、と努力を怠らない。事実毎年のようにバッティングフォームの改造に取り組んでいるという。あのイチローでさえ、である。
数年前同様のテレビ番組の中で、どうしてそんなに努力できるのかという問いに対し「当たり前です。僕がいくら貰っていると思っているんですか」と答えたイチローは、以前にも増してファンへのサービスと野球界に対する誠意を自らの存在意義と掲げながらも、今年新たに野球を楽しむための覚悟を決めたと語ったのだ。
これを、名誉も金も充分に手にした成功者が残り少なくなってきた野球人生をいよいよ自分自身のために費やそうと考え始めたと見るか、天才と呼ばれる男が道を究めるために更なる高みへ上ろうとしていると捉えるかは各々が感じるままでよい。しかし、我々凡庸な人間のいったいどれ程が、人前で涙堪えることができぬほどの感情の高まりを覚える戦いを挑んでいるのかと自問すれば、思わず腹の奥で低い唸り声を発するのは私だけではないだろう。イチローは確かに34歳の青年であるが、この道16年のベテランでもあるのだ。
今年イチローは、プレッシャーから逃れることをせずそれに立ち向かって自らを超える、と覚悟を決めたという。200本を目前にすると毎年のように襲いかかる重圧に精神が変調をきたし、体調まで狂わすことさえあると本人が認める。これまではその重圧から逃げてきた。なんとか重圧から逃げおうせて、これまで200本を達成してきたというのだ。あのイチローがだ。どれほどの重圧だというのだ。凡庸な男に想像は不可能だ。
加えて今年はもうひとつ、メジャー通算3度目の首位打獲得のためのそれが加わった。相手のMagglio Ordonezにしてみれば、イチロー相手の競争に勝ったとなれば単に首位打者という以外にもうひとつの勲章が加わるほどの意味がある。勝ちたい。一方イチローは、昨年メジャーで3度目の最多安打を記録していながら首位打者のタイトルを逃している(http://mlb.yahoo.co.jp/japanese/profile/?id=1861840)。こちらも此処まで来たからには是非ものにしたい。
シーズン終盤に差し掛かり益々記録を伸ばしたオルドネスに対し、イチローは差を縮めることができず、戦いは最終戦までもつれ込んだ。結果、イチローは争いに敗れ、試合中にもかかわらずフィールド上で何度も涙を拭うシーンがテレビスクリーンに映されていた。
「今年は野球を心から楽しむことが出来ましたか?」というインタビュアーの質問に、「それが見え始めた」とイチローは答えている。また、「目に見えないものが重要、目に見えないものだから超えるのがたいへん」とも口にした。目に見えないものを超えようと必死の努力をした先に、首位打者獲得という目にも鮮やかな目標が見えていた。競争に敗れたイチローは涙を流すほどに感極まり、その結果、大好きな野球を子供の頃と同様に楽しむことのできる感覚を取り戻しつつある。
7年の間毎朝同じメニューを作り続ける妻の努力も含め、自分で定めたプログラムを一日も欠かすことなく正確に努力し続けているイチローは、生活のほとんど全てを野球のために捧げているように見える。先には光があるだろうと思うが、未だ目の前には真っ暗な闇があるばかりだと言う。だからこそ挑み続けられるのだ、と努力を怠らない。事実毎年のようにバッティングフォームの改造に取り組んでいるという。あのイチローでさえ、である。
数年前同様のテレビ番組の中で、どうしてそんなに努力できるのかという問いに対し「当たり前です。僕がいくら貰っていると思っているんですか」と答えたイチローは、以前にも増してファンへのサービスと野球界に対する誠意を自らの存在意義と掲げながらも、今年新たに野球を楽しむための覚悟を決めたと語ったのだ。
これを、名誉も金も充分に手にした成功者が残り少なくなってきた野球人生をいよいよ自分自身のために費やそうと考え始めたと見るか、天才と呼ばれる男が道を究めるために更なる高みへ上ろうとしていると捉えるかは各々が感じるままでよい。しかし、我々凡庸な人間のいったいどれ程が、人前で涙堪えることができぬほどの感情の高まりを覚える戦いを挑んでいるのかと自問すれば、思わず腹の奥で低い唸り声を発するのは私だけではないだろう。イチローは確かに34歳の青年であるが、この道16年のベテランでもあるのだ。
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